M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

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ヨーロッパ・アルプス、消えゆく氷河と酸欠

2016-08-28 | 2016 イタリア



<アレッチ氷河:1979/1991/2002の比較  by Zuecho CC.3.0 Unorted>

 最後のイタリア行きとなるだろう旅の目的に、ヨーロッパ・アルプスを見ておきたいということがあった。できれば、ドロミティを車で走ってみたかった.のだ。ヴェネチア、コルティーナ・ダンペッツォから西へ、マルモラーダ、そこからオルティゼイ、そしてサンモリッツへと考えていた。距離、500㎞、時間、7時間半。このコースは何度か走っていて懐かしいが、歳のことを考えると、ドロミティの曲がりくねった細い道に車を走らせるのは、ちょっとリスクだと考え電車で予定を立ててみた。

 スイスといえば、本当は、グリンデルバルト、アイガー、ユンクフラウ、ラウテンブルンネンのあるベルナーオーバーランドに行きたいが、ちょっと遠い。そこで、エンガディンのサンモリッツで妥協した。

 ミラノから車では2時間半ほどのところを、電車でサンモリッツまでいくと、乗り換えが多くて4時間半はかかると分った。しかも、特急はない。そこで考えたのが、スイスとの国境の町、ティラノを拠点とする案だ。有名なベルニーナ鉄道が、サンモリッツとの間の高原を2時間半でゆっくり走っている。僕は、車では何度もベルニーナ峠を走っているが、電車で行くのは初体験。楽ちんだろうと思ったのだ。

 白状すれば、ホテルの値段がサンモリッツとティラノでは、4星クラスで倍、半分の違いがある。ティラノなら、ミラノからトレノルド鉄道(ロンバルディア地方をカバーするトレニタリア)の鈍行で2時間半。コモ湖を見ながらの旅もいいだろうと、ティラノに4泊と決めた。



 <コモ湖:ベラージオ>

 サンモリッツを選んだのは、イタリア駐在時代にミラノから一般道を4時間ほど車を転がして、僕は何度も行ったことがあったからだ。いつだったか、友達が日本からスキー靴を背負って会議でパリにやって来て、ミラノに寄って、僕にサンモリッツに連れて行けと半強制的に迫られたことがある。そのとき登ったのがサンモリッツの最高地点、ピッツ・ナイア(3,056m)だった。今回も、そこにも登ってみたかった。あの時はスキーで6時間もかけて、サンモリッツに帰ってきた懐かしい思い出の場所だ。

 また、氷河が恐ろしいスピードで溶けている現状が見られるという、ベルニーナ・アルプスの山々も見てみたかった。歩いて山登りができる体ではないから、ロープウェーのキャビンでディアヴォレッツア(2、953m)に登って、ピッツ・ベルニーナ(4,047m)を眺めてみたかったのだ。

 ひとつ、気がかりな事があった。それは僕の心臓。肥大型心筋症で心房細動の持病。4回のオペの結果か、最近は安定してきて、発作が起きて電気ショックを受けに病院に救急搬送ということは起きなくなっているが、心配。医者に相談したら、酸素ボンベをもって登れ、マツキヨに500円くらいで売っているという。しかし、飛行機のセキュリティ・チェックで撥ねられそう。だったら、あまり歩くな、深呼吸をしろと、医者は忠告してくれた。

 3,000mのピッツ・ナイア頂上駅に着いたら、たちまち心臓がバクバクし出した。指先が冷たく、高山病の症状が出た。まずいぞと自重。昔はこの時期も、夏スキーができたのに、今は山頂まで雪がない。地球温暖化は、夏スキーをダメにしていた。ピッツ・ナイアのカフェからベルニーナ・アルプス群を眺めて、ほうほうの体で、サンモリッツまで逃げ帰った。



 <ピッツ・ナイアから見たベルリーナの山々>

 次の日、もう一つの目的地、ディアボレッツアへ。イタリア語で、「悪魔のような」という名前の駅でベルニーナ鉄道を降りて、100人も乗れるキャビンで2,953mまで10分足らずで直登。キャビンの麓の駅で、もう僕の心臓はバクバクし始めた。胸が苦しく、脈拍が早くなる。気分が悪い。しかし、ここまで来たのだからと、ゆっくり、ゆっくりと頑張る。




 <デイアボレッザからの眺め:右から2番目がベルニーナ by JoJo CC.3.0>

 ロープウェーの終点から見ると、目の前に、ベルニーナ・アルプスの主峰、ピッツ・ ベルニーナがそびえている。この山のモルテッラ氷河が一番速いスピードで消滅しているという。1920年から記録では、年に20mの氷河の後退が観測されている。早晩、アルプスから氷河が消えるという科学者の話は、現実に目の前で起きていた。氷河の水が枯れると、下流はどうなるのだろうかと、恐ろしくもなる。



 <氷河の成れの果て>

 かえり、氷河のなれの果ての氷河湖が、キャビンの足元に散らばって見えた。テントをかぶせて、溶けるスピードを遅くしようという涙ぐましい努力も見えたが、早晩、勝負はつくだろう。その時、地球はどうなるか、誰も知らない。



P.S. クレジット情報
① <アレッチ氷河>は、Zuechoさんの写真をお借りしました
ライセンスは Creative Commons 3.0 unported
② <デイアボレッザからの眺め>は、 JoJoさんの写真のお借りしました
ライセンスは、 Creative Commons 3.0 

