M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

「チェルト君のひとりごと」は電子ブックへ移りましたhttp://forkn.jp/book/4496

イタリアで学んだ三番の世界 #2

2018-02-25 | エッセイ




 仙台でのイタリア語ボランティア

 僕の心臓君の問題は、無医村に近い伊豆高原では対応がつかなくなって、急遽、最先端の医療を求めて、東北大学病院のある仙台市に移ることになった。仙台でもイタリア語を生かしたボランティアがしたいと、仙台市の国際交流ネットワークに参加した。



 <仙台ボランティアID>

 主な活動は二つだった。

 仙台の宮城教育大学には、イタリア・ペルージア大学と定期的な交流があった。早速、大学に市瀬先生を訪ねてボランティアで出来ることはないかとお尋ねした。すると、ペルージア大学との間に短期交換留学制度があって、毎年8月の末からクリスマスまで4~5名の学生が仙台に滞在するという。この学生たちのホームステイなどに参加していただけたら…という提案をもらった。早速その年の秋、その中の一人の面倒を見ることが決まった。それがラウラという、頭の切れが良く、目の美しい、優しいピエモンテ出身のお嬢さんだった。



 <ラウラ>

 イタリアからの学生たち、オーストラリアからの留学生、イタリア・スローフード関連の人たち、仙台でイタリア語を勉強している人たちなどを招いて、マンションのバンケット・ルームで、僕はパーティを開いた。20名強の人が集まって、賑やかなパーティになった。みんなの持ち寄りの料理が並び、差し入れのワインの瓶が林立し、楽しい会になった。特に人気があったのは、僕の膝に抱かれている、ミニチュア・シュナウザーのチェルト君だった。彼は、このパーティの立派なホストだった。



 <パーティ>

 もう一つの活動は、仙台市のIVネットワークが主宰するイタリア関連の行事に参加することだった。イタリア語を勉強する日本人の市民にイタリア語を教えるクラスを開いているイタリア人のサポートだった。伊東でのイタリア語クラスのサポートがそのまま、役に立った。完全な通訳とはいかないけれど、イタリア人と日本人の間に立つことが出来た。

 仙台国際センターでペルージア大学からの留学生が開いたイタリア料理教室にも合流し、本物のイタリア人によるイタリア料理の紹介もでき、たくさんの市民に喜んでもらった。さらには東北大の国際交流クラブに友達ができ、そのイベントなんかにも参加出来て、たくさんの異民族たちの人と交流の楽しい時間を過ごすことも出来た。



 <イタリア料理教室>

 一番深い付き合いになったのは、イタリア・パルマから来たオルネッラさんとの親交だった。彼女は、ネットワークのイタリア語講座の先生だった。仙台国際交流センターで、女性を中心に月に二回の講座を開いていた。初めてのイタリア語の人もいて、日本語とイタリア語の構造的な大きなギャップに困っていた人たちへのサポートをかってでた。もちろん僕も、イタリア語に触れる機会が増えて楽しかった。



 <オルネッラさんの送別会>

 イギリス人のご主人が、東北大から京都大学へ転勤することになって、一家は仙台を離れて京都に移った。その後、京都からの足取りが分らなくなって、音信不通になってしまった。とても残念だ。パルマの名前が出ると、必ず、彼女の事を思いだしてしまう。

 その後は、僕の心臓君の機嫌が悪くなって、ボランティア活動を積極的に行うことはできなくなってしまった。でも、僕の中では、僕がミラノの冬の霧の中で温かくしてもらった時の一万分の一でも、お返しが出来ていたらな…と思っている。

 ボランティアは当事者、双方に何か形にならないものを残してくれる。自分の世界を広げてくれる楽しみがあるからだろう。こうした機会を持てたことに感謝している。
 
 横浜に帰ってからも、この種のボランティアを探しているのだが、なかなか見つからない。通訳の仕事だとか、イベントのアテンダントとかの型通りのものだけで、みんなで一緒になって何かやり遂げるといったより深い相互交流のものを探しているのだが残念、見つからない。

 横浜でもイタリア語か英語関連のボランティア活動を見つけるつもりで、アンテナを高く張っているつもりだが、なかなか。心臓君のご機嫌を伺いながらの活動になるけど、何かあったら、ご一報ください。お願いします。


イタリアで学んだ第三の世界 #1

2018-02-11 | エッセイ



 29歳で初めて赴任した僕は、ミラノで当時としては珍しい日本人だった。イタリア語はほとんど話せない僕に、土地の人はとても優しくしてくれた。マンションの管理人、お医者さん、トラトッリアのカメリエーレ(給仕)、床やさん、イタリア語の先生、会社の友達たち、町で出会った数知れない人たちなどにお世話になった。こうした人たちの優しさが、ミラノに対する好印象を僕に与えた。



