まずはおきまりの郡上八幡城にいく。
思っていたのよりも立派だ。
ここが郡上一揆の対象になった城だと思うと感慨深い。
(実際は当時の城ではなく近くにあった大垣城を参考にして模擬天守として造られたものらしいが。
細かいことは抜きにしよう ww)
江戸時代の青山幸哉のときは譜代4万8000石。
家康の生まれた岡崎が5万石だからなかなかのものだ。
重要な地域であったのだろう。
郡上一揆の対象となった城主はこの青山氏ではなく、その前の金森氏である。
青山氏はいい殿様で金森氏はどうしようもない殿様だったらしい w
白鳥おどり「八ツ坂」の <郡上義民伝>の上巻 では
聞くも哀れな義民の話 時は宝暦五年の春よ
所は濃州郡上の藩に 領地三万八千石の
その名金森出雲の守は 時の幕府のお奏者役で
派手な勤めにその身を忘れ すべて政治は家老に任せ
今日も明日もと栄華にふける 金が敵か浮世の習い
お国家老の粥川(かゆかわ)仁兵衛
お江戸家老と心を合わせ ここに悪事の企ていたす
哀れなるかな民百姓は あれもこれもと課税が増える
わけて年貢の取りたてこそは いやが上にも厳しい詮議
・・・・・・
・・・・・・
と詠っている。
金森さんもたまったもんじゃないね www
結構有能だったみたいですがね。
金森氏の時は 三万八千石だったんだね ^^
郡上一揆でお家断絶。盛岡で監禁生活を送る。ちーーーん。
いろいろあったみたいですよ。幕府役人との癒着とかね。
興味ある人は調べるとおもしろいですヨ。
いつの時代にもどこにでもある話です。
群馬から郡上にくるとき、思い切って中山道経由できた。
郡上から江戸まで駕篭訴とか箱訴とかするために郡上の立百姓が江戸に下ったときの道筋をたどってみたかった。
高崎から安中、碓氷峠を越え上田へ。和田トンネルを通過して塩尻・中津川経由で郡上へ。
高速は使わずすべて下の道をいった。10時間以上かかったが昔のことをかんがえればどうってことない ><
結構楽しかったが、疲れた www
木曾路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。
島崎藤村 「夜明け前」
道路はよくなりトンネルが掘られて便利はよくなっているが、すべて山の中であることはいまでもかわらない。
城から下っていく途中に宝暦義民の碑というのがあった。
ちょっと場違いな気がしたが・・・・・・。

駐車場に車を止め夕方近くに郡上おどり会場近くに来た。
吉田川には何個もローソクが点灯されていた。
町をあげての一大イベントなんだな ^^

pm7:00
郡上踊り 徹夜踊りがもうすぐ始まる。
今日は本町会場。
屋台もズラッーーと列び準備万端だ。

今日はここまで