M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

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3.11と6年間の仙台

2021-03-21 | エッセイ

 

 2011.3.11東日本大震災の当日、僕は12:26’の「はやて」で、仙台を離れた。

<仙台 葛岡動物供養塔>

 あの日、14:26’発の「はやて」を予約していたが、マンションの引き渡しが11時過ぎに終わったので、降り出した小雪に背中を押されて僕は仙台駅へ。葛岡墓苑のミニチュア・シュナウザーの「チェルト君」の墓参りはやめて「ごめんね」と謝った。12:26’の「はやて」の指定席が取れた。地震が起きたのは14:46’。横浜駅から京急に乗って一駅の戸部を過ぎた時だった。 

 その後、京急の線路を歩いて戸部駅へ。 さらに横浜駅に向かった。中央通路は人で完全に埋まっていた。 全ての電車が止まって、皆、帰宅困難者になっていた。かなり時間が経って駅に放送が流れた。 岡野中学校に横浜市西区が避難所開設するという。僕も 帰宅困難者で避難所を経験したが、その日、津波の映像を見た時、僕は本当に幸運だったと知った。

<3.11 津波>

 マンションの買主は津波にやられて住むところをなくされた。が、同時にマンションを手に入れたことになる。買主にとっても売主にとっても、本当にいい偶然だったと思う。

 後日マンションの管理人さんに電話した。僕のいたマンション、ラピュータ国見は山を階段状に削ったところに建っていたので、地震に対しては強かった。水道を除いて、他に問題はなく、電気もエレベーターもガスも使えたようだ。 買主さんに連絡が取れて確認したがご家族は安全だったようだ。 本当に良かった。

<ラピュータ国見>

 

 仙台の復興の支援になればと、いろいろ考えたがいい案が思いつかなかった。そこで僕は仙台時代から使っていた酒屋さんを、オンラインショッピングで使うことを考えた。 それが、やXやさんだ。仙台時代に付き合っていたのは、マンションまで配達してくれた愛子店だった 。昔のお酒屋さんのように電話で注文して自宅まで届けてくれるというやり方で、 配達に当たってくれた年配の方が話好きで僕の部屋の倉庫の前で何分もお互いに話した思い出がある。 復興支援とはおこがましいが、彼を思い出してオンラインでやXやを客として応援しようと考えたわけだ。

<やXや愛子店>

 仙台時代、愛子支店にお世話になり始めたのは2005年ぐらいからで、僕が横浜に帰ってきた2011年の1月まで、その配達は行われていた。 僕はほとんどの場合、ワインを買っていた。 この店は、自分で世界中に手を伸ばし、日本に知られていない銘柄のワインを開拓し、客に提供するという特技があった。そういう意味では、僕にとって大切な店だった。 イオンの子会社になってしまったが、イオンもおそらくこのワインの商品開発能力を認めて、資本を投入したのだと思う。

 この店のウェブのマイページには、僕の購入記録が正確に残っている。 推測すると2011年から2021年の10年間で、総額 XY万円ほどは使っているようだ。これが彼らにどれほど立つかは分からないが、僕にとっては、好みのワインの宅配は大助かりだ。そしてワインの購入が復興の支援になればと思って続けている。横浜の洋光台にも支店があるので、気が向けば寄ってみている。

<売却したマンションからの仙台市街地 2015.10>

 くたばるまでにやっておきたいリスト(バケットリスト)に、最後の仙台への旅をして、被災地、石巻あたりを回ってみようという項目があった。2015年10月に、3泊4日でチェルト君の墓参り、仙台で一番高い(標高220m) 所にあるマンションに買主さん訪ねるということが含まれていた。

 仙台で地震、津波の 痕跡を見つけることはほとんどなかったが、東北本線経由で訪れた石巻は想像を超えた被害の跡を残していた。 忘れられないのは、日和山から見下ろした津波で流された家々のの土台だけの町の姿だった。復旧工事ということで、地面のかさ上げ工事が行われていたが、単に土を積んでブルドーザーで固めたと言う土の山があるだけで、本当にこれで家を建てる地盤として大丈夫なのだろうかと思ったことを記憶している。

<日和山からの石巻 2015>

 3月11日の東日本大震災10年の特集テレビを見ていると、仙台は繁栄してるようで新しいビルがニョキニョキ立っている。石巻にも家が建っているようだが、復興にはまだまだ程遠いという風景がみえた。25,000人もの人がこの災害で亡くなったのだと思うと、恐ろしい風景だと思った。

