4年ぶりにミラノで、3週間過ごして感じたことを書いてみる。(2016年)

<EXPO 2015>*
全体的には、変わったことがたくさん目についた。まぎれもなくEXP2O015の後遺症のようでもあるし、自然な変化でもある。EXPO2015では、人口7千万人のイタリアの中の一都市、ミラノに2016年5月からの6ヶ月間に2千万人を超す人が世界中から集まったわけだから、変化の起爆剤になったと想像できる。人気のパビリオンには、10時間待ちなんて行列ができたことはざらだったようだ。インパクトが大きかっただろうと思う。
僕自身は、本当は2014年に再訪する予定だったのだが、アリタリアのチョンボで、成田~ヴェネチアが世界最長の15時間フライトになったあおりを受け、心臓君のご機嫌が心配で、ドクターの言うことを聞いて中止した経緯がある。翌年と考えたが、それはEXPO2015とバッティング。人込みと混乱は容易に想像できたので、結果として今年になった。
地元の新聞によれば、昨年のみならず、今年もローマを抜いて、観光客はミラノに流れているようで、世界中から人を集めているようだ。ミラネーゼたちが、自慢げにふるまっているのも分かる気がする。

<古いオリジナル・フィアット500は貴重>
ミラノが変わったのを見ることは簡単。街の路上駐車の車たちを見れば一目瞭然。4年前に比べて、車自体が新しく、質が良くなっている。従来のイタリア車のフィアットが中心ではなく、格段にドイツ車が増えた。しかも、メルセデス、BMWが増えただけではなく、アウディ、ポルシェまで、押し合いへし合いで路上駐だ。ミラノの中心街だけではなくて、僕の住んでいた下町に当たるコルソ・ブエノス・アイレスの裏の道でも同じ現象が起きている。みんなが金持ちになったのだろう。
かって、ミラノで観光客のため英語で車内放送をするなんてことは、ユーロスターみたいな国際特急以外では聞いたことがなかったのだが、メトロでは次の駅名まで英語放送していた。トラムでは、停留所の案内をやっていた。EXPOのお陰だといえる。外国人、特に目立ち始めていたのは、東南アジアとか中東からの観光客だ。彼らにとっては、英語は助かるはずだ。
地域ごとキレイになっていた場所もある。

<ナヴィリオ運河>
ナヴィリオ運河とダルセナ港が劇的にきれいになっていた。ナヴィリオ運河では、ティチーノ川からの豊かな水量を引き込み、水の流れが出来て、水草も揺らいでいた。浚渫もして、流れがスムースだ。昔みたいなドブ臭さは全く感じない。ダルセナは、もともとはミラノの港で、一時は有名な市民の大型ゴミ捨て場になり、泥で水は干上がり、またロマ人のキャッピングカー住処にもなっていたのだが、EXPOに向かって、ミラノ市がロマ人を追い出し、ごみを片付け、浚渫してナヴィリオ運河から流れを引き込んで大きな水面を作った。いまでは市民の遊び場となって、夏の間はボートを浮かべて、楽しんでいるようだ。

<ダルセナ ミラノの港>*
地域開発で目に付いたのは、旧ガリバルディ駅の周辺のポルタ・ヌオヴァ地域。もうせん、だだっ広い、使用目的もなく放置されていた広大な土地に、新しい街を作っている。継続的に、このプロジェクトは進められているようで、日々変化している。前のブログでも紹介したが、超高層アパートのビル、二棟を「縦の森」と定義して、各部屋に林が作ってある。縦方向の森としてデザインしたすばらしいビル。昨年の世界で一番美しいビルとして、この女性の設計者は称賛されている。

<縦の森>*
ちょっと離れているけれど、近い地域にウニ・クレディトのガラス張りの奇妙な形をしたビルや、日本人が設計したイソザキが立ち、日本の国立競技場の設計で名を知られたハディドさんの設計のよじれたビルも竣工に近いようだ。

<ハディドビルと、イソザキ>*
こうした新しい街はミラノ市が計画し、広い面として開発しているのを見ると、日本ではなんと都市デザインというものが遅れているのだろうかと思い知らされる。
悪い例は、旧汐留操車場後のシオサイト。無節操なバラバラの設計の単一ビルが、無秩序に立てられ、地域としての統合的な魅力はない街になっている。一説によると、この汐留の乱暴なビル群の影響で、埼玉県中部、深谷とかの猛暑の原因、フェーン現象を引き起こしているとも言われている。品川の海側の開発も、同じく全体としてテーマもヴィジョンもないバラバラの高層ビル群になっている。美しくもない。
東京都は、汐留操車場跡をどのようなマスタープランで開発許可を出したのか疑問だし、もともとマスタープランなど持っていなかったのかもしれない。2020オリンピックの神宮外苑のマスタープランも、あの体たらくを見ていると、英知を集めて作られたとはとても思えない。日本人は「点」のデザインしかできないのかと、悲しくもなる。東京都は、パリのラ・デファンスぐらいは勉強してほしい。日本での唯一の例外は、横浜のみなとみらい地域くらいのものか…。
食事についても、ミラノのレストランの考え方は変わってきていた。従来、イタリアのレストランでは、自分が注文したものは、自分が責任と権利をもって食べるという不文律があった。それは、一皿は一人の客のために作っているからだ。ピッッツアも同じ。切り分けて他の人とシェアするということは、常識から外れていた。どうしてもいろんなものを食べたければ、「味見の一皿」として少しずつのアンティアスティを頼むことが出来るくらいだった。
しかし、今回は遠慮がちにとりわけ皿をと頼むと、平気でもってきてくれる。客の方が、胃が小さなもので、と言い訳をしなくてはならないくらいだ。たくさんの外国からの観光客に接して、シェアということを許さざるを得なくなったのかもしれない。

<コルソ・ブエノス・アイレスのリマ駅>
既存の町も変わりつつある。僕の好きな下町、コルソ・ブエノス・アイレスには悪い変化が押し寄せてきていた。従来の個人商店、対面販売の店がなくなり、有名なブランド店にとって替わられていた。その波は、ポルタ・ヴェネチアから始まり、リマあたりまで、侵蝕が見える。ある意味では、下町のモンテナポレオーネ化が進んでいるようだ。まるで、東京の銀座を見てるようだ。
しかしどっこい、店に入れば、スーパーの中も含めて、従来のように肉屋、魚屋、サルメリアは、お客さんの注文を聞きながら、目の前でさばいて必要な分だけを売ってくれる。まだ個人商店もあり、対面販売で客と店主との会話が健在だ。懐かしい風景が残っている。

<個人商店の対面販売>
この波は、今はリマあたりで止まっている。懐かしい街の雰囲気が、ロレートあたりまで残っている。この下町の雰囲気が、ずっと残ってくれるといいのだが。もう再びこの道を歩くこともなかろうから、願うこともないのだろうが…。

P.S.
*のついた写真は、Corriere della Sera の記事からお借りしました