中華街ランチ探偵団「酔華」

中華料理店の密集する横浜中華街。最近はなかなかランチに行けないのだが、少しずつ更新していきます。

大砲3門

2015年10月20日 | レトロ探偵団

 ちょっと前に大衆酒蔵「大鵬」でのお話しを書きましたが、今日の話題は「大砲」です。

 ラ・コスタ横浜山下公園という新しいマンションの前に、こんな大砲が置かれています。
 別に武装しているわけではなく、昔からこの場所にあったんですね。


 場所は、ここです。山下町90番地。
 以前は「藤沢」という会社があった所です。
 

 近づいてみましょう。


 大砲の後ろから眺めてみました。
 ここから砲弾を入れたのでしょうか。


 1861という数字は西暦1861年を表しているようです。


 この数字とマークはよく分かりません。


 この模様も、なんでしょうかね。


 そして、すぐそばに由来板が設置されています。


 そこにはこんなことが書かれています。

 まず2行ほど読んで、「ん? 何だこりゃぁ~」と思います。
 
 以前の会社が持っていた3門を譲り受け、そのうちの一つを飾っているのですが、あとの2門の設置場所の記載がでたらめなんです。
 一つは「歴史資料館」に、もう一つは「開港記念館」にという部分がいけません。

 歴史資料館なんて施設はありません。これは歴史博物館のことなのでしょう。
 正確には「神奈川県立歴史博物館」です。

 さらに、もう一つの開港記念館というのもいけません。
 「横浜開港記念会館」と言いたいのでしょうが、残念ながらそこには大砲はありません。
 置いているのは「横浜開港資料館」の前なんです。

 この記載について、開港記念会館では知っているのでしょうかね。

 さらに、ここに大砲が置かれている理由です。

 ペリーが開国・通商を迫って横浜に現れたとき、警備のため松代藩の佐久間象山が大砲や銃などを持って横浜に来たのですが、それを使うことなくこの場所に埋めていたのを、前の会社が新築工事の際に発掘した…云々…と書かれています。

 はたして、そうなんでしょうか。
 これについては、あとで調べるとして、ここでは前の会社時代、3門揃っていたころの写真をご覧いただきます。


 1984年の撮影です。
 もう1門はどこに置いていたのか、今となっては思い出せません。 


 こちらは1993年の撮影。
 2門の間に解説板が貼りつけられていました。


 大砲の由来です。

 此の大砲は当社屋新築工事中この地より發掘されたもので、横浜開港に由縁ある貴重な史物で、文献によれば嘉永七年米國使節ペルリーは艦船数隻を率いて日本に開國通商を迫り、幕府は会見の場所を横浜に設け、使節と交渉せしむるに当り松代、小倉の二藩に警衛を命じた。
 松代藩佐久間象山は軍議役として和蘭新式野戦砲二門、牛角砲二門、本込銃卒百名の外鎗刀兵等の装備にて威風堂々と出陣し来り、幕府を驚愕させたが厳命遂に黙止しがたく、断腸の思いにて此の地に埋没したものである
 昭和三十五年八月


 新しい由来板は、これを継承しているのですが…


 ここは神奈川県立歴史博物館前。
 大砲が置かれています。


 砲弾の挿入口かな。


 この鎖は何のためにあるのでしょうか。
 まさか盗難防止ではないと思いますが…


 このマーク、双頭の鷲ですね。
 ロシアの国章のようです。


 旧居留地90番出土の大砲

 この大砲は、旧山下居留地90番(現在の横浜市中区山下町90番地)地中から、昭和34年にオランダ製の11ポンド砲とともに出土した帝政ロシア製の32ポンド砲です。
 出土地では、かつてスイスの商社シーベル・ブレンワルト商会(慶応元・1865年創立)が営業していました。
 この大砲は同商会の取扱商品のひとつで、使われなくなった大砲を錨に作り変えて、横浜に出入りする船舶に販売しようとしたもので、関東大震災によって地中に埋まってしまったものと推定されます。
 幕末・明治初期の外国人居留地と、そこで営業した外国商館の活動を知ることができる貴重な資料で、横浜市教育委員会より当館へ寄託されたものです。

