M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

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親父との旅・国東

2019-01-20 | エッセイ

 親父と旅に出たことは、本当に数少ない。記憶が確かなのは、親父が年を取って、一人では出かけられなくなってからのものだ。それ以前は親父と旅することを、僕が心の中で拒絶していたからかもしれない。



 <国東半島>*1

 親父との精神的な別れを幼稚園の5歳のころに決断し、中学2年生の時、親父から高校から先は、もう面倒は見られないなと言われた頃から、物理的にも別れていたからだろう。その後、何十年も経って、僕に子供が出来てから、元旦に子供たちと4人で、谷中から丘を降りた親父の鶯谷の家を訪ねるという決まりはあったが、一緒に旅に出るということは無かった。

 大分県の国東を旅したのは、僕の姪が、大分市出身の阪大卒のG君との結婚式を、大分市でやるからと招待を受けたからだ。姉と親父と、僕の3人での旅となった。誰が言い出したのか分からないが、寝台列車「富士」で、東京から大分まで行くことになった。ブルートレインに乗って行こうと言い出したのは、僕だったかもしれない。その頃は、国内線の飛行機は、とてつもなく高かったのだ。

 東京から親父が乗ったブルトレを横浜駅で姉と僕とで待っていたら、ちょっと心配そうな顔をした親父が窓越しに手を挙げていた。コンパートメントに入って、3人で座ったら、やっと安心したようだった。



 <ブルトレ「富士」>*2

 ブルトレの選択が間違いだったのに気付いたのは、大阪を出て広島へ向かう深夜だった。寝台に横になっていると、想像もしなかったショックがあるのだ。ブレーキをかけて列車が止まると、ガッターン、ガッターンと音を立てて車両が揺れる。長い編成の一両、一両の間にある連結器の隙間が、合計すると何十倍にも広がって、そのショックを作り出していたのだ。もちろん走り出しでも、同じような揺れと音が響き渡る。深い眠りにつくことはできず、大失敗だった。

 結婚式の披露宴は、大分市内のホテルで行われた。その頃は、ホテルでの披露宴は、とても例外的で、有名人か富裕層のものだった。新郎の父親が、地元の名士だったようでホテルとなった。僕なんかは、市ヶ谷の私学会館で、立食パーティーをやったくらいで、質素なものだった。



 <熊野摩崖仏:岩のレリーフ>*3

 僕は国東へ行くことを、始めから予定していた。僕自身が、国東の摩崖仏を見たかったからだ。姉も賛成してくれ、親父も彫刻としての摩崖仏を見てみたいと同意してくれた。



 <親父と姉>

 レンタカーを借りて、大分市から先ず南に向かい、臼杵・古薗の大日如来に会ってきた。昔は首が取れて、胴体の前に置かれていたようだが、あるべきところに置かれたお顔は本当に柔和で、一目で好きになってしまった。まるで、平安時代の奈良の仏像を見る時のようなおおらかさを感じることができる。国宝に指定されても、まったくそん色はない素晴らしい仏だった。忘れられない出会いとなった。



 <臼杵 大日如来像>*5

 僕の思った摩崖仏という概念には納められない、彫刻としての高い作品性、さらに仏としての存在感がある。親父も、ここを姉と僕と一緒にみられて、楽しんだようだ。親父は洋画家だから、僕の視点とは違う見方をしたに違いない。北の国東半島に比べて、ここの石は柔らかいので、彫像を掘り出せたのだろう。

 次はとんぼ返りで、大分市や別府を素通りして、国東半島へ走った。今のようにスマフォやiPadはなかったから、紙の地図で確認して道を走った。



 <熊野大仏参道>*6

 どうしても見ておきたかった熊野大仏へと走った。着いてみると、駐車場から摩崖仏までは、かなり荒れた登りだった。一緒に連れて行きたかったが、肺が弱くなっていた親父は、とても登れるものではなかった。残念だけど車で待ってもらって、姉と登った。



 <熊野摩崖仏:岩のレリーフ>*3



 <熊野摩崖仏 不動明王 高さ8m>*7

 山の崖に穿たれた摩崖仏に圧倒されて、登ってきた息切れと一緒になって、言葉は出ず、二体の摩崖仏を見ていた。でかい。左の不動明王は彫りが素朴で、なんだか気持ちが安らぐ。包容力のある大仏だ。削り出した人のおおらかな人柄が現れている。



 <熊野摩崖仏 大日如来 7m>*8

 対の、右の大日如来は、ち密な彫りが、その彫師の律義さを表しているようだ。僕自身としては、左側のほうが好きだけれど、この二体の対になったバランスが、全体を素晴らしいものにしてくれているようだ。さらに、緑に囲まれた岩肌に掘られたレリーフには、周りの木々が彩を与え、柔らかさを演出しているようだ。来たかいがあった。

