さて、試写をしたのですが‥
もうちょっと、、
ウクライナ…インダスターのことを、、
僕がこのレンズを手に入れたいと思った記事を一部抜粋します。
週刊カメラーズ・ハイ第26回『激動の世の中を渡り歩いた生き証人』
時は1932年のソビエト連邦ハリコフ市(現ウクライナ・ハルキウ市)
厳しい世情のうねりの中で、多くの人々が混乱し、抑圧を受けていた。そんな時代に端を発するお話
1917年のロシア革命以降、共産主義を掲げたことで諸外国からの孤立を招き、実状を無視した内政での混乱が長く続いたこの国には、
親を失った孤児達が大勢いました。
そんな子供たちに救いの手を差し伸べたのは、かつて秘密警察のトップとして尽力し、国民から恐れられた、
フェリックス・エドムンドヴィチ・ジェルジンスキー(Феликс Эдмундович Дзержинский)
でした。
彼の提唱によって孤児たちの教育や、将来役立つであろう職能を育むために、
ハリコフ市に「コミューン(Коммуна )」と名付けられた孤児院が生まれます。
この地では、レンジファインダーカメラの製造が開始され、
そのカメラ工場や製品にはジェルジンスキーのイニシャル「ФЭД(FED・フェド)」が冠せられました。
この国におけるカメラの生産は、その後の社会の安定とともに拡大して行き、国内の各地に工場が作られてゆきます。
そんな最中の1941年6月22日、世界中に激震が走ります。
ソ連と同盟国であった筈のナチス・ドイツが、国境を越えて電撃侵攻。独ソ戦が突如として始まります。
戦線に近い工場地帯は、遠くウラルやシベリアまで疎開し、当初大きく落ち込んだ生産体制を徐々に回復していきます。
軍需物資としても重要なカメラも、この戦争によって敵国ドイツのライカの輸入が出来なくなったことを受け、
安全な地域での生産を拡大して行きます。
国産カメラ―――いわゆるコピーライカの製造です。
戦後、戦勝国となったソ連は、ドイツから生産ラインの一部を購入し、疲弊したカメラの増産体制を整えていきます。
構成は3群4枚のテッサー型で7枚絞り。
マウントはバルナックライカと互換性のあるLマウント。
戦前、戦中、戦後と長きにわたって製造され、途中数回の大きなモデルチェンジがあります。
最短撮影距離は1m、マウントや製造年代によって若干スペックは異なります。
シリアルナンバーの頭2ケタが製造年を表しており、
シリアルとレンズ名称の間に刻印されたマークが製造工場を表しています。
当時のソ連は、アメリカとの冷戦の最中、
最先端技術をもって世界に先駆け人工衛星打ち上げ、スプートニク計画を成功させた翌年にあたり、
国内の工業が最盛期を迎えたころにあたります。
同時期に生産が開始され、構成も近い、
「Leitz Elmar 50mm/f2.8L」などと比較するのはあまりにも酷かもしれませんが、
テッサー型の定評ある描写は健在です。
大きな癖も少なく、開放から素直な描写を見せてくれます。
※一方で精巧とは言い難い生産体制もあり、個体差が激しいとも言われています。
このように、一時期はアメリカを凌ぐ工業力を誇っていたものの、
その後の長引く冷戦や政治腐敗による経済の停滞とともに光学製品の品質も低下。
そして1991年の12月25日、ミハイル・ゴルバチョフが大統領を辞任するとともに国家も解体・消滅、
共産主義の下、国営でレンズを作り続けていた生産拠点の多くもまた、過去のモノとして風化していくこととなりますが、
現在でも一部の工場は民営化されて存続し、光学製品を作っています。
描写に代表されるスペック面・外観の美しさなど、他のメーカーには及ばない点も多くありますが、
74年間、この地球上に確かに存在した筈の労働者の国、
革命から粛清、戦争、冷戦、停滞、崩壊と、
他の国にはない程の激動の時代を生き抜いてきた歴史の生き証人ともいえる古豪レンズたちには、
言葉にできない、深い味があるようにもまた、思えてくるのです。
そんな他にはない、唯一無二のレンズたち。
一度手に取ってみてはいかがですか?
そんなことを思いながら‥
インダスター61を付け
シャッターを押してみました。。
#いつもの、せんだい農業園芸センターにて。。
Industar-61 2.8/53 L39