 口径16.5㎝ 全長220㎝ 重量1690㎏


 なるほどね。
 あの鎖は錨にするための物だったのか…


 一方こちらは横浜市開港資料館前の大砲。


 後ろから撮影。


 ここには何かが付いていたようですね。


 解説板にはこう書いてあります。

 旧居留地90番地の大砲

外国人居留地90番地(現山下町90番地)に、生糸の輸出と時計の輸入に従事していたスイスの商社、シーベル・ブレンワルト商会(慶応元年(1865)年創立)があり、明治維新の際の戊辰戦争中は武器の輸入も行っていました。
昭和34年、同社跡地で建物の基礎工事中に大砲が見つかり、掘り出され、展示されておりましたが、平成15(2003)年、横浜市に寄贈されました。
この大砲は、鋳鉄製の11ポンドカノン砲で、オランダ東印度会社のエンクハイゼン商館所属船の備砲です。
使わなくなった大砲を錨に作り変え、横浜に出入りする船に売買するために持っていたものが、大正12(1923)年の関東大震災の時に、地中に埋まってしまっていたのではないかと推察されます。
明治43年に出版された書籍に、同社の「倉庫の入口に、明治初年に武器を扱っていた記念として大砲が備え付けられた」という記載があります。
明治初期の外国人居留地の外国商館と、取扱商品並びに輸入先がわかる遺品として、貴重な資料です。

 口径11.5㎝ 全長282.5㎝ 重量1480㎏


 県立歴史博物館の前にある説明文とほぼ似たような記載です。
 両館とも歴史の専門家が在籍する公的な機関ですから、この文章には間違いはないと思います。

 となると、かつて「藤沢」の壁に貼ってあった由来文が、なんだか怪しくなってきますよね。
 そして、それを引き継いだマンション前の説明板も…
 

←素晴らしき横浜中華街にクリックしてね




コメント (4)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「いろいろホルモンの四川風... | トップ | 鎌倉の知人宅で誕生会 »

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (いその爺)
2015-10-20 10:48:47
気がつきませんでした。
ネット上では加賀町警察のホームページでも紹介されていたりしているようです。
https://www.police.pref.kanagawa.jp/ps/31ps/31mes/31mes008_13.htm

個人?ホームページに三門揃った写真が載っていましたが、こちらが元の出典でしょうか?

http://park14.wakwak.com/~naga/a3.htm
返信する
由来 (管理人)
2015-10-21 06:42:11
>いその爺さん
加賀町警察はマンション前にある、「間違った由来板」を引用していますね。
警察署の担当者は、残りの2門も見に行くべきです。
そうすれば由来が違っていることも分かったのに・・・
ホームページの方も「藤沢」が掲げた由来板をそのまま記載しています。
でもこちらは仕方ないです。
3門揃っているときには、この情報しかなかったのですから。

「藤沢」の敷地内で大砲が移動していますが、
3門揃っている方が古い写真ですね。
私の記事内で掲示した写真撮影時、
もう1門は右か、あるいは左角を曲がったところだったと思います。
返信する
Unknown (小径のヌシ(^-^))
2015-10-22 07:30:48
あはは (^▽^)
大鵬に大砲ですか

それにしても関内エリアに
3門も置いてあるとは知りませんでした
返信する
大砲 (管理人)
2015-10-22 08:25:05
>小径のヌシ(^-^)さん
3門、スタンプラリーじゃないけど、
順番に巡ってみてくださいませ。
1門につき、近くのお店で何か呑むか、食べるかして。
返信する

コメントを投稿

レトロ探偵団」カテゴリの最新記事