M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

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ミラノの緑 Bosco Verticale

2018-07-29 | エッセイ



 2016年のミラノ3週間の旅の後、ずっとミラノの夕刊紙、Corriere Della Seraを注意深く読んでいる。

 2016年、友達に連れて行ってもらった「縦の森:Bosco Verticale」のその後を知りたいのと、それを含む、ミラノの都市再開発のプロジェクトの進捗を知りたいからだ。

 「縦の森」については、このブログにも書いているから、お読みになった方はご存知だろう。2014年に完成した、女性建築家、ラウラ ガッティさんの世界一美しい“Best Tall Building Award”として表彰された作品だ。ミラノ市内にある平面の森たち、例えばパルコセンピオーネなどと違って、27階建てと19階建てのマンション、2棟を「森」にするという構想だ。友達にミラノでどこか行ってみたい所はあるかと聞かれたので、僕は即Bosco Verticaleと言っていた。車で連れて行ってもらって、実物を見た。素晴らしいアイデアだ。

 建築設計者はStefano Boeri Boeri Studio。ランドスケープアーキテクトはLaura Gattiで、ランドスケープをデザイン。8000本の樹木を植えたツイン・レジデンスで、一番安いので7000万円、高いので2億円と言われている。

 これからのメインテナンス、木が大きくなる、重くなる、剪定をどうするなどの問題があると思うが、四季の写真を見ると美しい。











 <Bosco Verticaleの絵たちx5>

 このほかにも、ポルタ・ヌオヴァ プロジェクトには、三つの地域が含まれている。さらに「縦の森」と同じ地区には、「ウニクレジトタワー」や「ソラリア住宅」がある。

 なぜミラノの都市開発を取り上げているかを、話しておきたい。ポルタ・ヌオヴァは、もともと、ガリバルディ駅のあいた広い場所、操車場跡で、その都市再開発から始まっている。

 これで思い出すのは、東京汐留のJRの汐留操車場跡の再開発だ。JRが地主で早く売れることを目標としたらしく、全体の基本構想がないまま、買主に任せきりにした都市開発が、今の汐留の乱雑さを生んでいると思う。最初に地域全体のトータルのイメージがないまま、買主が好きな建物を建てたから、シオサイトという名前こそあれ、町全体にはデザイン性の統一のかけらも見られない。残念なことだ。豊かな浜離宮との延長線上で、どんな地区にするかというイメージがはっきりしていたら、もう少しましな街になっていただろうと思う。

 東京湾からの涼しい海風の「風の道」をデザインしなかったから、海風が新橋駅の北側には吹かなくなったと聞く。さらに、埼玉県熊谷近辺の異常高温の原因にもなっているらしい。立ちはだからる高層ビル群が、風を通さず、さらに、土の地面や草や樹木を無くしたヒートアイランド現象も伴って上昇気流となって東京の上を吹き上がり、フェーン現象の状況を起こして熱い空気を熊谷あたりに着地させるという。



 <SIOSAITOのデザイン:汐留地区街づくり協議会のスケッチ>

 同じことが、品川駅南口開発でも起こっている。乱雑なビルたちの林になっているにすぎない。全体的なイメージが見えてこないないのだ。美しくはない。そういえば、東京駅を囲むビル群にも、デザインの統一性はない。

 Porta Nuovaは、2004年に基本構想が承認され、地域全体でのイメージを持ったプロジェクトとしてスタートしている。再開発の監督責任は、一私企業、ハインズが行っている。2005年に建築が始まり、2015年のミラノ・エクスポを最初のフェーズとして進められたらしい。



 <全体的基本構想モデル>*

 ちなみに、国立公園は100000㎡もあり、これがデザインの中心。
      オフイス:98,800㎡、商業スペース:17,850㎡、
      文化的空間:3,760㎡ 370のマンション:70,000㎡ 
      駐車スペース:3,770㎡ 展示施設:11,600㎡
ときくと、そのスケールのデカさがわかる。ヨーロッパ一の工事現場とされている。

 ウニクレジト(イタリア1の高層ビル)の構想は、エクスポ前に完成し、市民公園や、植物園、市民の地域などの付帯工事が今も続いている。



 <クレディト構想モデル>*



 <現物のウニクレディト>

 これだけでも美しいが、この近くにトレ・トッリ地区があり、三つのオフイスタワーが立てられている。ここには、日本人の設計家isozakiさんのタワーや、日本でも新国立競技場の設計で有名になった、ハディドさんのひねったビルがある。三つ目のタワー・リベンスキンドの垂直面がゆがんだユニークなビルも建設中で、最初のアイデアを見事に生かしている。



 <三つのタワー: 完成予想図>



 <ISOZAKIタワー>


 <ハディドタワー>



 <三本目は建設中:PwC タワー>


 他の地区では、ハディドさんの設計のマンションや、奇妙なダイヤモンドビル、マイクロソフトのピラミッドなどもあり、ミラノの建物の変わりようは、十分楽しめるものになっている。

