光文社古典新訳文庫 シェイクスピア 安西徹雄 訳『十二夜』 を読了しました。
あらすじと感想をざっくりと備忘録として書きます。
※ネタばれがありますのでご注意ください。
※文中の敬称は省略させていただきます。
※ネタばれがありますのでご注意ください。
※文中の敬称は省略させていただきます。
【目次】
十二夜
解題 安西徹雄
年譜
訳者あとがき
【あらすじ】
男に変装した若く美しいヴァイオラは、セザーリオと名乗ってある国の領主に仕えていた。その領主に魅せられたヴァイオラだが、領主は、伯爵家の令嬢で当主のオリヴィアに恋焦がれている。
ところが、今度はオリヴィアが男装のヴァイオラにひと目惚れ、大混乱が巻き起こって…。
【感想】
前回に読んだ、『夏の夜の夢』と同様のどたばた喜劇。そっくりの双子の兄弟が航海中に船が難破したため離ればなれになり、お互いに自分の兄弟は海の藻屑と消えたのだと思い込む。彼らを取り囲む者たちも勝手に勘違いをしたりして、話はどんどん捻れていく。
このどたばた喜劇は、三谷幸喜のウェルメイドな芝居でよく見かける気がする。最後はちゃんと辻褄が合い、めでたしめでたし~のハッピーエンドとなる。
愉快な話のようでシェイクスピアらしく、あちこちに辛辣な小さな刺が隠されており、ぽ~っとしているとどたばた喜劇としか映らないかもしれない。身分の上下、身の丈に合わない欲や自負心、自惚れ、「愛」という名の自己愛、など。
こういったことはシェイクスピアの時代も現代でも、変わらずある普遍なことだと思う。だからこそシェイクスピアは時代を越えて読まれ演じられる続けるのだろう。
愉快な話のようでシェイクスピアらしく、あちこちに辛辣な小さな刺が隠されており、ぽ~っとしているとどたばた喜劇としか映らないかもしれない。身分の上下、身の丈に合わない欲や自負心、自惚れ、「愛」という名の自己愛、など。
こういったことはシェイクスピアの時代も現代でも、変わらずある普遍なことだと思う。だからこそシェイクスピアは時代を越えて読まれ演じられる続けるのだろう。
【余談】
この世の幕開き はるかな昔
来る日も 来る日も 雨と風 ヘイホウ
ままよ芝居は 今 幕が切れ
今日も 灯りが 消えてゆく
来る日も 来る日も 雨と風 ヘイホウ
ままよ芝居は 今 幕が切れ
今日も 灯りが 消えてゆく
これは物語の最後に道化のフェステが歌う歌。NHK「ミッドナイトステージ館」で放送された蜷川幸雄の舞台(1998.10)で印象に残っていた場面。
あれだけどたばたを繰り返しておきながら、あっさりハッピーエンドになり、
あれだけどたばたを繰り返しておきながら、あっさりハッピーエンドになり、
ラストシーンで暗くなった舞台にはたくさんのキャンドルが地面(床)に灯され、それを石井愃一演じるフェステが腰をかがめながら、ひとつひとつ消してゆき最後は暗転になる。フェステの歌うこの歌は物悲しく、灯りをひとつひとつ消してゆくさまは、ハッピーエンドには似つかわしくない寂寥感が漂っていた。
何故だか涙が流れたことを覚えている
何故だか涙が流れたことを覚えている
ずっと何年もの間、楽しみにしていた舞台中継を放送してくれていた、NHK BS2「ミッドナイトステージ館」がこのたびのデジタル化に伴う番組改編でなくなってしまった~ショック。公共放送こそ民放とは一線を画して、視聴率などというつまらないものに踊らされず、質の高いものを放送して欲しい。
地方の方はもちろん首都圏近郊の方でも、舞台を観たい方が皆、観に行けるわけではない。観劇というのはスケジュールをあけ、チケットをとり、当日に劇場まで足を運ばなければならない。おまけに観劇中は座席で飲食禁止でじっとしている。ある意味苦行に近いものがある。特に長時間の舞台ならなおさらだ。ナイロン100℃とか蜷川幸雄とか。
まぁ好きで観劇するのだから仕方がないけど。同じことを思っている方もいるだろうな~と。
【リンク】