44年来の友人との再会@ミラノ

2016-08-14 | 2016 イタリア


 今度のミラノは、僕のカスケットリスト(棺桶リスト:くたばるまでに会っておきたい人のリスト)で、一番優先度が高い項目に、○(達成印)をつけるためだった。



 <カスケットリストの一部>

 それは、44年前に知り合って以来、付き合ってきたエミリオに会うことだった。最初の出会いは1971年、IBMミラノの製品開発拠点で、僕の二度目のイタリア駐在の時だった。その頃、彼は40歳代半ばで、30過ぎたばかりの僕より兄貴だった。前の駐在業務の残務整理のような目的で、6月から4か月の滞在だった。期間が短く、単身赴任だったので、彼とは仕事の上のみならず、個人的な生活でもつきあいができた。それには、彼の兄貴分としての好意があったからだ。

 イタリアでは、敬称をつけて呼ぶことが公的な会話では必要。彼は、その頃としてはまだ珍しく大学を卒業していて、技術者としてIBMで働いていた。だから、ドットーレ(博士)Sと呼ばれていた。人にやさしい、指導的な立場の役職、おそらく副部長クラスの人だったと思う。

 ミラノの彼のマンション(イタリアではアパルタメントと呼ぶ)によばれたのが始まりだった。

 7階建てのマンションの最上階に彼の自宅があった。驚いた。5LDKほどのマンションの居間に、暖炉があったのだ。暖炉は飾りではなく、冬は暖房のために燃やすという。もちろん熱に考慮して、外壁の角に取り付けられ、煙突も出ていた。その頃、日本の団地の部屋には、暖炉なんてものは見たことがなかった。生活の質の差を感じた。子供は長男のフルビオ君が一人で、3人の暮らしだった。



 <ドロミティ・ディ・ブレンタ>

 何度かミラノのマンションにもお邪魔したが、忘れられないのは、彼のドロミティ・ブレンタの別荘だ。ドロミティ・ブレンタとは、マルモラーダ山を核とする、よく知られているドロミティ山塊とは離れて、アディジェ川の西側にある山塊で、同じくドロマイトで出来ている山々。7月初めから、子供と奥さんは避暑のためにミラノを離れ、マドンナ・ディ・カンピリオ村の別荘で過ごしていた。エミリオは仕事があるから、そんな長い休暇はとれず、週末になるとアルファロメオ・ジュリアを3時間近く走らせて、家族のもとに帰っていた。その頃は、まだブレシアからの高速はなかったから、ガルダ湖の東側を登って、300㎞近い距離を走っていたわけだ。

 夏をミラノで一人、過ごしている僕を見て、別荘に来ないかと誘ってくれた。3回ほど、マドンナ・ディ・カンピリオまで、彼と一緒の週末ドライブになった。1500mの高原の斜面に、彼のログハウスがあった。庭は広く、僕にはあこがれの大きなハンモックが白樺の木にスイングしていた。フルビオを寝かしつけると、エミリオは奥様、エミリアと僕と一緒に夜の村の散歩に出た。8月とはいえ、高原の空気は冷え込んでいた。高い山の連なりの上空には、星たちが燦然ときらめいていた。

 日本で言ってみれば、東京にマンションを持って、そして軽井沢に別荘を持つなんて、一般的なサラリーマンができる生活ではない。羨ましかった。その頃僕は、横浜の皆の憧れる公団住宅に“誇らしく”住んでいたのだから、ギャップは大きかった。質がちがった。

 その後、彼は1982に来日して、藤沢のIBMのサイトに一週間弱やってきた。本当だったら、家に呼ぶのがイタリアの常識だが、それができるほど我が家は広くもない。仕方なく、外で食事に誘った。その時、馬刺しを食べさせて、後で彼に怒られたことがある。その後も、1987のブラッセル出張の折、理由をつけてミラノのサイトを訪れ、彼に会った記憶もある。

 クリスマスカードの交換が続いたが、1996年と2002年に、僕がイタリアに、それぞれ3週間くらい滞在したとき、F1で知られるモンツアの自宅に招かれて、エミリアとも会って昔話をした。

 2012年にイタリアへ行ったが、スケジュールが合わずエミリオには会えなかった。僕も心臓君に問題があり、彼の愛妻のエミリアには筋無力症が発症し、先が不透明。やっと今年(2016年)、最後の再会にこぎつけたわけだ。85歳になったエミリオは、いつものように紳士。ピンクの夏姿の奥様の尻に敷かれながら、ニコニコと、いいご夫婦を楽しんでいた。エミリアが見せてくれた写真には、8人の孫に囲まれた二人の姿があった。その中には、あのフルビオの子供も写っていた。イタリア人の心の中心には、常に家族があると感じているから、彼らが嬉しそうに、家族の写真を見せてくれるのを羨ましく思う。



 <二人のEと僕>

 話し合始めると、あっという間に、会わなかった14年の空白がすっ飛び、昨日の延長で今日、話しているような感じになった。これは、本当の友達の特権だろう。

 EXPO2015の都市づくりの一環として設計された、美しい「縦の森」を見たいと言ったら、エミリオが車でそこまで連れて行ってくれた。車はアウディのA6。昔はアルファ・ジュリエッタじゃなかったかと聞いたら、あれから、いろいろ車を替えて、BMWなどにも乗ったと言っていた。内装も、アウディA6はすばらしい車だった。



 <縦の森>

 灼熱のミラノを、ホテルまでA6で送ってくれた。車を降りて、二人と頬を寄せてハグし、両手で握手した。今度は「上」で会おうと声をかけた。三人に笑みが生まれた。アウディが角を曲がってコルソ・ブエノス・アイレスに消えるのを、僕はホテルの前で見送った。今生の別れだろうと、三人ともわかっていた。