 街はこんな風に作らなくちゃねという見本だと思う。

 今後も、ポルタ・ヌオヴァの変わりようは、追っかけていくつもりだ。楽しいから…。


P.S.
・Wikipedia イタリア語版、ポルタ・ヌオヴァ プロジェクトを参考にしました。
 https://it.wikipedia.org/wiki/Progetto_Porta_Nuova

・東京での反省(シオサイト、品川田町、東京駅)については、「日経電子版」が指摘している。
https://vdata.nikkei.com/newsgraphics/tokyo-urban-heat-island/?n_cid=DSPRM3815

・クレジット*:
 ポルタ・ヌオヴァ基本構想: by Luca Chp  Creative Commons BY-SA 3.0
 ウニクレディト:By Luca Nebuloni  Creative Commons BY 2.0
 あとの写真は、Corriere della Seraの記事よりお借りしました。

ボロボロのスケッチブック

2018-07-15 | エッセイ



 僕の親父は洋画家だった。太平洋戦争前には、都内のキリスト教会を描いて「教会の徳山」と呼ばれたという逸話がある。僕もそうした絵を探してみた。しかし、残っているのは、霊南坂教会(1935年)の写真と、テモテ教会(1934年)の実物だけだった。確かに、いい絵だと思う。



 <霊南坂教会>



 <テモテ教会>

 3月10日の東京大空襲で親父の谷中のアトリエは燃え落ちた。仕方なく、親父の血統の人たちが住んでいる鳥取との県境にある岡山の山奥で疎開生活を始めた。仕事の無い夫婦、子供3人、祖母の6人の一家は、赤貧の生活だった。

 僕も、ちいさいころから親父の絵を見ながら育ったらしく、幼稚園の頃、一人で朝早く起きて水彩絵具で山を描いてきた。僕は、親父に褒めて貰いたかったのだと思う。しかし、親父はその絵を僕が描いたとは認めなかった。僕は悔しいから、同じ構図で、同じところで、同じ山をもう一度描いてきて親父に見せた。親父はやっとその絵を僕が描いたものだと認めた。しかし、それ以降、僕は絵を描くのやめた。それが親父との、決定的な確執の始まりだった。

 僕が絵を描き始めたのは、大学に入ってからの事だ。初恋の人が女子美で洋画を勉強していて、その人との同棲生活の影響を受けて描き始めたのだ。絵の基本でもあるデッサンも勉強せず、好き勝手にエイヤっと描き飛ばしたものだった。

 手元に残るボロボロのスケッチブックを開いてみると、いくつかのことがよくわかる。

   ・人物は全く描けない
   ・色を使ったものは、塗りすぎてまずいものが多い
   ・色があっても、さっと描いているものは、まだ良さそうだ
   ・動物の絵を結構、描いている
   ・風景のスケッチは、まあ見てもらえるかもしれない

 ということだ。

 そこで見返した絵のいくつかを紹介しようと思う。僕自身の歴史でもある。お見せできるのは、風景と動物のスケッチだ。しかも色無しのものばかりだ。


 大阪の天保山に、すぐ上の姉がお袋と住んでいたから、倉庫と、貨車、船のマストに魅せられて描いた。




 <港>


 中野の三味線橋に、奇妙な3人(僕、女子美生、武蔵美生)の同棲生活をしていたことがある。神田川に流れ込む桃園川のすぐ側で、後になって南こうせつが作った「神田川」の歌詞、そのままの生活を暮らしたことがある。絵の真ん中に、二人で通った銭湯が見える。透視画法を勉強していたようだ。



 <窓からの風景>


 友達の誘いで、千葉の木下(きおろし)を訪れたことがある。土手と林の中の民家を描いている。民家は自分でも好きな方の絵だ。



 <土手>



 <林の中の民家>


 初恋の女子美生と別れて、一人で生まれた谷中に暮らしていた時期がある。その頃は、まだ不忍通りを都電が走っていた。それに乗り、上野動物園に出かけていた。動物の中でも、バイソンが気に入ったらしく、たくさん描いている。他の動物の絵は全くない。犬好きだった僕は、バイソンに動物の温かい体温を感じていたのかもしれない。



 <立っているバイソン:茶色のコンテ>



 <うずくまったバイソン>



 <バイソン>


 僕は、山歩きが好きで、アルバイト先の女性たちと三浦半島の最高峰、大楠山(241m)を按針塚から歩いて山頂へ、そして、大好きな海、荒崎まで足を延ばしたことがあった。安針塚からの大楠山は、好きな絵の一枚だ。



 <安針塚からの大楠山>



 <大楠山近景>



 <夕暮れの荒崎>


 バイト先が日比谷公園に近い所に代わって、昼休みにスケッチをしていた。今は見ることもなくなったアドバルーンが建物の上に見える。警視庁の前に小さな交番があった。調べてみると、今も健在のようだ。



