あたし『 黒部の太陽 』 見たことありませんでした・・。
黒部ダムの歴史 きちんと 知りませんでした・・。
今回 黒部ダムに 出かけ 少しだけこのことにに目を向けられたことは ありがたいことでした。
立山黒部アルペンルートは、今年は 4月16日から 全線開通され 春先は 雪の壁を見ながら歩く
室堂の「雪の大谷」の「雪の大谷ウォーク」を 思い出す人も多いかなと・・ あたしも 一度は行ってみたい一つです。
黒部ダム駅に到着。
バスの中で 見学コースというか出口の説明が流れていて・・
説明によると
地中階段を220段 約10分 行く ダム展望台 コース。
逆に 階段を70段位 降りて行く黒部ダムレストハウスコース。
”上から見てみたい ” って いうことで 220段頑張ることにいたしましたが・・
日頃の 運動筋肉不足 なんてもんじゃーありません。
大殿筋やら腿肉やら のぼっている途中 悲鳴をあげそうでした。
階段の斜度も きつめ でして 息が きれるきれる 。
それでも ・・ 何とか ダム 展望台に 到着 。
【 ダム 展望台 】
ダムと北アルプスの眺めを一望したいなら・・
目の前に広がる 山並みと 黒部湖は あっかんです。
黒部ダム工事 で みんなを苦しめた”破砕帯 ” その水は こんなにも 冷たいんです。
どうぞ・・
この水を 頭からかぶって ずぶ濡れになりながら・・ トンネル工事を していたのです。
トイレに入ったら こう書かれていました。
ダム展望台から 外階段で 下に
ダムの放水を見ながら 降りて行くと・・
【 放水 観覧ステージ 】 です。
※ 黒部ダム駅から レストハウス出口に 行った場合・・・ こちらの 放水観覧ステージに バリアフリー通路で行かれます。
そこからの景色です
さらに・・ 下に 降りて行くと・・
【 新展望 広場 】 です。
放水の 小さなしぶきが たくさん反射して とってもきれいでした。
山も・・
降りてきた階段を・・のぼって 上に ( しかし・・展望台コースは かなりの 階段コースです )
【 レストハウス前 】
天気も良かったので 黒部湖から 黒部平まで 足を伸ばしました。
【 黒部ダム 建設の歴史 】
戦後の 日本経済復興の名のもとに ・・・ 関西の電力不足を解決するべく行われた 。
昭和31年 くろよん建設を行うことを決定し 8月 関西電力は、資材を運ぶための「 大町ルート 」 ( 今の関電トンネル )の工事を始めた。
トローリバスで トンネルのを通る途中に
『 破砕帯 』というものがあった。
( ※すみません 引用です~トンネルの中からは 撮れませんでしたので・・・。 )
戦後復興の当時、関西地方は電力供給不足による復興の遅れに喘いでいた。「電力飢饉」とも呼ばれ、「産業の血液」である電力が不足のあまり、工場は週に2日の「休電日」を設けなければならなかった。
そこで、戦前より構想として暖められていた黒四ダムの建設に白羽の矢が立った。
といっても、黒四ダムに先立つ黒三ダムが、昭和15年(1940年)11月に完成していたが、黒三ダムは、トンネル工事が岩盤温度130度の高熱地帯に遭遇し、大雪崩によって宿舎が吹き飛ばされるという大災害に見舞われ、100名を
超す死者を出す難工事のプロジェクトであった。黒四ダムは、この黒三ダムのさらに上流に位置する人跡未踏の地にダムを建設する想像を超えたプロジェクトだった。
黒部にダムを建設するためには、長野県側の標高1550メートルに位置する扇沢から、 赤沢岳の下を貫通し、ダムの建設現場となる御前沢に抜ける5.4キロメートルのトンネルを掘る必要があった。
トンネルは、一日二交代、24時間体制の突貫工事により、通常の2倍のスピードで掘り進められた。
ところが、トンネルを3割ほど掘り進んだ時点で、岩から針でついたような水が噴き出した。岩盤に亀裂が生じ、脆弱になった地層・・破砕帯だった。
少しの振動でも地盤が軟弱なため崩壊の恐れがあるため、手掘りに切り替える。
しかし、掘る毎に水が噴き出し、土砂に埋まる、土砂をかき出しても、掘ってもまた土砂に埋まる。恐怖と徒労のいたちごっこ。
わずか 80mという 距離がまったく進めず・・
本体のトンネルと並行して、水抜き用の穴をボーリングによって岩盤に開けることで、水を抜き進めた。
