M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

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アルプス越えの旅 #3

2020-03-29 | エッセイ

 

<アルプス越えの旅マップ>

 

⑤ザルツブルグ→ 160㎞ ⑥ミュンヘン→ 130km ⑦フッセン→ 50㎞

⑧ツークシュピッツェ(標高2886m)→ 180km ⑨サンモリッツ(標高1700m)→ 180km ミラノ

 

ミュンヘン

<ドイツのアウトバーン>

 ザルツブルクを出ると、いよいよドイツ・ミュンヘンへの旅。オーストリアから繋がったアウトバーンを、僕の車で走りました。僕の車は最高でも160キロ位しか出ませんから、アウトバーンでは右の1番端っこをコソコソ走ることになります。前にトラックがノロノロ走っていたりして、どうしても追い越さなくてはならない時にはしょうがない、勇気を振って、もうこれ以上踏みつける余地ないところまでアクセルを踏み込んで、やっと追い越すことができます。追い越せたら、すぐ走行車線に戻るっていうのが鉄則です。

 イタリアの高速道路でも同じでしたがドイツは、もっと平均スピードが速く、追い越し車線を走っている時に、ピカッピカとパッシングライトをバックミラーで見たら慌てて走行車線に戻ることになります。さもないと彼我のスピードの差は100キロくらいですから、あっという間に後についています。当然のことながら、慌てて道を譲るということになるわけです。だからアウトバーンを走る際は、前を見ていることは重要ですが、それよりもバックミラー見て高速の車かどうか、どういう形の車かを見極めます。これは早い車だと分かったら、とにかく走行車線に逃げ込むということが大切です。

 この時、アウトバーンを走っている間に大きな事故を目撃しました。ザルツブルグへ向かう対向車線での事故で、巻き込まれた車の台数は数えることが出来ませんでした。まぁ50台以上の車がクシャクシャになって、僕の反対車線に止まっていました。何しろ200キロ近いスピードを出している車が事故を起こせば、当然突っ込んでくる車も多いでしょうから、こうなるのは当たり前ともいえます。日本とは全く違うわけです。

 僕はミュンヘンまでアウトバーンを走ったのは、実はミュンヘンに行きたいからではなく、速度制限のないドイツのアウトバーンを走ってみたいという希望からでした。それにしては、車がボロすぎた(新車ですが)といえるでしょう。

 僕の目的地は、ミュンヘンから南西に降って、最終的にはフッセンと言う小さな村に行くのが目的でした。ミュンヘンからの道は、アウトバーンとは違って、穏やかでした。

 

フッセン・シュバンガウ

<フッセン>

 南部ドイツの豊かな田舎道を、100キロ位で運転していたわけで、緊張する事はありませんでした。だから周りの穏やかな風景を楽しむことができたと思います。

 フッセンに行く目的は明確でした。映画チキチキバンバンで有名になったノイシュヴァンシュタイン(新白鳥の城)城を訪れることでした。これは、狂人ともいえるリフィアルト・ヴァーグナーとバイエルンの最後の皇帝、ルードヴィッヒ2世との友情の塊であると言われている城です。映画にも何度も出てきて、皆様もその姿を見てアー、この城だったら知っていると思われる、あの美しい城です。

 

 フッセンに宿を取ったのは“チンマー・フライ”(部屋、空いています)と言う看板が出ている民宿を見て、ペンションの感じ、周りの環境を見たりして、その場で宿を決めました。 実は、ここで重要なことが起きました。それは僕のかみさんが白ワインの味に惚れ込んで、その後、白ワインを僕と競うように飲むようになったことです。民宿のおばさんが、2人で気持ちよく飲んでるのを見て、笑っていたのが忘れられません。結果、その後の僕の家の白ワインの消費量は、突然倍に跳ね上がったわけです。おそらくリースリングだったと思うワインで、僕にとっては他のイタリアやフランスのものに比べると少し甘ったるいものでしたが、その時はよく冷やして楽しんでいたのを覚えています。

<ノイシュヴァンシュタイン城>

 この辺のことを、現地ではシュバンガウ(白鳥の地区)の名前でよんでいました。麓から丘の上のノイシュバンインシュタイン城までは、車ではなく観光用の馬車に乗って城の門まで登ります。高い岩山の上に立ち、まさにロマンチックで、裏には大きな湖、アルプ湖が見える環境としては最高なところにあります。

 狂気のルードヴィッヒによって、宮廷劇場の舞台美術の画家、ヤングに設計させたコンクリート製の城で、古くからあるドイツの石積みの城とはまったく違うものでした。過度のデコレーションに囲まれ、本当の城としては使える代物ではなかったようです。

