ちょつといっぷく 越前若狭 時季の風物詩

越前の風物誌などをお送りします・・・

ダイビング

2006-08-30 00:14:46 | 越前若狭の風
今年の夏は忙しかったので、いつもは仕事柄越前海岸を何度か見に行くのですが、今年は1-2回しか行っていないので、奥さんと一緒に日曜日に行ってきました。


知人が河野に家を買ったと言っていたので、ドライブがてら走っていたら 久しぶりにダイビングショップやエントリー場所を見つけてちょつと見ていました、


だいぶん年配の人もいたので、久しぶりに潜りたいと思いましたが、ちょつと問題ありで、ダイビングスーツの腹回りが合わなくなっているなと思いましたね、それにしてもショップやダイブハウスが多くなったなー・・・

福井のアマチュア郷土歴史会

2006-08-25 00:30:59 | 時事
福井の郷土を勉強しようという会があります。
入会して最初の例会があったのでお話しますと、
越前福井藩の始祖「結城秀康」についての話でした。

「結城秀康」は「徳川家康」の次男だという事は知られていますが、
母親が身分が低かったため、「豊臣秀吉」の養子にだされたり、
秀吉に実子が生まれるともどされ、
今度は下総国の結城家の養子になるなど
戦国時代ならではの波乱万丈の生涯でした。

しかし、関が原の戦いでは力を認められ、
1600年(慶長5年)越前の地68万石を恩賞として家康よりうけて、
翌年1601年に越前に入国したそうです。
当時68万石はかなりの大きな領地で
将軍の次男としての地位も守られていたものです。
ただ秀康は、病気のため越前に入国して6年目に病死しています。

その後を13歳の長男「忠直」が継いだのですが、
二代将軍「徳川秀忠」の三女「勝姫」を迎え、
将軍家とのつながりは深くなったようです。

忠直も大阪夏の陣などでは活躍して位も高くなったのですが、
忠直よりも年若い家康の七男、八男、九男(後の尾張、紀伊、水戸ご三家)
との確執とか、藩内の騒動も重なり、乱行、奇行がうわさされ、
豊後萩原(熊本)に配流されました。

その後、忠直の弟「忠昌」(夏の陣の恩賞で越後高田を拝領)が
越前を継ぎ1624年に越前に入国しています。
その時お城のあった「北の庄」を「福居」と改めたそうです。
元禄の頃まで「福居」の名称は使われていました。
当店の看板も「越前福居」のままになっています。
商売人は福が居るように好んでこの名称を使ったものでした。

代々藩主松平家は将軍徳川家と繋がりが深く現在に至っています。
当時、越前うにが珍しく貴重な食品である「三大珍味」といわれている
のは多分にこの繋がりが大きく関わっているのだと思います。