7ケ月苦闘し 突破。
昭和33年2月貫通・・トンネル完成まで1年の予定は、破砕帯による7ヶ月の停滞を余儀なくされ、1年7ヶ月で貫通した。
※ くろよん記念室より
その後、トンネル貫通後の昭和33年(1958年)からダムの建設は開始されます。
途中、トンネル工事の遅延解消のため、起死回生の大発破により山肌を吹き飛ばしたり、伊勢湾台風によって宿舎が流されたり、雪崩により生き埋めになる等あまたの困難を乗り越えながら
5年かけた昭和38年(1963年)6月 ダムは竣工しました。
513億円の工事(当時) 延べ1000万人。
【コンクリートバケット ・滑車 】
ダム建設中 滑車は25tクレーン2台を 標高1,454mに運び コンクリートバケットは 1日960回も運搬したそうです。
ダム展望台から 下に降りていく途中に 展示してありました。
【 殉職者 慰霊碑 】
建設中に殉職された171名の 名前が刻まれ
「尊きみはしらに捧ぐ」と・・
171名に及ぶ殉職者を出しながらも続行したプロジェクトは、通常ではありえないものだったと思います。
それでも なお突き動かされて なしえたものだとしたら・・
そこには、損得を超え、プロジェクトに対して意気に感じて取り組むこと抜きでは成り立たない世界があったのだと・・。
実際に このダムを見て 時代背景を考えると この凄さが 物凄い重さで
頭を 下げずには いられませんでした。
それと 同時に ”原子力発電 ”のことが頭に浮かんだ 自分でした・・・。
福島の事故をもってしても 更にそれを推し進めることの矛盾、欲に突き動かされてでは 先には何もないと・・・。
長く なりましたが お付き合いありがとうございました。
黒部ダムから 黒部平に つづく
黒部ダムの歴史 きちんと 知りませんでした・・。
今回 黒部ダムに 出かけ 少しだけこのことにに目を向けられたことは ありがたいことでした。
立山黒部アルペンルートは、今年は 4月16日から 全線開通され 春先は 雪の壁を見ながら歩く
室堂の「雪の大谷」の「雪の大谷ウォーク」を 思い出す人も多いかなと・・ あたしも 一度は行ってみたい一つです。
黒部ダム駅に到着。
バスの中で 見学コースというか出口の説明が流れていて・・
説明によると
地中階段を220段 約10分 行く ダム展望台 コース。
逆に 階段を70段位 降りて行く黒部ダムレストハウスコース。
”上から見てみたい ” って いうことで 220段頑張ることにいたしましたが・・
日頃の 運動筋肉不足 なんてもんじゃーありません。
大殿筋やら腿肉やら のぼっている途中 悲鳴をあげそうでした。
階段の斜度も きつめ でして 息が きれるきれる 。
それでも ・・ 何とか ダム 展望台に 到着 。
【 ダム 展望台 】
ダムと北アルプスの眺めを一望したいなら・・
目の前に広がる 山並みと 黒部湖は あっかんです。
黒部ダム工事 で みんなを苦しめた”破砕帯 ” その水は こんなにも 冷たいんです。
どうぞ・・
この水を 頭からかぶって ずぶ濡れになりながら・・ トンネル工事を していたのです。
トイレに入ったら こう書かれていました。
ダム展望台から 外階段で 下に
ダムの放水を見ながら 降りて行くと・・
【 放水 観覧ステージ 】 です。
※ 黒部ダム駅から レストハウス出口に 行った場合・・・ こちらの 放水観覧ステージに バリアフリー通路で行かれます。
そこからの景色です
さらに・・ 下に 降りて行くと・・
【 新展望 広場 】 です。
放水の 小さなしぶきが たくさん反射して とってもきれいでした。
山も・・
降りてきた階段を・・のぼって 上に ( しかし・・展望台コースは かなりの 階段コースです )
【 レストハウス前 】
天気も良かったので 黒部湖から 黒部平まで 足を伸ばしました。
【 黒部ダム 建設の歴史 】
戦後の 日本経済復興の名のもとに ・・・ 関西の電力不足を解決するべく行われた 。
昭和31年 くろよん建設を行うことを決定し 8月 関西電力は、資材を運ぶための「 大町ルート 」 ( 今の関電トンネル )の工事を始めた。
トローリバスで トンネルのを通る途中に
『 破砕帯 』というものがあった。