<石巻第一病院跡の水たまりに見つけたテディベア:持ち主は?>

  事故を起こした福島第一原発も、思い出される姿で現れた。この話を聞いていると、いつも不思議に思うことがある。 それは福島第一原発の事故のきっかけが、津波による電源の喪失にあるとの前提で全てのものが作られている。これは本当だろうかといつも思う。M.7.9の地震による被害が想像できるのだが、それが事故につながったとは考えられていないようだ。本当だろうかと今も思っている。

<福島第一原発事故 by 河北日報>


下宿とアパート

2021-03-07 | エッセイ

 自分の人生を、ある切り口で振り返ってみたいという気持ちで書いているエッセイがいくつかある。今回のテーマは「下宿とアパート」だ。

  僕が下宿生活を始めたのは、僕が大学に入学の時。大阪市立大学時代に、近鉄・南大阪線の河堀口(こぼれぐち)という駅の近くの下宿屋だ。もう名前さえ忘れてしまったけれど、ここは長い間、下宿を生業としてやっているプロの下宿屋さんだった。 僕が入った時には二人先輩がいて、一人は商学部、もう一人は法学部の同じ市立大学の学生だった。昔からずっと、市立大生の下宿屋をやっていたようだ。大学ヘは、阪和線の美章園駅から杉本町だった。

<大阪市大 杉本キャンパス by Kishuji Rapid Creative Commons 4.0>

  下宿というのは、朝飯と夕飯がついて、掃除と洗濯をしてくれる間借り生活と考えていただければいいだろう。管理人さんも感じが良くて、少し遅くなっても夕食を残しておいてくれるという親切を感じた。

 ここでの大きな出来事は、タバコが吸えるようになったことだろう。高校時代には手を出さなかったタバコだが、なんとか大人風にタバコを吸いたいと思ったわけだ。 当時はまだ「洋モク」と呼ばれた外国タバコは、闇市でしか買えなかった。 難波の千日前に、おばさんが大きなエプロンをして立っている。 パチンコ屋の隣だ。 そこで銘柄をこっそり話すとラッキーストライクとか、マルボーロとか、ジタンとかを買うことができた。値段は高かったが、ある意味アクセサリーなので洋モクを吸っていた。

<ジタン>

 しかしタバコは簡単には吸えなかった。 強烈な臭いがこもるので、部屋では吸えない。物干し台に登って外を見ながら練習するわけだ。 むせかえりながら、なれていった。 1ヶ月もかかったか、やっとタバコを普通に吸えるようになった。その後、50歳までたばこを吸い続けていたわけだから、今から思えばとんでもない自習だった。

 60年安保闘争の後の問題もあり、ここには1年6ヶ月ほどしかお世話にならなかった。僕が市大を中退して、東京・谷中への望郷の念に駆られてか、一人で東京に舞い戻ってきたからだ。

 東京では早稲田に入るつもりだったから、高校の同級生だけど、早稲田では先輩になる炬口の早稲田の下宿に転がり込んだ。 南こうせつの「神田川」が流行る以前のことだが、神田川の見える四畳半の下宿に転がり込んだ。 ここにどのくらいいたのか、よく覚えていないけれど、6ヶ月位はお世話になっていたと思う。喧嘩しないで男二人が鼻は付き合わせて、よく下宿生活をしたものだとも思う。 彼は4年前に脳梗塞で亡くなった。

 僕はアルバイトをしながら、テンプラで早稲田の授業を受けにいっていた。 テンプラっていう言葉は、今は死語になっているようだが、その学校の学生ではない人間が、学生かのように振る舞って、大学の授業を受けることを言っていた。 この下宿は、食事は出なかったから、早稲田の神田川に沿って何軒もあった定食屋にお世話になった。定食屋さんはつけだったから、おそらく何千円かを踏み倒したと思う。

<早稲田の定食屋>

 その後、僕の本当の初恋の人となった女子美生の下宿に、本当に短い間住んだことがある。西武池袋線の江古田の近くだった 。そこは本当に短くて、その後、2人プラス1、合計3人で、中野の三味線橋(今は暗渠になって橋はない)の近くにアパートを借りた。同棲と呼べるかどうかは分からないが、初めてのアパート生活だった 。その人との話は、別のエッセイで書いているから、ここでは書かないが、二人の女性と僕との変則的な同棲生活となった。僕の恋人の N さんは、わけあってセックスのできない体になっていた。 だからいわゆる同棲ということではないから、3人の共同生活と呼んでも構わない。 