 <日比谷・堀>



 <小さな交番>

 もう皆様に見ていただくに値する絵はない。I社に入社してからは、忙しくてスケッチブックを持ち出すことはなかった。イタリアでも、フランスでも、イギリスでも、すべて安直にカメラで撮っていた。



 <使いかけの当時のクレパス>

 今手元に残っているのは、ボロボロのスケッチブック3冊と、使いかけのペンテルのクレパスぐらいだ。

 こう見てみると、根っこには僕も風景画が好きだったのかもしれないと、フッと親父を思い出す。


泥んこのぬいぐるみたち

2018-07-01 | エッセイ


 なぜ、子供たちはみんな、動物のぬいぐるみが好きなのだろうか。



 <泥んこのテディベア>

 最近は、メディアを騒がすことが少なくなったが、中東からヨーロッパへの避難民の子供たちが残していったぬいぐるみの絵をたくさん見た。

 マケドニアの国境の子供たちは、泥んこになったテディベアと遊んでいる。このぬいぐるみも、何百キロも、子供たちに運ばれてきたものに違いない。避難民シェルターの生活の中でも、ぬいぐるみに触れていると、たとえ泥んこになっても顔は笑っている。厳しい境遇にもかかわらず、彼らはみんな笑顔だ。これは、このぬいぐるみの持つ力によるものに相違ない。



 <マケドニア国境のぬいぐるみ>

 この子供たちはどこへ行ってしまったのだろう…と思う絵も見た。おびただしい数の泥んこのぬいぐるみが、子供たちの手を離れて、置き去りにされている。過酷な家族での逃避行の中で、大人たちに邪魔だから置いて行けと命令されたのかもしれない。置いてきぼりにされた、ぬいぐるみたちも、悲しそうだ。持ち主の子供たちはどうしているだろう。立て掛けてあるのが、子供たちのぬいぐるみへの気持ちを現わしているのかもしれない。懐かしいぬいぐるみたちの姿だ。



 <残されたぬいぐるみたち>

 このおっきいの熊は、置いて行けと言われたに違いないと、容易に想像がつく。親も、子供も、そしてぬいぐるみも、みんなつらい思いだったろうと思う。このぬいぐるみがそんな物語を僕たちに伝えてくる。子供はつらくて泣いていただろうと思いが飛ぶ。



 <一人ぼっちのぬいぐるみ>

 発達心理学に、骨組みは同じ鉄製でも、はだかのままのミルクのサーバーと、やわらかい布地で骨格が覆われたミルクサーバーの、どちらに動物が近寄るかという有名な実験がある。動物実験でも、柔らかい布に覆われたミルクサーバーに動物は向かうというのが結論だ。

 スヌーピーの仲間のライナスが、ボロボロになったタオルを年中離さないのは、同じ行動で、「移行対象物」:Transitional Object とよばれ、「子供から大人へ」の移行期に現れる現象だそうだ。だから、みんな、子供は、汚い毛布の端切れをも大切にするのだろう。



 <子ザルの実験>

 これは、人間に限ったことではなく、他の動物にも見られるようで、いたるところに、ぬいぐるみを大切にしているワンやニャンを見ることが出来る。



 <忘れられたワン: Forgotten Dogs of 5th Ward Projectから>

 このワンは、自分も家族から見捨てられたようで、大切にしているパンダのぬいぐるみを抱いて、淋しさと戦っているのだろう。

 ワンニャンだけではない。想像もしなかったが、カンガルーだって、ぬいぐるみは大好きだ。この仔は、大きなテディベアももらって、愛しんでいるようだ。誰にもあげないという意志が見える。



 <カンガルーとぬいぐるみ>

 個人的な経験を話すと、5年前に3.11で甚大な被害を受けた宮城県石巻を訪れた。医師や看護師さんたちが命を張って、避難民を助けて有名になった旧石巻市立病院跡を訪れた。その頃には、病院の建物はもう壊されていて、かさ上げのダンプの行きかう殺伐とした、かっての住居地跡を見ているとき、小さな泥水の水たまりを見つけた。

 そしてそこに、震災から5年たったまま、水に浮いているテディベアの姿を見つけた。5年間、持ち主の子供のもとに引き取られなかったとすれば、ショッキングな話だが、持ち主の安否が気にかかる。横浜に帰って宮城の地元の新聞社に電話して、いきさつを話し、テディベアの写真を送った。もとの持ち主に戻ればいいと思ったわけだ。



 <石巻の水たまりに浮かぶテディベア>

 結果は無駄だったようだ。

 あるマンションのベランダに、洗濯され、干されているテディベアを見つけた。何か、ホッとしたあたたかさが満ちてきた。幸せなテディベアも、ちゃんと存在するのだと、心が和んだ映像だった。