<建築途中のノイシュヴァンシュタイン城:19世紀末>

 驚いたのは、キッチン。食堂から2階ほど下の岩盤上にあり、調理場でクックした料理は、エレベータのようにロープで食堂まで釣り上げるという構造になっていました。 

 

ツークシュピッツェ

<ツークシュピッツェ> 

 フッセンを充分楽しんだあと50キロ位走って、次の目的地ツークシュピッツをめざします。ツークシュピッツ山は、ドイツ最高峰で2962m。ここに行くには、まずはエールバルトに車を止め、そこからケーブルカーで1時間ちかく掛かってツークシュピッツの頂上に着くことになります。

 今はEUの参加国なので、オーストリアとドイツの間の国境には何もありませんが、その頃はまだ独立した国でしたから、山頂に国境の事務所があり、ドイツ側からオーストリア側への国境渡るとき、オーストリア側からドイツ側へ帰るときにはパスポートチェックがありました。

 

サンモリッツ

 この後は180キロ程走って、何度もいったスイスのサンモリッツに向かいました。

 これまでヨーロッパで事故は起こしたことがなかったのですが、オーストリアからスイスへの国境の一つ手前の村で、その頃のNSU、今のアウディの前身のバンケルエンジンの新車に、僕は後から軽くこすってしまいました。ブレーキが間に合わなかったのです。幸い、細い道で、スピードは出ていませんでした。

<サンモリッツ>

 運転していたのはドイツ人で、ドイツ・ナンバーの車でした。彼はそこで車を止めて警察が来るまで待つと主張しました。カルタ・ヴェルデという国際保険にサインをすれば片付くのに、警察がくるまで待つというので、交通を遮断したことになりました。そのため、この細い道は大渋滞となり、両方から車がつながってしまいました。バスの乗客などは、窓を開けて何が起きたのかと僕たちを見ていました。

 が、そこにイタリア人がバスから降りてきて、僕の車はミラノ・ナンバーだったので、ミラノの「友達」として助けてくれました。ドイツ人にドイツ語を話し、僕にはイタリア語で対応して、この事故は保険証があればサインだけでOKだよということになり、問題は解決しました。やっと渋滞も解消しました。

 非常に国際的な事故となりました。ドライバーは日本人、相手はドイツ人、場所はオーストリア。通訳してくれたのはイタリア人と言うことで、日本ではちょっと考えられない面子が揃ったということになりました。この件で一番感謝したのは、そのバスの運転手さんでした。彼は僕のナンバープレートがミラノのだというのを見て、わざわざ降りてきて助けてくれたわけです。一応、僕をミラネーゼと認め、窮地を救ってくれたのです。感謝です。

<ホテルラウディネッラ>

 何度かミラノからサンモリッツには行っていたので、泊まるホテルは、安くて気持ちがいい、ラウデイネツラ(昔はこの名前ではなかったような気がします)と決めていました。この時、サンモリッツで、かみさんに何をしてあげたかは正確な記憶はありません。恐らくセガンチーニ美術館や、ピッツ・ネール(3056m)に連れて行ったと思います。

<ピッツネール>

 

ミラノへ

 

<コモ湖>

 後は高速化されていなかったカーブだらけのコモ湖畔の一般道を走りレッコ、コモからは高速でミラノに帰ってきました。

<Fiat 850s よく走りました>

 この旅で感じたことは、ヨーロッパアルプスは、日本アルプスとは全く違ったスケールのものだということと、光の量が北と南で雲泥の差があるという事実でした。


アルプス越えの旅 #2

2020-03-15 | エッセイ

 

 <アルプス越えの旅マップ>

 

  ザルツブルグ

<ザルツブルグ> 

 僕がザルツブルグに行きたいと思ったのは、どこかで見た静かなアルプスの山に囲まれた湖の風景でした。

 モーツアルト関係や、ドレミの歌で有名になった映画、サウンド・オブ・ミュージックの風景、ホーエンザルツブルグ城など、もちろん市内も一応歩きましたが、僕の本命はザルツカンマーグートへのドライブでした。

 ザルツブルクで今でも覚えてる事は、この旅で唯一予約していたザルツブルクのホテルでしたが、これがひどいホテルで値段は結構したのですが、住み心地の悪いホテルでした。50年経った今でも、悪い思い出の1つとして残っている残念なホテルです。ヨーロッパの田舎では、どちらかというと予約を入れないで、その場所で良さそうなホテルやペンションを探すというやり方がよさそうでした。

