所属:孫策→孫権
年齢:44歳(200年の時)
演義では張紘と共に「江東の二張」と言われる賢人です。徐州の人で、若い頃から学問に通じて優秀であると名を馳せており、同じく名声のあった王朗と親しくし、同郷の陳琳らにも注目されていました。そんな優秀だと徐州刺史の陶謙に仕官を迫られますが、これを拒絶。その為、投獄される始末。なんとか釈放されると中央では董卓が圧制を行い、徐州も雲行きが怪しくなってきた為、江南に避難します。そこで孫策に会い幕下に加わることとなります。刺史の陶謙には仕官せず、まだ無名の孫策に協力すると言うのはよほど通じるものがあったのだと思います。孫策もかなり感激だったらしく、幕僚というよりも師友として接し、家族ぐるみの付き合いをしたとあります。
孫策は、張昭及び張紘を得たことで飛躍的にその勢力を拡大し、短期間に揚州の大半を支配するまでになります。しかし、張昭を迎えてから数年で亡くなってしまいます。その死の際には、跡を次ぐ弟 孫権に内政のことは張昭に聞けと言い、逆に張昭には孫権の補佐をお願いすると共に、もし不出来なら張昭が跡を継いで欲しいとすら言い残しています。この件は劉備が諸葛亮に事後を託すのに良く似ています。そう言うのが社交辞令だったのか、史書が転用した結果なのかは判りません。
ここから数年が実は張昭がもっとも働いた時期かもしれません。張昭は兄の死を悲しむ孫権を叱咤して政務を執り行わせ、自らは補佐し、時には自ら軍を率いて反乱を鎮圧しにいったりもしています。この張昭の努力によって孫権は内外共に孫策の後継者と認められ、また張昭が孫堅時代からの武将達を差し置いて、家臣団の取りまとめ役となったのもこの功績によるものかもしれません。
その後曹操が南侵したことで、孫権は服従か抗戦かを迫られます。張昭は他の文官達と共に服従を勧めます。しかし、孫権は魯粛・周瑜の意見を採用し抗戦を決めて赤壁の戦いとなり勝利します。
このことがあっても張昭の評価は変わらず、依然呉の重鎮として孫権に数々の献策を行い、時にはその行動を諌めるなど、重要な役割を担います。張昭が80歳の天寿を全うしたのを見計らってか、呉は二宮の変が起こり家臣団は真っ二つに割れ、そして呉の衰退へと繋がって行きます。
さて能力ですが、統率は実は赤壁の時、孫権の命で徐州を攻めて、あの奇才 陳登と戦っていたりします。結果は敗戦ですが、統率は出来ないことは無かったでしょうから2、武力は1としました。政治は文句なしの5です。知力は一時期政治に5を付けたので3に落としていたのですが、いろいろと考えた末、あるべき姿の4にしました。
ある書籍では、張昭が赤壁で降伏論を唱えたことで、張昭の評価を落としているものもありますが、赤壁時の情勢では曹操に従うのが孫権が生き残る確実な手段であり、また呉を戦火にまみえさせない為にも、そして一刻も早い統一王朝に戻すためにも最も有効な選択だと思います。魯粛は、張昭は曹操に降伏しても高官に取り立てられるが、孫権は行き場を無くすと言って説得していますが、劉ソウの例から考えると、孫権は刺史の地位が与えられたのでは無いでしょうか? そして張昭は刺史となる孫権に付き従うつもりで居たのではないでしょうか?
年齢:44歳(200年の時)
演義では張紘と共に「江東の二張」と言われる賢人です。徐州の人で、若い頃から学問に通じて優秀であると名を馳せており、同じく名声のあった王朗と親しくし、同郷の陳琳らにも注目されていました。そんな優秀だと徐州刺史の陶謙に仕官を迫られますが、これを拒絶。その為、投獄される始末。なんとか釈放されると中央では董卓が圧制を行い、徐州も雲行きが怪しくなってきた為、江南に避難します。そこで孫策に会い幕下に加わることとなります。刺史の陶謙には仕官せず、まだ無名の孫策に協力すると言うのはよほど通じるものがあったのだと思います。孫策もかなり感激だったらしく、幕僚というよりも師友として接し、家族ぐるみの付き合いをしたとあります。
孫策は、張昭及び張紘を得たことで飛躍的にその勢力を拡大し、短期間に揚州の大半を支配するまでになります。しかし、張昭を迎えてから数年で亡くなってしまいます。その死の際には、跡を次ぐ弟 孫権に内政のことは張昭に聞けと言い、逆に張昭には孫権の補佐をお願いすると共に、もし不出来なら張昭が跡を継いで欲しいとすら言い残しています。この件は劉備が諸葛亮に事後を託すのに良く似ています。そう言うのが社交辞令だったのか、史書が転用した結果なのかは判りません。
ここから数年が実は張昭がもっとも働いた時期かもしれません。張昭は兄の死を悲しむ孫権を叱咤して政務を執り行わせ、自らは補佐し、時には自ら軍を率いて反乱を鎮圧しにいったりもしています。この張昭の努力によって孫権は内外共に孫策の後継者と認められ、また張昭が孫堅時代からの武将達を差し置いて、家臣団の取りまとめ役となったのもこの功績によるものかもしれません。
その後曹操が南侵したことで、孫権は服従か抗戦かを迫られます。張昭は他の文官達と共に服従を勧めます。しかし、孫権は魯粛・周瑜の意見を採用し抗戦を決めて赤壁の戦いとなり勝利します。
このことがあっても張昭の評価は変わらず、依然呉の重鎮として孫権に数々の献策を行い、時にはその行動を諌めるなど、重要な役割を担います。張昭が80歳の天寿を全うしたのを見計らってか、呉は二宮の変が起こり家臣団は真っ二つに割れ、そして呉の衰退へと繋がって行きます。
さて能力ですが、統率は実は赤壁の時、孫権の命で徐州を攻めて、あの奇才 陳登と戦っていたりします。結果は敗戦ですが、統率は出来ないことは無かったでしょうから2、武力は1としました。政治は文句なしの5です。知力は一時期政治に5を付けたので3に落としていたのですが、いろいろと考えた末、あるべき姿の4にしました。
ある書籍では、張昭が赤壁で降伏論を唱えたことで、張昭の評価を落としているものもありますが、赤壁時の情勢では曹操に従うのが孫権が生き残る確実な手段であり、また呉を戦火にまみえさせない為にも、そして一刻も早い統一王朝に戻すためにも最も有効な選択だと思います。魯粛は、張昭は曹操に降伏しても高官に取り立てられるが、孫権は行き場を無くすと言って説得していますが、劉ソウの例から考えると、孫権は刺史の地位が与えられたのでは無いでしょうか? そして張昭は刺史となる孫権に付き従うつもりで居たのではないでしょうか?