 <第三の世界>

 彼らの生活をよく見てみると、仕事と家庭の他に、何か三番目の世界を持っていた。たとえば、会社ではコンピュータの組み立てをしているブルーカラーの人が、イタリア・カヌー全国協会の理事だったりして、そのギャップにビックリ。会社での自分より、地域社会における自分の方が、数段、皆に必要とされ尊敬されているわけだ。もちろん、彼も人生を楽しんでいる。

 こんな世界を、ワルツの世界と僕は例えている。日本人はどちらかというと、オイッチニ、オイッチニの二拍子(仕事⇔家庭)の世界だけれど、彼らはワルツの三拍子の世界に住んでいると感じたわけだ。

 日本人は、男はがむしゃらに仕事中心の世界にドップリ。でも退職すると何もやることがなくて、カミさんに邪魔にされるってことも…。僕の年上の部下の人にも、そんな例がいくつかあった。彼らは二拍子の一拍を失ったら、動けないのだ。三拍子のワルツなら一つを失っても、まだ二つの世界があるから自分の世界が開けるのだが…。

 僕がSEという仕事の他に、何かやろうと始めたのがTA(交流分析)の研究だった。それは単なる学びではなくて、自分自身をよりよく知り、他の人との交流の質を上げるためでもあった。おかげで、僕の交流の世界は広がった。さらには、TAがセカンドライフの僕の仕事になっていった。つまりカウンセラーという仕事の糸口は、この第三の世界から始まったわけだ。

 SEの仕事を早期退職、カウンセラーを始めた。すると、もう一つの世界がやはり欲しくなった。それが、ボランティアの世界だった。英語とイタリア語を使ったボランティアがやりたかったのだ。僕が昔ミラノで受けたイタリア人からの好意に対するお返しにでも…、と思ったからでもあった。積極的に語学関係のボランティア活動を探した。それが僕の次の第三の世界になっていった。

 ちなみに、ボランティア活動とは、ボランティア白書に次のように定義されている。

「個人が自発的に決意・選択し、人間の持っている潜在的能力や日常生活の質を高め、人間相互の連帯感を高める活動」

 伊東市とイタリア・リエティ市との交流 ボランティア1

 僕がオーストラリア移住を健康問題であきらめた時、横浜から移り住んだのが伊豆高原だった。伊東市とイタリアのリエティ市が、国際交流をしているのを僕は知った。イタリアとの交流に何かにお役にたてたら、僕がミラノで受けた恩義にわずかでもお返しが…と思ったからだ。もちろん僕自身も楽しみながら。



 <リエティの樽乗りと伊東のたらい乗り:そっくりな競技>

 ローマが州都のラッチオ州リエティ市(ローマから北東へ80㎞の町)では、昔からワイン樽を半分に切ったものに若者が乗り込み、年一度、地区対抗競争をしていたそうだ。リエティ市が偶然、伊東の「たらい乗り」を知り、そこで交流が始まったと聞く。

 僕は交流協会の会員になって、この交流に参加した。リエティ市との間では、密な関係が出来ていた。毎年の高校生による相互訪問や、リエティからの短期留学生による伊東市民を対象とするイタリア語講座の開催とか、リエティ市から寄贈されたモニュメントの設置イベントなど、さまざまだった。

 僕は、リエティからの学生がやるイタリア語講座のサポートに時間を使った。ひと夏、4週間くらいのイタリア語クラスの補助をやるのだ。イタリア語が初めての市民の方々に、全く日本語とは違うイタリア語の構造的な特質を日本語で解説し、イタリア語で質問できない事を、日本語で説明してあげるとかの役割だ。僕のイタリア語の勉強にも勿論なった。



 <イタリア年>

 2001年は「日本におけるイタリア年」だった。リエティからボランティアの6名がやって来て、オリーブオイルを絞る大きな石臼を記念碑として伊東に設置、寄贈した。この6週間の間のイタリア語によるサポートは、大きな出来事だった。



 <石臼>

 完成式典には、イタリア大使も出席され、リエティの市長をはじめ、多くのイタリア人が伊東市民に暖たかく迎えられ、巨大な石臼が伊東市の「リエティ広場」に出現した。この石臼の据え付け作業をしたチームの中に、今は亡くなったフルヴィオがいた。彼は金属加工の専門家で、ローマ・ポポロ広場に立つサンタ・マリア・デル・ポポロ教会の丸屋根の修復工事に参加した経験を持っていた。1099年頃の教会の屋根だった鉛の素材と、それを止めていた釘を、記念に僕にプレゼントしてくれた。重かったろうに。



 <屋根の鉛の板と釘>

 その2に続く