 その日、午後三時過ぎまでのドライブでは、150㎞を超えていた。特に国東は、交通の便利が悪くて、車がないと自由な旅はできないという所だ。でも、訪れてみる価値は十分にあった。

 臼杵と熊野と、摩崖仏を身近に見ることができて、義理で始まったこの旅を、本当に豊かなものにしてくれた。感謝だ。そして、この旅が唯一の、親父と姉との遠出になった。



 <大分空港>*9

 帰りは大分空港から羽田まで飛んだ。とてもブルトレには乗る気になれなかったからだ。



 P.S. 写真のクレジット情報
  *1. 国東半島:Google Street View
  *2 寝台列車「富士」:DD51612さんの作品を借用 Creative Commons 3.0 継承
  *3 熊野摩崖仏 大分県提供 おおいたデジタルアーカイブから了解を得て借用
     URL: http://www.pref.oita.jp/site/archive/201109.html
  *5 臼杵大仏:国宝臼杵石仏 https://sekibutu.com の了解を得て借用
  *6 熊野摩崖仏への参道:「じゃらん」より借用
  *7 熊野摩崖仏不動明王:大分県提供 おおいたデジタルアーカイブから借用
  *8 熊野摩崖仏大日如来:大分県提供 おおいたデジタルアーカイブから借用
  *9 大分空港:コピーライト 国土交通省


ドロミティの残照

2019-01-06 | エッセイ

 イタリアの山の思い出はいろいろあるが、一番心に残っているのはドロミティ山塊。ドロミティとの初めての関わりは、僕がミラノに最初に赴任した頃だから、もう40年以上の昔になる。



 <サッソルンゴ>

 あまり知られていないが、ドロミティは二つの山塊から成っている。イタリアで二番目に長い川、つまりアルプスから、ヴェネチアの近くのアドリア海に流れ込む北から南に流れるアディジェ川の西側が、ドロミティ・ディ・ブレンタ。東側がよく知られるいわゆるドロミティだ。ここは3,000m以上の山が18峰もある山塊だ。



<TABACCOの東部ドロミティの地図>

 東側の、いわゆるドロミティを中心とした体験を書いてみる。

 ドロミティには、合計3回くらい旅している。

 最初は、ドロミティ→オーストリア・ザルツカンマーグート→ドイツ・バイエルンへの10日間の旅の最初の目的地とした時だ。日本にいるころからドロマイトと呼ばれる苦灰石(くかいせき)が雨に削られた、尖塔のようになった山塊は知っていたから、見たことのないその山容は魅力的だった。

 ミラノから3時間でヴェネチア。さらにヴェネチアから谷を登っていく。そしてついた町が、東ドロミティの中心地、コルティナ・ダンペッツォだ。そのころは高速がなかったから、ヴェネチアから3時間はかかったと思う。コルティナは美しい町で、四方をドロマイトの高い峰に取り囲まれている。北には大きな石の塊、クリスタッロ、東にはソラピス、西にはトファーナなどの岩山が背伸びをしている。

 最初の時は、コルティナに一泊だけして、ドビアッコ、ブルンネル峠からオーストリアのインスブルックに向かったから、ドロミティは、ほとんど通り抜けたという印象だけだ。

 コルティナの印象が残っているのは、二回目の時。それでも20年も前の7月だった。やはり車でミラノからヴェネチア、そしてコルティナへの道を走った。

 コルティナは、いわゆるドロミティ街道と呼ばれるドロミティ横断路の東の出発点で、僕の目的地だったオルティゼイを経て、ドロミティへのアクセスの西の町、ボルツアーノまでは120㎞もあるドロミティ東西に走る街道だ。ドロミティは、この道から分岐した沢山のアルペンロードを持っていて、それらがみんな、訪問者を楽しませてくれる。

 コルティナからは、眼前に大きなマスのクリスタッロがそびえ、美しい町を見下ろしている。僕たちは、ポステ(郵便局)広場に面したコルティナの中心のホテル、アラスカに3泊した。



 <ホテル アラスカ>

 ここからのアクセスで一番便利なのは、ソラビスへのロープウエイだが、僕たちは、車を転がして、ミズリーナ湖まで行ってみた。そこからは、有名なトレチメへ(三つの峰)へのアクセス路になるが、山歩きの準備はしていなかったので、ミズリーナ湖で車を止めて林の中のトレッキングでドロマイトの山々をゆっくりと楽しんだ。西ドロミティに比べて、塊が大きな山が東側のドロミティの特徴だというが、巨大なマスを感じることができる。

 ミズリーナ湖の側の売店で土地のものを探してイタリア語で話しかけたら、店の人がびっくりして、イタリア語をしゃべるジャポネーゼ!と驚かれた。そのころは、まだ日本人の観光客は少なく、珍しい感じも残っていたからだろう。僕はミラノに住んでいたことがあるのだと話したら、あっそうという感じで優しく接してくれた。旅人にとっては、土地の人の優しさはとてもうれしいものだ。



