おでかけ大好き!ピースくん

ぼくピースくんが色んな所に遊びに行った写真を発表しま~す!

川島城跡・上桜城跡(2019年2月)

2024年09月06日 | こんちゃんのお城めぐり
2019年2/24(日)
こんにちはこんちゃんです😊
徳島旅行には、もちろんワタシのお城めぐりもありますよ😃
旅行中のお城めぐりになりますので、じっくり、ゆっくりとは、めぐることは出来ませんでした😌
ですが、いろいろなお城をめぐって来ましたので、お送りしたいと思います😊
この日は、川島城跡と上桜城跡をめぐってきました😃
2城とも、吉野川市川島町にある城跡です😌
それでは、こんちゃんのお城めぐり第144回「川島城跡・上桜城跡」をお送りします😊

立派な石垣の上に建つ川島城は、昭和56年、勤労者野外活動施設として城郭型に復元されたものなんだそうです😊

川島城の上から吉野川がよく見えて、ここにお城を築いた理由が分かった気がしました😊
残念ながら、この後すぐの、2019年4月より休館となってしまったそうです😓
この眺めが見られなくなっているのは残念ですね😌

吉野川市指定史跡 川島城跡の説明板です😊
「この城跡は、安土桃山期に三好氏の家臣川島兵衛進が、居城していたところである。その後、天正13年(1585年)蜂須賀氏が重臣林能勝(道感)に兵300名をおいて阿波の西押さえとした。しかし元和元年(1615年)11月一国一城の令が出て廃城となる。」と書いてありました😌

城跡は、川島公園として親しまれているようです😌

川島公園内に、川島神社がありました😊

お参りをしてきました😌

街なかの川島城跡から、5分ほどドライブして高台へ上ってくると、道路沿いに、「徳島県指定史跡 上桜城跡」の説明板がありました😊
上桜城は、戦国時代の末、篠原紫雲長房が、その実戦の経験を生かし、この天然の要害に築いたそうです😌
山頂の本丸は、二の丸、三の丸を廻らし、西の丸には北と南に空堀をもつそうです😊

入口に石碑も建っていました😃

では、行ってみましょう😊
ワタシがご案内します❗タッタッタッ🐾

少しゆくと開けた場所に出ました😊

祠の前に、立派な「上櫻城址」の石碑が建っていました😊

高台のこの場所からは、町や、吉野川が一望です😃

先程訪れた川島城も見えましたよ😊
ズーこん(ズームdeこんちゃん)してみました😌

今回のお城めぐりは、同じ町にある2つのお城をめぐりました😊
それでは、次のお城めぐりでお会いしましょう😌
こんちゃんがお送りしました😊

日和佐城(2019年1月)

2024年08月29日 | こんちゃんのお城めぐり
2019年1/28(月)
こんにちはこんちゃんです😊
随分前の事になりますが、日和佐城へ行きました😌
今回ブログに載せるにあたっては、こんちゃんのお城めぐり第143回「日和佐城」とさせていただきます😊

日和佐駅東前方に城山と呼ばれている標高65mの小丘があり、その山頂が日和佐城跡であるそうです😌
ワタシはその山頂に建つ天守閣の所まで行きました😊
元亀・天正(1500年代の初め頃)、日和佐の豪族日和佐肥前守が、阿波の南部侵入を目指す土佐の長宗我部勢を防ぐためにこの地に城を築いたと伝えられているそうです😌

日和佐肥前守が造った城は、天正13年(1585年)蜂須賀家政が、阿波に入国した際に廃城になったといわれているため、当時の城の形態に関しては、全くわかっていませんが、城の構えは、山城であったと考えられているそうです😌
現在は、昭和53年(1978年)に日和佐勤労者野外活動施設として完成した、白亜の天守閣が建っていました😊

城山神社がありましたのでお参りしました😌
城山神社由来記によると、新日和佐城の築城とともに、遷宮をなしたものなんだそうです😊

この時は、「日和佐城は施設の一部に損傷が発生した為、当分の間閉鎖いたします」との貼り紙があり、天守閣へ入ることはできませんでした😌
今回ブログに載せるにあたり調べた所、耐震上の関係から、閉館(敷地内立入禁止)となっているようです😌

