昭和6年(1931)9月18日、満州事変が勃発した。これはその3日後の21日に発行された東京朝日新聞の号外である。 見出しには「日支両軍衝突画報」と書かれている。その下には、写真がどのように送られてきたのかの解説。 20日、奉天において長谷川、宮内両特派員が撮影したとある。その後は京城まで汽車に乗せられて南下、翌21日、京城から広島まで新野機長が操縦する飛行機で、さらに広島から大阪まで河内機で空輸している。 現代ならばインターネットを使って瞬時に送信できるが、当時は現物をこうやって運んでいたんだね。 実は号外よりも1日早く20日に記事が出ているのだ。写真がまだ届いていないから文字だけの情報である。 【大見出し】 日支軍衝突 奉天城内外完全に日本軍の掌中に帰す 心臓東大営を占領 軍政の実行へ 【本文】 東北軍の心臓と目されている東大営は我軍の強襲により支那軍約20名を捕虜のし、馬匹(ばひつ)軍器其他多数を残し、5千の東北軍は安奉線方面並に撫順方面に遁走し、東大営は我軍のため占領された。これにより奉天城内外は完全に我軍の掌中に帰することとなり、軍政を宣布することとなった。 古来要塞堅固を誇り、かつては東三省の覇権を制し君臨した満州王の居城奉天城も正義の刃尖には一たまりもなく、ついに我軍の占領するところとなり、今や完全孤立無援の境地に置かれるに至った。ここにおいて我関東軍司令部においては多門第二師団長を衛戍(えいじゅ)司令官に任じ、奉天城内外の治安に当たらしむると共に軍政施行の肚を定め、三谷奉天憲兵隊長をその衛に当たらしむるに決したが、三谷隊長は19日午後3時、城内に入場、奉天城守備隊の我軍憲と万般の打ち合わせを行い、別項布告を発すると共に、直ちに軍政実行を宣布することとなった。 ※非常に読みづらいので、適宜、句読点を加えたりひらがなにした。 ※東大営とはなんだろうか。北大営の誤りかな。 ※衛戍(えいじゅ)とは、大日本帝国陸軍が永久に一つの地に配備駐屯すること。 ←クリックして拡大 昨年は満州事変から90年だったんだなぁ…… ←素晴らしき横浜中華街にクリックしてね |
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