 今回の原稿を書くにあたって、ネットでいろいろ調べてみたのですが、見つけることができなかったザルツブルグの素晴らしいレストランのことを話しておきたいと思います。

 それはホウエンザルツブルク城の足元だったと記憶しているのですが、崖を削った崖下の空洞の中にある大きなレストランでした。そこではバンドも演奏しており、崖に沿って横長のレストランでした。音響効果もすごく良くかったと思います。残念ながら、名前と場所を検索しましたが、特定することができませんでした。どなたか、詳しい情報をお知りの方があれば、お教えいただければ幸いです。(早速、シュティフツケラー・ザンクト・ペーターではないかとの情報を得ました。岩窟を掘った店のようですから、間違いないと思います)

ザルツカンマーグート 

<ザルツカンマーグート>

 ここは紀元前1200年くらいまで遡るハルシュタット文明の地であり、青銅器時代に、すでに岩塩を商品として、他国と交易をした歴史が残っている特別の地域だったようです。

 ザルツカンマーグートですが、ザルツ(ドイツ語の塩)の名前が示す通り、昔から海のないオーストリアでは塩は岩塩でした。カンマーグートとは、貴族たちの領地の意味のようです。岩塩で儲けた長者が、いっぱいいたということでしょうか。オーストリアの名家、ハプスブルグ家の管理下にもあったという話もあります。この近くでは何百年も昔から、岩塩が掘り出されていたわけです。

<シャーフベルク登山鉄道>

 ザルツカンマーグートの中心は、なんといってもヴォルフガング湖でしょう。この岸にあるザンクト・ギルゲンからは、シャーフベルクへのアプト式登山電車がゆっくりと高度をあげていきます。それにつれて、視界が広がり、ザルツカンマーグートの湖水地方といわれる、山と湖の姿が現れます。素晴らしい時間でした。

 バート・イシュルと言う温泉のある小さな村を訪ねました。温泉プールもあり、人々はのびやかに休日を過ごしていました。

<ハルシュタット>

 日帰りの旅でしたから折り返し地点になるハルシュタットは、僕が思っていた美しい湖に抱かれた小さな村でした。この小さな教会では、骸骨がきちんと並べられて、祀られているのを発見しました。これがハルシュタット納骨堂。この村では、教会の墓地が狭いため、充分な土葬の土地を確保できないので、死んだ人を数年間、教会の墓地に土葬にし、その後、骨だけを取り出して残しておくということをやっているようでした。日本人から見ると、大変な葬式だなあ思います。

 これが、僕のザルツブルグを楽しんだ、大きなエクスカーションだったと思います。

 ザルツブルグでの食べ物には、特に記憶はありません。モーツアルトとその父の足跡をたどる歩きも、あまり感動は与えてくれませんでした。ザルツブルク音楽祭での混雑した狭い街というイメージだけが残りました。

<ホーエンザルツブルグ城>

 ザルツブルグの町のいい思い出は、ケーブルカーで登るホーエンザルツブルグ城の高台のテラスから見下ろした風景でしょう。今はユネスコ世界遺産に指定されたザルツブルグの旧市街の街並み、ザルツァッハ川とアルプスの山並みの眺めは美しいものでした。

 ここから、ミュンヘンまで、ドイツの高速道路、アウトバーンを体験します。

#3へ続く

 


アルプス越えの旅 #1

2020-03-01 | エッセイ

  ミラノ駐在中、ドロミティ、オーストリア、ドイツ、スイスの10日間の旅を夏季休暇中に実現することができました。ヨーロッパへの赴任が決まった時、日本の山を歩いて思っていた「ヨーロッパアルプスを旅して見たい」という望みがかなうかなと、その機会を待ち望んでいたのです。

 この旅のことを、これまで書いていなかったので、50年近い昔の記憶ですが纏めておこうというのが「アルプス越えの旅」の3編です。

 

<アルプス越えの旅マップ>

ルート 

(アルプス越えの旅 #1) 

①ミラノ→270㎞ ②ヴェネチア→  160km ③コルティナ・ダンペッツオ(標高1200m)→130km ④グロスグロックナー山岳道路(標高2500m)→ 130km ⑤ザルツブルグ

 

(アルプス越えの旅 #2)

ザルツブルグ ⇔ 往復120㎞ ⑥ザルツカンマーグート(ウオルフガングゼー・バートイッセル→ハルシュタット)

 

(アルプス越えの旅 #3) 