旅行中でしたので、お城めぐりは天守閣の周りだけでした😌
天正13年(1585年)に廃城になっていて、遺構もほとんど見当たらないそうです😞
しかし、確かにかつてここにはお城があったのです😃
その事を思い浮かべながらお別れしたいと思います😌
こんちゃんでした😊

館林城跡(2024年4月)

2024年05月08日 | こんちゃんのお城めぐり
こんにちはこんちゃんです😊
市制施行70周年館林市の市役所に来ています😌
こちらにはかつて、城沼を要害とした平城で、沼に突き出た台地の地形を巧みに利用して造られたお城があったそうです😊
館林城です😃
館林城は、狐の尾の導きによって縄張りされたという伝説から、「尾曳城」とも呼ばれているそうです😌
なんかちょっとワタシと関わりがあるようでうれしいです😊
それでは、始めます😃
こんちゃんのお城めぐり第142回「館林城跡」です😌

まずは市役所にお城めぐりに参考になるパンフレットを探しに行きましょう😊
見つけてきた「徳川四天王榊原康政公ゆかり 館林まちあるきマップ」に館林城の歴史が記載されていました😌
それによると、
「館林城は、戦国時代に赤井氏によって築かれ、古河公方足利成氏に味方したことから、文明3年(1471年)5月に関東管領上杉軍に攻められました。
その後、永禄5年(1562年)に越後の上杉謙信の侵攻によって赤井氏は追放され、足利城主長尾景長が館林城主となり、その後長尾顕長が館林城主となりました。
さらに、天正13年(1585年)、小田原北条氏の侵攻により長尾氏は退却、館林城は北条氏の管轄となりました。
そして、天正18年(1590年)、北条氏の滅亡によって徳川家康が関東に入国。
榊原康政が館林10万石の城主となりました。
江戸幕府開設後は、館林城は榊原家をはじめ、大給松平家、徳川家(のちの5代将軍徳川綱吉)、越智松平家、太田家、井上家、秋元家の7家の親藩、譜代大名の居城となり、秋元家の時に明治維新を迎えました。」
とありました😊
館林城の歴史には、なかなかの有名どころが名を連ねているんですね😃
知りませんでした😌
そして、廃藩置県後の明治7年(1874年)に館林城は焼失し、建物はほとんど取り壊されてしまったそうです😢
現在では三の丸と本丸に土塁の一部が残され、三の丸には昭和58年(1983年)復元の土橋門があるそうです😌
まずは、それを目指して行ってみます😊

こちらは館林市役所の裏手にある「館林城千貫門跡」の碑です😊
こちらへは、「日本遺産「里沼」を歩く④-「里沼のもてなし文化」・旧城下町散歩-」の中にあった、現代の地図と、古地図を重ね合わせた地図の中から見つけて来てみました😌
かつてここには、堀があって橋を渡った所に立派な門があったのでしょうね😊
そして、現在は文化会館がある三郭(三の丸)に入ってゆくのですね😌

館林市文化会館大ホールの裏を通って、館林城跡三の丸土橋門に来ました😊
あちらに見えるのが昭和58年(1983年)復元の土橋門ですね😌

目立つ場所ではありませんが、「館林市指定史跡 館林城跡」の木碑が建っていました😊

土橋門周りの土塁は遺構なのでしょう😊
いいですねぇ😃

この埋められている石材は、どこかの石垣で使用されていた物なのでしょうか😌

土塁です😊
関東のお城ですねぇ😌

土橋門から出てきました😊
ここもお堀だったみたいです😌

外側から見た三の丸の土塁です😃
結構続いて残っていました😌

三の丸土橋門から出て、追手(大手門)まで歩いてみました😊
このあたりには、家臣たちの侍屋敷が並んでいたそうです😌
歴史の小径の通りには、旧館林藩士住宅武鷹館がありました😊
公開日が土日祝日なので、見学出来ませんでしたが、茅葺屋根の建物で、館林藩士の暮らしの様子を伝えているそうです😌