( ※すみません 引用です~トンネルの中からは 撮れませんでしたので・・・。 )
戦後復興の当時、関西地方は電力供給不足による復興の遅れに喘いでいた。「電力飢饉」とも呼ばれ、「産業の血液」である電力が不足のあまり、工場は週に2日の「休電日」を設けなければならなかった。
そこで、戦前より構想として暖められていた黒四ダムの建設に白羽の矢が立った。
といっても、黒四ダムに先立つ黒三ダムが、昭和15年(1940年)11月に完成していたが、黒三ダムは、トンネル工事が岩盤温度130度の高熱地帯に遭遇し、大雪崩によって宿舎が吹き飛ばされるという大災害に見舞われ、100名を
超す死者を出す難工事のプロジェクトであった。黒四ダムは、この黒三ダムのさらに上流に位置する人跡未踏の地にダムを建設する想像を超えたプロジェクトだった。
黒部にダムを建設するためには、長野県側の標高1550メートルに位置する扇沢から、 赤沢岳の下を貫通し、ダムの建設現場となる御前沢に抜ける5.4キロメートルのトンネルを掘る必要があった。
トンネルは、一日二交代、24時間体制の突貫工事により、通常の2倍のスピードで掘り進められた。
ところが、トンネルを3割ほど掘り進んだ時点で、岩から針でついたような水が噴き出した。岩盤に亀裂が生じ、脆弱になった地層・・破砕帯だった。
少しの振動でも地盤が軟弱なため崩壊の恐れがあるため、手掘りに切り替える。
しかし、掘る毎に水が噴き出し、土砂に埋まる、土砂をかき出しても、掘ってもまた土砂に埋まる。恐怖と徒労のいたちごっこ。
わずか 80mという 距離がまったく進めず・・
本体のトンネルと並行して、水抜き用の穴をボーリングによって岩盤に開けることで、水を抜き進めた。
7ケ月苦闘し 突破。
昭和33年2月貫通・・トンネル完成まで1年の予定は、破砕帯による7ヶ月の停滞を余儀なくされ、1年7ヶ月で貫通した。
※ くろよん記念室より
その後、トンネル貫通後の昭和33年(1958年)からダムの建設は開始されます。
途中、トンネル工事の遅延解消のため、起死回生の大発破により山肌を吹き飛ばしたり、伊勢湾台風によって宿舎が流されたり、雪崩により生き埋めになる等あまたの困難を乗り越えながら
5年かけた昭和38年(1963年)6月 ダムは竣工しました。
513億円の工事(当時) 延べ1000万人。
【コンクリートバケット ・滑車 】
ダム建設中 滑車は25tクレーン2台を 標高1,454mに運び コンクリートバケットは 1日960回も運搬したそうです。
ダム展望台から 下に降りていく途中に 展示してありました。
【 殉職者 慰霊碑 】
建設中に殉職された171名の 名前が刻まれ
「尊きみはしらに捧ぐ」と・・
171名に及ぶ殉職者を出しながらも続行したプロジェクトは、通常ではありえないものだったと思います。
それでも なお突き動かされて なしえたものだとしたら・・
そこには、損得を超え、プロジェクトに対して意気に感じて取り組むこと抜きでは成り立たない世界があったのだと・・。
実際に このダムを見て 時代背景を考えると この凄さが 物凄い重さで
頭を 下げずには いられませんでした。
それと 同時に ”原子力発電 ”のことが頭に浮かんだ 自分でした・・・。
福島の事故をもってしても 更にそれを推し進めることの矛盾、欲に突き動かされてでは 先には何もないと・・・。
長く なりましたが お付き合いありがとうございました。
黒部ダムから 黒部平に つづく
上高地に行くトンネルも手掘りの痕が残っていますものね。人力に頼ってあれだけのモノを作ろうなんて、
当時の人は度胸があったものです。
長男がよちよちの頃、よく平瀬緑地で水遊びをしたのですが
たちまちジンジン痛くなるほどの水の冷たさでした。
長野の湧水、工夫さんたちの浴びた水の冷たさが想像できます。
書かなかったですが 凄くいろいろ複雑な思いがあとから あとから、こみ上げてきてしまいました。
黒部ダムは ほんとにこれをあの時代に作ったのというくらい 凄いものでした。
でも・・ コンクリートって劣化してくるじゃないですか・・ それってどうなの? これが亀裂したらなんて 怖いこと考えちゃいました( *´艸`)。
でも、やっぱり長野は いいとこだなぁ~って。
ぜひ、旦那さんと 黒部にお出かけくださいなぁ~