M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

「チェルト君のひとりごと」は電子ブックへ移りましたhttp://forkn.jp/book/4496

ランブラス通りと聞くと

2017-09-24 | エッセイ


 先日のISIS系のテロリストが大型バンを乗入れて、ジグザグ運転で意図的に歩いている人たちを跳ね飛ばして有名になったバルセロナのランブラス。事件を聞いて、もしやあの美しい通りではと思った。この道には真ん中に幅広い歩道があって、両側に高い街路樹の立ち並ぶ歩道に花屋や、土産物を売るキオスクなどが並び、車は遠慮がちに歩道の右と左の外側を、一方通行で流れていた。主人公は、もちろん散歩する人たち。恋人たちが、そっと手をつないで語りながら歩く。父さんと母さんと子供たちが、にぎやかに話しながら歩くプロムナード。



 <ランブラス通り>

 昔、若い仲間4人と、ランブラス通りに面したホテルに、3~4泊した記憶がある。仲間とは、日本から南仏のモンペリエに3か月間、フランス人の作ったMRPシステムを検証し導入するための準備作業だった。復活祭の休みに、真面目なリーダーだけをモンペリエに残し、車でバルセロナまで国境を越えてスペインへ旅した。



 <南仏モンペリエのシンボル広場 ラ コメディ>

 バルセロナは、ガウディやピカソで知られ、陽気なスペイン人に触れ、バルで長めのアペリティーフを取り、ゆったりとした時間を過ごした記憶がある。

 この旅には一人の女の子が、仲間のMにくっついて参加していた。彼女はモンペリエ大学に留学中で、Mと親しくなっていた。他の仲間は、ほとんど知らない女の子、Y子ちゃんだ。

 バルセロナでも、当然MがY子ちゃんを面倒みると僕は信じていた。少しぽっちゃり系の、色の白い女の子だった。しかし、着いた夜、僕とY子ちゃんが、ホテルのロビーに取り残されたのだ。Mや、そのほかの友達に電話しても応答がない。ロビーで会う約束をしていたのに現れない。しかたなく、僕がその夜、Y子ちゃんの面倒を見る羽目になってしまった。Mは他の友達、Sとスペインの女性と「親密な時間」を持つ為に、Y子ちゃんを置き去りにしたのだ。結果として、ベソをかいているY子ちゃんを放り出すこともできず、僕が行く予定だったフラメンコを見に一緒に出掛けることになった。

 モンペリエに戻って、その後、MとY子ちゃんがどうなったかは詳しくは知らない。ただ、日本に帰って数年たって、Mはスポーツウーマンの、しっかりした感じの女性と結婚した。Y子ちゃんとは別れたんだと知った。

 Mとは、その後も同じSEとして同じ部門に所属し、友達としての時間が流れた。さらに僕がI社を止めてからも、友達付き合いが続いた。

 彼が、日本にある「モンペリエ会」のメンバーになったのは知らなかったが、突然連絡が来た。Mは、僕の本にモンペリエのことが書いてあるのを知っていた。その本をもって招待された「モンペリエ会」に出席したいと言ってきた。本の注文を入れたのだが、会合に間にあいそうにもないので、僕の手元に本が有ればそれを融通してくれないかとの依頼だった。手元の本を5冊だったか、サインをしてMに送り届けた。その本を、モンペリエを知る人たちの会で、どう使ったのかは知らない。

 それからまた時間がたって、モンペリエの教会にいた日本人シスター、RYが神戸に帰国しているのを知っているかとMから連絡をもらった。僕は、モンペリエでシスターとは付き合いがなかったから、そのままにしていた。

 ところが、元気印のMは突然の病気で、2015年にあの世に旅立った。テニスの上手い本当のスポーツマンだったのに、突然消えた。



 <元気印のM>

 「モンペリエ会」に、I社から関係していたのはMだけだったようなので、僕は神戸のシスター、RYにMが急逝したことを告げた。
 
 シスターは、Mのモンペリエ時代の彼女、Y子さんも、「モンペリエ会」のメンバーなので、Y子さんに連絡を取ってみると言った。メールアドレスを彼女に知らせてもいいかと訊いてきたから、どうぞと言った。しかし、Y子さんから僕への連絡はなかった。結婚して苗字も変わっていた。

 その年末、モンペリエ会が神戸で行われるので出席しないかと招待されたが、僕は心臓君の問題もあり、横浜から神戸まで出かけるのは…と思って欠席のハガキを出した。

 後日、神戸での会の出席者名簿をシスターから受けとったが、そこにはY子さんの名前はなかった。欠席していた。

 Y子さんのメールアドレスは、シスターからもらっているので、連絡は取れるのだが、僕の方から連絡を取ることもないと、そのまましている。Mがいなくなって、特に話すこともないからだ。

 そんな中で、今回のバルセロナのテロ。久しぶりに聞いたランブラス通りの名前は、僕の古い思い出へと繋がっていった。まあ、あれがMの青春の日々だったのだなぁと、あらためて、Mの死を思った。



 <ランブラスのホテル>

 今回の事件が起きたのは、自分が置き去りにされたホテルに面したランブラス通りだったから、Y子さんも、あの思い出を間違いなくたぐり寄せたにちがいない。どんな思いをしたのだろうか、と思う。



 <空から見たランブラス通り>


僕の知っているヨーロッパのIBMは今…

2017-09-09 | エッセイ



 前回の「ハドソン川に沿って」を書いてみて、フッとアメリカ以外の僕の知っているIBMサイトはどうなっているんだろうと、記憶をリストアップしてみた。

 ・英国 x2:ハバント、グリーノック
 ・ドイツ x2:ジンデルフインゲン、マインツ
 ・フランス x2:モンペリエ、ラゴード 
 ・ヨーロッパ ヘッドコーター:ラ デファンス(パリ)
 ・ベルギー:ラ フルプ
 ・イタリア:ヴィメルカーテ(ミラノ)

