福井の郷土を勉強しようという会があります。
入会して最初の例会があったのでお話しますと、
越前福井藩の始祖「結城秀康」についての話でした。
「結城秀康」は「徳川家康」の次男だという事は知られていますが、
母親が身分が低かったため、「豊臣秀吉」の養子にだされたり、
秀吉に実子が生まれるともどされ、
今度は下総国の結城家の養子になるなど
戦国時代ならではの波乱万丈の生涯でした。
しかし、関が原の戦いでは力を認められ、
1600年(慶長5年)越前の地68万石を恩賞として家康よりうけて、
翌年1601年に越前に入国したそうです。
当時68万石はかなりの大きな領地で
将軍の次男としての地位も守られていたものです。
ただ秀康は、病気のため越前に入国して6年目に病死しています。
その後を13歳の長男「忠直」が継いだのですが、
二代将軍「徳川秀忠」の三女「勝姫」を迎え、
将軍家とのつながりは深くなったようです。
忠直も大阪夏の陣などでは活躍して位も高くなったのですが、
忠直よりも年若い家康の七男、八男、九男(後の尾張、紀伊、水戸ご三家)
との確執とか、藩内の騒動も重なり、乱行、奇行がうわさされ、
豊後萩原(熊本)に配流されました。
その後、忠直の弟「忠昌」(夏の陣の恩賞で越後高田を拝領)が
越前を継ぎ1624年に越前に入国しています。
その時お城のあった「北の庄」を「福居」と改めたそうです。
元禄の頃まで「福居」の名称は使われていました。
当店の看板も「越前福居」のままになっています。
商売人は福が居るように好んでこの名称を使ったものでした。
代々藩主松平家は将軍徳川家と繋がりが深く現在に至っています。
当時、越前うにが珍しく貴重な食品である「三大珍味」といわれている
のは多分にこの繋がりが大きく関わっているのだと思います。
入会して最初の例会があったのでお話しますと、
越前福井藩の始祖「結城秀康」についての話でした。
「結城秀康」は「徳川家康」の次男だという事は知られていますが、
母親が身分が低かったため、「豊臣秀吉」の養子にだされたり、
秀吉に実子が生まれるともどされ、
今度は下総国の結城家の養子になるなど
戦国時代ならではの波乱万丈の生涯でした。
しかし、関が原の戦いでは力を認められ、
1600年(慶長5年)越前の地68万石を恩賞として家康よりうけて、
翌年1601年に越前に入国したそうです。
当時68万石はかなりの大きな領地で
将軍の次男としての地位も守られていたものです。
ただ秀康は、病気のため越前に入国して6年目に病死しています。
その後を13歳の長男「忠直」が継いだのですが、
二代将軍「徳川秀忠」の三女「勝姫」を迎え、
将軍家とのつながりは深くなったようです。
忠直も大阪夏の陣などでは活躍して位も高くなったのですが、
忠直よりも年若い家康の七男、八男、九男(後の尾張、紀伊、水戸ご三家)
との確執とか、藩内の騒動も重なり、乱行、奇行がうわさされ、
豊後萩原(熊本)に配流されました。
その後、忠直の弟「忠昌」(夏の陣の恩賞で越後高田を拝領)が
越前を継ぎ1624年に越前に入国しています。
その時お城のあった「北の庄」を「福居」と改めたそうです。
元禄の頃まで「福居」の名称は使われていました。
当店の看板も「越前福居」のままになっています。
商売人は福が居るように好んでこの名称を使ったものでした。
代々藩主松平家は将軍徳川家と繋がりが深く現在に至っています。
当時、越前うにが珍しく貴重な食品である「三大珍味」といわれている
のは多分にこの繋がりが大きく関わっているのだと思います。