こちらは鷹匠町長屋門だそうです😊

大手門のあった場所にある公園の隅に、「館林城大手(追手)門跡」の石碑がありました😊
ここにかつて、館林城の大手(追手)門があったのですね😌

大手(追手)門跡から千貫門跡を通って、三郭(三の丸)に入り、二郭(二の丸)へ😊
現在は市役所東広場になっていました😌

あのこんもりとしているのが、本丸の土塁でしょうか😊

上がって行けるようです😊

上には群馬県の形をした池がありました😌

ここが本丸の一部だと思うのですが、特に石碑などはありませんでした😌

館林城跡は、遺構はほぼ残っていませんでした😌
しかし、歴史を思いながらめぐったお城めぐりは楽しかったです😊
それでは、また次のお城めぐりでお目にかかりましょう😌
こんちゃんがお送りしました😊

沼田城址(2024年4月)

2024年05月01日 | こんちゃんのお城めぐり
こんにちはこんちゃんです😊
今回ワタシは、沼田市にある沼田城址に来ました😃
入口に「天空の城下町 真田の里 沼田」とあります😌
そうですか、ここ沼田は真田の里だったのですね😊
これはお城めぐりが楽しみです😃
それでは始めましょう😌
こんちゃんのお城めぐり第141回「沼田城址」です😊

入口すぐに「沼田城址」の石碑がありました😌
現在は、本丸・捨曲輪と二の丸・三の丸跡の一部が沼田公園となっているみたいです😊
本丸跡に西櫓台と石垣、本丸堀の一部がみられ、わずかに城の名残を留めているそうです😌
お城の遺構は、あまり残っていないようで、少し残念です😩

沼田城は、続日本100名城に選出されています😊
ぺろ氏が続日本100名城のスタンプを押すために、沼田市観光案内所へ寄りました😌
ワタシはここで沼田城址のパンフレットを頂いて、お城めぐりに活用させていただきました😊

パンフレットの中にあった、現在の地図の上に、真田信利時代の城下町(天和年間)を重ねた絵図によると、だいぶ改変が加えられていて、曲輪の形などはほぼ原形を留めていないようです😞
このグラウンドも絵図によると、右側が三の丸の一部で、左側は堀があったのを埋めてあるようです😓

お城の縄張りを感じることは難しいので、パンフレットに載っていた遺構をめぐりました😌
こちらは本丸堀跡です😊
この堀跡は本丸から二の丸の間に作られたもので、堀幅12間(約24m)×堀高3間(約6m)と正保城絵図に書かれていたそうです😌

あちらに見えている部分の石垣は当時のものみたいです😃
少しですが、遺構が残っていてうれしいですね😌

本丸堀跡からすぐの場所に「本丸跡」の石碑がありました😊

真田氏初代城主・信之とその正室・小松姫の石像です😊
小松姫は、徳川四天王の1人、本多忠勝の娘で、徳川家の養女として真田家に嫁いだそうです😌

英霊殿の東側が天守跡推定地なんだそうです😊
この看板の奥辺りでしょうか😌

看板の傍にあったこちらは、大手から移された大手門沓石みたいです😌
大手門は、市立沼田小学校のある場所にあったそうです😊

少し高くなっている天守跡推定地に上がってみました😃
真田時代の絵図には、五層の天守が描かれており、天守は9間×10間(約18m四方)の方形で、石垣の高さは8間(約16m)あり、天守推定地の付近では金箔瓦も発見されているそうです😊
江戸城天守が焼失すると、関東で五層の天守を持つ城は沼田城だけの時もあったそうです😌
ここにはかつて五層の天守が…
想像してみましょう😌