 この三味線橋のアパートには、結構お世話になったと思う。僕が学費の安い法政に入って1年半ぐらいはここにいたと思う。 だから鍋屋横丁、女子美、中野などという言葉を聞くとかなり心が動揺する。二人の美術生のアトリエになって、部屋はいつもターペンタインの香りがしていた。

<アトリエ>

 Nさんは 女子美を卒業後もプロの絵描きとなり、油絵の制作を続けている。東大でフランス歴史関係の研究をやっている人と結婚して、東京に住んでいる。”もう古い話ですから…”と会ってもらえない。だから一人で毎年4月、上野の都美術館に彼女の絵を見に行っている。絵を見ていると、作家がどんな感じなのかを読み解くことができるから、出来る限り見ることにしている。

  彼女のアパートを出てから、親父が借りていた谷中のアトリエに住んでいた。親父が東京に帰ってくるということで、荒川を超えた西川口に小さなアパートを姉と一緒に借りた。西川口は全く興味の起きない、ただ寝るだけの場所だった。

<自由が丘駅 by 東急>

 その後、僕の就職のこともあり、自由が丘駅近くにあった木造アパートの一部屋を姉と二人で借りて住んだ。おそらく6年くらいは住んでいたと思う。つまり大学生時代と、就職が決まってからも、職場までここから通いながら住んでいた。 だから自由が丘はよく知っている。もちろん今は変わってしまった自由が丘だけれど、土地勘は残っている。

  この後、その頃のみんなの憧れだった公団住宅に応募して、何回目かで当選した。 それが新築の横浜・左近山団地だった。 当時としては珍しい10階建で、その8階に住んでいた。 一人では応募資格が無かったので、姉と二人で応募したわけだ。

<UR左近山1街区>

 次は駐在員として、イタリア・ミラノのアパートを借りることになった。アパルタメントと言うが、日本でいう賃貸マンションだ。 ミラノのガロファロ通り32だ。ミラノの庶民の街、 コルソ・ブエノスアイレスにも近く、メトロのリマが最寄り駅だった。2年ちょっとミラノにいたことになる。気持ちの上では僕の第二の故郷になった。

<グランサッソ・ミラノ>

 任期を終えて左近山団地に戻ったが、ここは姉に任せて、僕は戸塚に自分の家を建てた。30ちょい過ぎで自分の家を建てるということは、とても早いほうだったと思う。

 しかしその後、この家は、僕にとっては週末、子供達とワンと時間を過ごす場所としての意味しかなくなってしまった。  カミさんとは、全く相容れない価値観を持っているということが、家を建てたことによって明らかになり、諍いが絶えなくなった。

 僕は自宅を一人で出て、小田急相模原の賃貸アパート、M荘に住むことにした。環境的には素晴らしいところで、駅から歩いて5分。目の前が松林の静かな住宅地。買い物は歩いて3分の大型スーパーがあった。 六畳一間で、押入れと小さなキッチン、バスがついていた。 会社と、子供達のいる戸塚の家と、そして寝に返るアパートの三角形を行き来することになった。ここを選んだ理由の一つには、小田急線で学生時代によく通った新宿まで一本で行けることだった。

<小田急相模原 M荘>

  カミさんとは20年前の同意の通り、子供たちが大学を出て仕事を見つけて独立したのを確認して、離婚した。

 この小田急相模原のアパートを引き払った後、姉の住む左近山に戻った。

 会社を早期退職して、仕事とは別に20年ほど勉強していたカウンセラーの仕事を始めた。 一人で生きていくのは辛いと思ってクリスチャンのORさんと残りの時間を過ごそうと再婚した。 この時、借りたのが、南万騎が原のアパートだった。 目の前を東海道新幹線が走っていた。

  その後、仙台で自分のマンションを持って、子はかすがいならぬ、犬はかすがいで3人で生活していた。しかし、二人の子供だったシュナウザーが9歳で、癌であの世に行った。すると残った二人の間には共通項が何もなくて、結果としては離婚することになった。

<UR能見台 by Google>

  横浜に帰ってきた。 手っ取り早いのが UR だと考えて、能見台の賃貸マンションに一時住むことにした。しかし、家賃が高くて、2回も離婚した僕の手持ちの金は潤沢ではなかったから慌てて中古マンションを探した。

 〆て、下宿が2ヶ所、賃貸アパートが8ヶ所の合計10ヶ所を動き回った生活だった。因みに、自分の「家」は、戸塚、伊豆高原、仙台、横浜ということになる。結果としては、荷物が少ない生活になっていた。