 ヨーロッパ合計、9か所

 いずれも1990年以前のことだから、当然、この間大きな変化が起きてるだろうとは推測していた。ネットを使って調べてみると、結果はやはり悲しいものだった。

 僕の関連していたのは製品開発・製造部門のサイトだったから、無残なことになっていた。IBMがハードウエアから、例外を除いて撤退し、ソフト、サービスにビジネスを転換したのだから、それは当然の帰結だった。そして、累々たる廃墟がほとんどだった。


 ざっと書いてみると、



 <ハバント>


 <熊ホテル>

 英国のハバント:昼休みにビールを飲んで語っていたサイトは、閉鎖されていた。唯一の「熊ホテル」は健在だった。




 

 <グリーノック>

 英語が通じないで困ったスコットランドのグリーノックは、転売されてもうIBMではなくなっていた。TVを見ていると、最近スコティッシュ訛りが薄まっているようだ。日本の地方と同じかな。






 <ジンデルフィンゲン>

 ドイツのジンデルフィンゲン。僕がミラノ警察から言い渡された「48時間以内の国外退去」で逃げ込んだ南ドイツのこの町には、今やIBMは存在していなかった。正面のメルセデス・ベンツの工場は健在だった。






 <マインツ>

 マインツ、旨い豚の骨付きすね肉料理、「アイスバイン」を知ったIBMマインツは閉鎖されていた。一部は、フランクフルトの新しいサイトに統合されたようだ。






 <モンペリエ サイト>



 <モンペリエ クライアントセンター>


 フランス、モンペリエは、開発製造ではなくなって、ワトソン等コグニティヴシステムを中心としたクライアントセンターに変貌していた。つまり物理的なサイトは存在して、新しい事業で活躍していた。僕たちが、3か月楽しんだプロヴァンスの町には活気があって、救われた気がした。






 <ラゴード>

 フランスのラゴード研究所は閉鎖されていた。ここでは、研究所長たちが昼休みにペタングをやっているのを微笑ましく見いていた思い出がある。とても自分では泊まれないコートダジュール、ニースの4星ホテルに泊まれたのは、幸運だったとしか言いようがない。ラゴードの閉鎖では、研究者の中に自殺者も出たようだ。苦しい思いは突然やってきたのだろう。






 <ラ デファンス>

 フランス・パリのラ・デファンス地区にあった、ヨーロッパIBMヘッドコーターは、タワーパスカルから、新しいビルに移っていた。ヨーロッパ人、イギリス人、アメリカ人と一緒になって、僕は苦闘しながら、英語で議論した思い出の場所は消えていた。






 <ラ フルプ>

 ベルギーのブラッセル近郊にあった、ラ フルプの教育センターは他社に売られ、今はコンピューター学習ができる特殊なホテルに化けていた。本来の目的を失っていなくてよかった。24時間空いている図書館、深い森の散策路、ジムの施設などもそのままのようだ。ここで覚えた、ベルギービール、シーメイは忘れられない。今も時々飲んでいる。






 <ヴィメルカーテ>

 最後にイタリア・ミラノの近郊にあったヴィメルカーテは完全に閉鎖されて、建物もなくなっていた。ここで知り合ったイタリア人との友達とは、47年来の付き合いが続いている。昨年(2016年)、ミラノで会ってきた。まだまだ元気。来年(2018)、また会おうと言われているが、僕の心臓君次第だ。ミラノが、僕の第二の故郷になったのは、ヨーロッパ文化に2年間、どっぷりつかったショックの時間が起こした魔法なのかもしれない。IBM退職後も、3週間の旅を4回している。今も欠かさず毎日、イタリア語のラジオを聞いている。イタリア語を忘れないためだ。



 こうしてみると、ヨーロッパ・ヘッドコーターを除く8サイトの中で、唯一モンペリエだけが、IBMの新しいビジネスの拠点として、生き残っていた。非常に稀な、幸運なサイトだと言えるだろう。唯一の救いだった。


 追記:

 日本のIBM開発製造部門はどうだったのかも、書いておこう。

 製品開発製造部門の本社は、勝鬨橋のすぐそばの興和住生ビルにあった。その元に、大和研究所、藤沢事業所、野洲事業所があったが、1990年代にすべて閉鎖、売却され、今の日本IBMにはこの部門は存在しない。ざっと大和1,000名、藤沢1,400名、野洲3,000名がリストラされたことになる。社員にとって一番、インパクトが大きかったのは野洲でだろう。大和、藤沢と違って、やっていた事業をそのまま売却(大和:ThinkPad 藤沢:HDD等)できるものは無く、地域に再就先、受け皿も、ほとんどなかったからだ。僕は、この嵐の前に早期退職をして、新らたなセカンドライフの仕事を始めていた。



 <開発製造HQ と大和研究所>



 <藤沢と野洲>

 アメリカ、ヨーロッパ以外の国で、僕が訪れたことがあるのは、オーストラリアの3都市。シドニー、メルボルンとキャンベラだ。これは、IBMオーストラリアから依頼があって、3週間の営業支援のための旅だった。その後、オーストラリアの学会が募集したCIM(Computer Integrated Mfg.)の論文に応募して選ばれ、シドニーとメルボルンでの論文発表をしたのは楽しい思い出だ。


 クレジット情報:

 ・グリーンノック:Jim Bartonさん ライセンスは、Creative Commons BY-SA 2.0
 ・藤沢、野洲:ブログ“IBM OBの辛口トーク”よりお借りしました。