M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

「チェルト君のひとりごと」は電子ブックへ移りましたhttp://forkn.jp/book/4496

コルソ・ブエノス・アイレス その1

2021-10-10 | エッセイ

  僕がミラノに住んでいた頃も、その後も、しょっちゅう歩いていたコルソ・ブエノス・アイレスについて書いておきたいと思う。

<コルソ・ブエノス・アイレス wikipedia by G. dallorto>

 昔、コルソ・ブエノス・アイレスを車で走っていると、急に前の車がスローダウンして、慌てて僕がブレーキを踏むことになることが時々あった。その運転者の目的は、歩道を歩いている美しい女に声をかけるためだと、後でわかった。とりあえず、美しい女性を見たらば、声をかけるのはイタリア人にとっては当たり前。それを車を運転しながら実行していることに出会った僕は、ビックリしてしまうのは当たり前だろう。

 コルソ・ブエノス・アイレスとは、ミラノのある大通り。場所はミラノの中心、ドウオモからサン・バビラを通って、ボルト・ヴェネチアを潜って歩き始めると、ここから長さ1.6キロの商店街、コルソ・ブエノス・アイレスという庶民的な街に入ることになる。そして、この通りは、第二次大戦中のパルティザンの虐殺で有名になったロレート広場まで続く。

<ピアツァーレ ロレート>

 ミラノで日本人に有名な通りなら、おそらくドウオモから近いモンテナポレオーネや、スピーガ通りのブティックの並んだ街のことを思い出すに違いない。しかし、このコルソ・ブエノス・アイレスは、日本人にあまり知られた街ではない。

 コルソ・ブエノス・アイレスと言うと、どっかで聞いたことのある名前だと思う人がいるだろうが、実はこの名付けられたのは、昔1800年の終わりのころから1900年初めの頃、イタリア人がたくさん南米移民としてアルゼンチンに渡ったことに由来している。つまり1906年にアルゼンチンに捧げた名前として、正式にコルソ・ブエノス・アイレスと名付けられたようだ。コルソと言うのは大通りで、訳せば「ブエノスアイレス大通り」というふうに理解してもらえばいいだろう。

<1960年のコルソ・ブエノス・アイレス>

 この通りは、僕が1970年から2年間ミラノの駐在員として過ごした時期にお世話になった通りでもある。350軒以上の、ありとあらゆる商店が並んでいて、昔はすべての店が客と対面しながら商売をしていて、イタリア語をほとんどしゃべれなかった僕にとっては、買い物、そのものが大変な仕事だったと覚えている。今みたいにスーパーに行ってパッケージでポンと買うというのではなくて、店主と話ながら、何がどのぐらい欲しいか、どう使うかなどを話して、量を測ってもらって値段を交渉して、お金を払って、やっと買い物が終わるというわけだ。どちらかと言うと、人と人との距離が近い世界だったと言えるだろう。

<映画館:Puccini>

 この通りにはありとあらゆるショップがあったが、中でも僕の印象に残っているのは映画館だ。イタリアでは、外国映画も全てイタリア語に吹き替えられていた。問題なのは、映画見ている間中、イタリア人は友達としゃべくり、ものを食べ、感想述べ、ピーナッツの皮などを床に散らかしたまんまというような見方をしていた。こんなにうるさい中でも、映画をちゃんと見ていられるのだと、びっくりした。

<最寄り駅 LIMA>

 僕が住んでいたアパートへは歩いて10分、この通りの中間にあるリマ駅(もうお分かりの人もいるでしょうが、ペルーのリマからつけた名前)から直角に入る道をたどって、グランサッソ通りを横断して、ガロファロ通りのレジデンス・グランサッソが僕のミラノでの住処だった。地上7階建ての3階ぐらいの2 LDKの家具付きマンションを借りていた。まるでホテルのようで、ちゃんとレセプションがいて、リネン類も3日に1度ぐらいタオルも含めて全て取り替えてくれ、部屋の掃除もちゃんと担当の人がやってくれるというような豪華なアパルタメントだった。

<レジデンス・グランサッソ>

 地域のことをいっておくと、コルソ・ブエノス・アイレスは、ミラノのゾーン2で、僕の住んでいたガロファロ通りはゾーン3だった。この地域には、ミラノ工科大学とか国立のミラノ大学だとかが、たくさんの大学がある地域で、結果として若者が多い地域だった。チッタ・ステゥーディ(学生の街)と言う地域だった。当然、買い物といえば、基本的にコルソ・ブエノス・アイレスに出かけることになる。

 コルソ・ブエノス・アイレスの終わりはロレートで、ここで道はわかれ、一つはF1で有名なモンツアへ続く道、もう一つはコモ湖のレッコからスイス・サンモリッツに続く道、さらには東のベルガモへの道、この先にはヴェネチアを経由してイタリアの1番東の端、パルマノーヴァと言う小さな町に通じる道になっていた。

 ちなみに、ミラノには、古くから城門(ポルタ)が作られていて、ヴェネチア方面への門は、ポルタ・ヴェネチア、ローマ方面は、ポルタ・ロマーナ、同じくポルタ・ジェノバなどがある。

 レジデンス・グランサッソについて、もうすこし書いておくと、ここのオーナーは中年の女性だった。車は真っ赤なフェラーリだった。地下の駐車場の真ん中に止められていた。僕が買った最初の車になったフィアット850Sも、同じ駐車場の1つは入っていた。ミラノの冬は寒くなるので、朝、エンジンがかかりにくいため、ガレージは温められていた。

 もう一つは、なぜここに住んだかいうことだ。僕の会社はミラノの事務所が手狭になった結果、20キロ程の郊外の新しいサイトに移るということになった。そこに通う人たちのためのプーマンと呼ばれる大型のバスが出るアスプロモンテ広場に、レジデンスは徒歩 4分だったから非常に便利だった。

<アスプロモンテの犬専用広場>

 2012年に訪れた時、幸いにオートロックの門扉が開いていて、人がいたので、内部に入ることができた。その頃、フロントを務めていたエンツオーさんはグランサッソに今も住んでいるということだった。会っていくかって言われたけれども、別に話すこともないのでレジデンスの屋上まで登って、ミラノの下町の街裏の風景を写真に撮ってきた。何度も訪れているが、なかなか中に入れなかったから、この時は本当にラッキーだった。 

<屋上から眺めたミラノの下町>

 

その2に続く



最新の画像もっと見る

コメントを投稿