本丸跡の奥にある捨曲輪に来ました😊

こちらからは眼下が一望できます😊
名胡桃城方面も見る事ができるそうです😌
近いうちに名胡桃城にも行きましょう😃

こちらは、平八石(首さらし石)です😓
沼田氏内乱で越後(一説では会津)へ逃れた平八郎は流浪の末、東上州女渕で再起の機をうかがい、天正9年(1581年)、沼田氏再興の兵を起こし、再興を目前に伯父の金子美濃守などの手によって水の手曲輪の露と消えた。そうです😞
平八郎の首をさらした石が今に残っています😞
これも、戦国大名により激しい争奪が繰り広げられた、このお城の歴史なんですね😩

「捨曲輪跡」の石碑がありました😊
お城の残っている部分には、説明板や石碑などが整備されていて分かりやすかったです😌

そしてこちらが、西櫓台の石垣・石段です😊

真田氏時代の石垣と石段を見る事ができます😃
天和元年(1681年)真田氏5代藩主信利が改易とされ、その時城は破却となったそうです😩
その後再建されることはなかったそうです😢
残念です💦
五層の天守見たかったですねぇ😌

西櫓台の裏側も見てきました😊
こちらの石垣だけが壊されなかったのは何故なんでしょう😌

あちらは昭和58年に公園に再建された鐘楼です😊
城鐘は、2代藩主真田信吉が鋳造し、時を告げていましたが、現在はレプリカを用いているそうです😌
実物は県指定重要文化財で、沼田市歴史資料館に展示されているそうです😊

最後は、西櫓台の石垣上に大きく枝を張る、樹齢400年以上の「御殿桜」です😌
数々の歴史を生き抜いてきた桜なのでしょう😊
この桜が眺めてきたお城の歴史を想いながら、今回のお城めぐりを終えたいと思います😌
こんちゃんがお送りしました😌


高崎城址(2024年4月)

2024年04月30日 | こんちゃんのお城めぐり
こんにちはこんちゃんです😊
高崎市中心地にある「高崎城址公園」に来ました😃
高崎城は、慶長3年(1598年)、徳川家康の命を受けた箕輪城主・井伊直政によって築城されたそうです😌
先日訪れた「箕輪城跡」の城主だった井伊直政が、こちらの高崎城に移ってきたのですね😊
それではさっそく始めましょう😌
こんちゃんのお城めぐり第140回「高崎城址」です😊
高崎城は、郭内だけでも5万坪を超える広大な城郭だったそうです😌
現在は、三の丸外囲の土居と堀、乾櫓、東門が残っているだけみたいです😩
街の中心部にある城跡ですから仕方ないかもしれないですけど、ちょっと寂しいですね💦
横断歩道を渡った場所にあるこちらはモニュメントのようです😊
こちらの石垣は、遺構なのでしょうか?😌

石垣の上に上がれるようになっていました😊

東門と、奥に見えるのが乾櫓です😊
東門は、高崎城内にあった16の門のうち、城内に出入りする武士や商人などが通行していた通用門だったそうです😌
下小鳥町に移築されていたものが、昭和52年にこの位置に復元移築されたそうです😊
高崎市指定重要文化財なんだそうですよ😌

乾櫓の先には、土居と堀が残っています😊
高崎城乾櫓と「群馬県指定重要文化財 高崎城乾櫓」の石碑です😊
乾櫓は、県内に現存する唯一の城郭建築なんだそうですよ😌
高崎城には、本丸にあった3階建ての御三階櫓(天守)と、4基の隅櫓があったそうです😌
そのうちの、乾(北西)にあったのがこの櫓だったみたいです😊
明治維新後は、下小鳥町に移築され、昭和52年にこの位置に復元移築されたそうです😌
1度移築されたからこそ、残ることが出来たのかも知れませんね😊

乾櫓の前から、土居の上を歩くことが出来たので、歩いてみました😊
ちょうど桜が満開できれいでした😌

今回のお城めぐり、遺構はあまり残っていませんでしたが、徳川四天王の1人井伊直政が築城したお城をめぐれてよかったです😃
箕輪城から高崎城へ😊
お城の変遷などを想像しながらお別れしたいと思います😌
以上、こんちゃんでした😊