ザルツブルグ→ 160㎞ ⑥ミュンヘン→ 130km ⑦フッセン→ 50㎞

⑧ツークシュピッツェ(標高2886m)→ 180km ⑨サンモリッツ(標高1700m)→ 180km ミラノ  走行距離は合計1500㎞になりました。

<フィアット850S>

 

車: 小型のFiat 850 S 1969発売 1970購入(最初の自分の車です)

    デザイン:ヴァニャーレ  駆動:R.R. 馬力:47 全長 : 3.7m 

重量:780㎏ 変速機:マニュアル4速 エンジン:OHV4気筒 850cc 

   平地では平気で160㎞/hあたりまで走ってくれましたが、山登りは苦手。この旅で、イタリア車の

   ハイギヤード の弱点を、痛感させられました。

 

 ミラノからドロミティ経由でオーストリアに入り、ドイツを回りスイス経由でミラノに帰ってくるというプランを立てました。

 狙いはドロミティを体験し、グロスグロックナーの急峻なアルプスの峠を越え、オーストリアの憧れの街、ザルツブルグに入るという行きの行程を考えました。

 帰りはアルプスを北から南へ旅をするということで、ザルツブルグからミュンヘン経由でドイツのフッセンへ。チキチキバンバンで見たノイエシュバンシュタイン城を歩き、ツークシュピッツェの山頂に登ってみたいと思っていました。何度も足を運んだスイスのサンモリッツ経由でミラノへ。

 

 ヨーロッパアルプスを南から北へ、逆に北から南へと越えることを狙ったわけです。

 

各行程でのハイライトを話してみたいと思います。

 

コルティナへの道

 

 まずはミラノからアウトストラーダで、ヴェネチアまで270キロ。イタリアのアウトストラーダは、日本道路公団が日本に初めて高速道路を作る際、デザインの参考にした道なので、違和感はなく快適な道を走ることができました。日本では速度制限があって飛ばせませんが、基本的には速度制限はなくて、早い車では300キロ近くで走っています。僕の車のような小さな車は頑張って、時速約160キロ位で走行車線を走るという、3車線の高速でした。

 

 追い越し車線は、まさに追い越し専用で、バックミラーにパッシングライトがピカッときたら、その車がすぐ後ろに突っ込んでくるというのが当たり前でした。ポルシェや、フェラーリが同じ車線を走ることなるのですから。僕は、真中の走行車線に逃げ込むのに、必死でした。こんな高速を経験した僕は、日本に帰ってきて、東名の車に走り方が、間違っていると感じました。普通の車が、走行車線が空いているにもかかわらず、一番右の追い越し車線を延々と走っているのを見て、危ないなと思ったものです。

<アウトグリル>

 アウトストラーダで面白いのは、アウトグリルと言う休憩所とレストラン。これは高速道路を跨いで作られた跨道橋のような建物の中に、土産物屋とかレストラン、もちろんトイレを含めた旅行者用の施設があります。アウトグリルは、これをイタリアすべてのアウトストラーダで運営している会社の名前です。ガソリンは、サービスエリアにありました。ヴェネチアでは唯一、車を乗り入れられるローマ広場の駐車場に車を止めて、ヴァポレットに乗って大運河を少し見たと思います。

<ヴェネチアのローマ広場>

 

コルティナ・ダンペッツオ

 

 ヴェネチアに泊まることなく、さらに160キロを登ってドロミティの東の中心、コルティナ・ダンペッツォにつきました。ここは見るところがいっぱいあるので、贅沢を言えば一週間はかかるのですが、先に目的地があるので、ここではホテル・アラスカに2泊だけにしました。ドロミティについては、別途、いろいろいと書いてるので、ここでは省きます。

 

<ハイリゲンブルート:アルプスの香りがしてきます>

 

グロスグロックナー

 

 コルティナからリエンツ、そしてハイリゲンブルート経由で、クロスクロックナー山(3798m)の足元を超える2500mの峠を越えることになりました。グロスグロックナーの展望台があるフランツ・ヨーゼフス・ヘーエへもちょっと寄り道。ここの景観はなんといっても氷河です。最近、アルプスの氷がやせ細っているようですが、この時、僕が見たのは堂々たる氷河のうねりでした。

 もうすでにオーストリアに入っていて、その先の目的地ザルツブルグに向かいました。途中、フルブルン宮殿を訪れ、水の庭園という非常に珍しい庭を楽しむことができました。いろいろな仕掛けで、驚かされたのを記憶しています。日本では昔、水芸と言う芸人さんが、いろんな所から水を出してお客を驚かせるという芸がありましたが、まさにこれはオーストリア版の水芸の組み合わせでした。 

 

#2に続く