 <ミズリーナ湖>

 ポコルまで登って、振り返ると、コルティナの町とクリスタッロが目に飛び込んできた。ミラノから400㎞、やっとコルティナに来たのだと自分に話しかけていた。



 <コルティーナとクリスタッロなど>

 しかし、旅では思わぬことも起こる。最初の夜、食事のためにアラスカのレストランに入っていくと、カメリエーレ(給仕)が入口のすぐ側のテーブルに座らせようとした。店内を見渡すと、窓際のいい席が空に空いていた。あそこに移ると言ったら、ムッとされた。言葉に出なくても、ボディランゲッジが、その感情を表していた。おそらく、生意気な日本人!と思っていたに違いない。どこかで、東洋人に対する蔑視の気持ちがあったのだろう。昔は時々、そんな経験をした。一番嫌なのは、チニーゼ(中国人)と囁かれることだった。一般的に、中国人は素行に問題があるかのように受け取られていたのだ。

 美しい高級別荘地のコルティナを出発して、ポルドイ峠に向かう。この道は、狭いカーブだらけの激しい上りの山道だった。オペルの1300㏄のワゴンは、悲鳴を上げながら、限りない坂道をエンジンを唸らせながら登っていく。高度は上がって行くにつれて、眺めは素晴らしい。



 <ポ<ポルドイ峠への上り>

 パッソ・ポルドイは、ドロミティ街道の最高点、2,239mの峠だ。360度見渡すと、限りなく高い峰が続いて見える。言われているように、西側にはギザギザ山や尖塔が多く、登ってきた東側には、巨大な岩の塊の山が多い。同じドロマイトでも、成分が違うらしい。

 パッソ・ポルドイで一泊して、翌朝、これが見たくてこの旅を計画したマルモローダ山に向かう。途中、カナゼイで、南チロール特有な不思議な木造建築を見て歩く。白壁が、まるで日本の古民家のようでもある小さな町だ。南チロールという呼び名は、イタリアとオーストリアの古い大戦の生み出した産物でもある。手放したこの地を、オーストリアはチロル地方と呼んでいたからだ。会話はドイツ語のほうが、得意なようだ。



 <フェダイア湖>

 カナゼイから、マルガチアぺラに向かう。途中で、美しい小さなフェダイア湖を発見。あまり知られていないうれしい存在だった。そして、マルガチアぺラ。ここから、ゴンドラでドロミティの最高峰、3,342mマルモラーダに登るつもりだったのだが、僕の下調べが不完全で、ゴンドラが休止中だった。シーズンの直前で、整備中だった。がっかり。恨めしそうに頂上駅を見上げるぼくを、カウベルを付けた大きな牛が寄ってきて、ガランガランと慰めてくれた。



 <上空からのマルモラーダ:Google Street Viewより>*1

 仕方がない、パッソセッラを超えて、ヴァルガルデーナの懐かしいオルティゼイに向かう。

 オルティセイは、僕のお気に入りの村。ガルディーナ谷の中心地だ。ゴンドラで登れる有名なシウージ高原の麓にあるチロール特有の文化のある町だ。泊ったシャレーはワルター。経営者のドイツ系の血が多いと思われるご夫婦に温かく迎えられうれしかった。



 <オルティゼイ>

 ワルターの隣のシャレーに住むご夫婦とも村の通りで知り合いになり、一緒に村を案内してもらった記憶もある。



 <オルティセイの村>*2

 オルティゼイからは、ギザギザ山が見えるセチューダまでのゴンドラも出ているから、シウージを含めて3日間、山を見て、歩いて、遊ぶには最高のロケーションだった。

 こうして、記憶に残っているドロミテ街道の旅は終わった。

 実は、この旅のもっと前に、僕はオルティゼイを訪れていた。いつのことだったか、誰と一緒だったのかは、全く覚えていない。しかし、オルテイゼイにひかれて、今回、目的地に選んだのだから知っていたのは確かだ。また、帰りのボルツアーノで、前と同じところで道を間違え、グルグル回ったのを明確に覚えているから、オルティゼイ~ボルツアーノは確かに二回は走っているのだ。

 この前のオルティゼイの滞在の時も含めて、残念ながら有名なアーヴェント・グリューエン(赤い山肌)は見えずじまいだった。これが、残念な残照ともいえる。日本では見られない、いや、ヨーロッパアルプスの他の地域でも見られない、ドロマイトの山々は、ユニークだ。



 P.S.
 クレジット情報
  *1:マルモラーダ Google Street View をお借りしました。
  *2:オルティゼイの街 Pug Girlさんのの作品をお借りしました。
     ライセンスは、Creative Commons 2.0