M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

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おそらく最後の仙台

2015-10-31 | エッセイ

 3.11(2011年)の大震災の直前の12:26’の「はやて」で、仙台から帰えってきた僕。あれ以来、仙台には行ったことはない。あの地震の日、僕は14:26’発の「はやて」を予約していたが、マンションの引き渡しが11:15‘に終わったので、降り出した小雪に背中を押されて仙台駅に戻った。幸運にも、12:26’の「はやて」の指定席が取れた。僕が地震にあったのは、14:46‘、横浜駅から京急に乗ってすぐだった。

 あれから4年半、行きたいという気持ちはあったが、心臓君のこともあり、延び延びになっていた仙台行きだった。

 目的は二つ、いや四つかもしれない。

 2009年の年末に散骨したM.シュナウザー、チェルト君の墓参り、売却したマンションの3.11の地震後の様子見、震災の傷跡の残る地に足を運んでみる、そして、東京ではなかなか食えない三陸の生ガキを食べることの四つだ。



 <海風土>

 仙台に着いたらすぐ遅い昼飯。行きつけの「海風土:ubudo」に飛び込んで、5年ぶりに三陸の生ガキを食べた。ここでは、三種類の牡蠣を味わえる。「松島」、「鳴瀬」(もとは奥松島と呼んでいた)、そして、「志津川」の殻つき生ガキの食べ比べだ。感激して白ワインが進んだ。一つずつ喉ごしがみんな違う。一つずつ微妙に味も違う。記憶通り、やはり奥松島の牡蠣が一番、味が濃い。こうして、一つ目の目的はすぐに果たせた。夕食は、伊達の牛タン定食。これも麦ごはんとオックステール・スープが美味くて、満足。食い物の美味いのは旅の楽しみ。幸せな初日だった。

 二つ目は、M.シュナウザー、チェルト君の墓参り。2006年に癌で虹の橋を渡り、2009年末に散骨した葛岡墓苑の動物供養塔へのお参りだ。いつものようにとバラを探したが、その日はなくて、リンドウで我慢してもらう。花束をささげて、長い間のほったらかしにしたことを謝った。本当に、彼に救われた仙台での生活だった。彼がボンドの役割を果たしていたことを、彼の死後知った。存在の大きさの証明だった。



 <葛岡動物納骨堂>

 帰りに元のマンションを覗いてみた。震災の被害は無かったと聞いていたが、傷跡は全くなく、昔のままの姿で存在していた。マンションの買主さんは、多賀城で家を流されたと聞いたから、3.11のマンションの引き渡しは、渡りに船の幸運だったのかもしれない。

 三つ目の目的は、東日本大震災で大きな被害を受けた三陸に足を踏み入れてみることだった。仙台からの日帰りだから、遠くには行けない。有名になった大川小学校、石巻市民病院、合計4千人もの死者、行方不明者の出た石巻を訪れてみることにした。

 仙台から、東北本線経由のハイブリッド快速で、1時間ちょっとで石巻。仙石線だと、2時間近くかかるから、日帰りには助かる。心臓君のこともあるから歩いて回ることはできないから、ガイド付きのタクシーを頼んだ。被害の爪痕を訪ねて回る1時間半の旅だった。

 渦巻きながら人々を襲う津波の映像で有名になった日和山に登って、津波にのまれた石巻の町を見おろした。震災前の写真のパネルがあって、目の前の現在、つまり背高泡立ち草に埋め尽くされた広っぱとの違いを知ることができる。さらには7mの高さの津波の破壊力を知ることになる。草原に下りて、一瞬で無くなった町の残滓を眺めてみる。大きな店や住宅の立て込んでいた町が、すべて根元から押し流されて、残るは、家の基礎部分と、陸の方に折れ曲がったボルトの姿だった。それを雑草が、あたかも、もともと草叢だったかのように覆い隠している。



 <稱法寺>

 中でも印象的だったのは、美しい大屋根に瓦が見事に乗ったままの寺、稱法寺の姿だった。建物の木組みはそのままで、中は空っぽな孤高の立ち姿の寺だ。壁も含め、建物の中はきれいさっぱり洗い流されて、ガランドウだ。美しいかたちの屋根を囲む銀杏の木は何もなかったかのように、凛とそびえていた。

 今回の旅で一番、僕の心を打った光景に出合ったのは、この寺のすぐ側。そこは地盤沈下が起き、海水が引かず、瓦礫の中に残っていた小さな沼のような水たまり。



 <テディベア>

 その水面に、もとの色はわからなくなった、テディベアのような泥にまみれたぬいぐるみが浮かんでいた。それを見た瞬間、なぜ、この4年半もの間、水の中にこのぬいぐるみはとり残されているのだろうかという想いだった。持ち主はどうしたのだろう。身内はどうなったのだろう。4年半もの間、回収されないまま、ここに浮かんでいるのはなぜだろう。もしかしたら、このテディベアの持ち主は、ご家族もろとも、7mの津波にのみこまれてしまったのだろうか、という悲しい想像だった。

 巨大ゼネコンが土を盛り上げて、高い土地を作っている。しかし、材料は砂交じりで、雨水で流れ落ちた跡が、その高い地面の法面にたくさん見られた。こんな工法で、次の津波に耐えられるのだろうかと疑問を抱いた。地元の人も、こんな風に作られた高台に家を建てる勇気はないとのこと。こうした工事はまだまだ進行中だと聞かされ、なんだか大手ゼネコンの金への執着のみが明らかなになった風景が広がっていた。国は復興って何を考えているんだろう。



 <青葉通り>

 最後の日は、6年間住んだ仙台の街を歩いて見た。紅葉が始まりかけていた。定禅寺通りや青葉通りは、懐かしく、美しい街並みを見せてくれた。やはり、美しい街だった。

 当時、宮城教育大学でのボランティア活動でつながりがあったI先生に連絡してみたが、この時期には毎年来ていた、イタリア・ペルージア大学からの交換留学生は、震災以降、交流が途絶えていると聞いた。福島の原発事故の放射能漏れを心配するイタリア人の親御さんを説得するのは、生易しいことではないようだ。逆に忘れかけている日本の姿が見えてくる。



 <猫ザメ>

 14:30’の「はやぶさ」に乗るまでに、おそいお昼を食べようと考えた。いろいろ考えたが、やっぱり最後だからもう一度と、海風土で三陸の生ガキを食べることにした。カウンター席の目の前の水槽には、カレイやオコゼ、トラザメに混じって、猫ザメが僕に眼を飛ばしていた。

 もうこれで、棺桶リスト(くたばるまでにやって置きたいリスト)の一項目が終わった。もう二度と、仙台まで足を延ばすことはないだろう。チェルト君とは、虹の橋の向こうで会えるだろうと「はやぶさ」に乗った。


P.S.
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<葛岡動物納骨堂の写真は、PhotoZoから雨読晴耕さんの作品をお借りしました>
クリエイティブ・コモンズ・ライセンスこの 作品 は クリエイティブ・コモンズ 表示 - 非営利 2.1 日本 ライセンスの下に提供されています。


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