太平洋戦争が始まったのは昭和16(1941)年12月8日。翌年の1月18日には、ウェーキ島のアメリカ軍捕虜1300人が横浜に入港。さらに5日後にはラバウルを占領している。2月15日、シンガポールが陥落すると、さっそく横浜でも祝賀会が開かれた。3月には、ジャワ島のオランダ軍が降伏し、ラングーンを占領。第2次祝賀会を開催している。 しかし、景気のいい話は、開戦から3か月ぐらいまで。4月になると早くもB25爆撃機13機が関東上空へ現れる。午後1時頃には横浜へも数機が来襲。機銃掃射を受け、幼稚園児と児童生徒が犠牲になった。新聞には報道されなかったが、軍需工場も被害にあっている。 この頃、アメリカはボーイング社に発注したばかりのB29を、ノースアメリカン、GM、ベル社にも協力を求め、1300機の増産計画を立てている。 B29が初めて本土に飛来してきたのは昭和19(1944)年の11月。中島飛行機(東京)、三菱名古屋製作所、川崎航空機などが爆撃を受けた。B29による横浜への初爆撃は12月だった。この時は鶴見と港北がやられている。 そして、昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲。334機のB29が飛来し、約5時間、1665㌧の焼夷弾を落としていった。焼死者は10万人近い。アメリカは東京大空襲で残虐な戦果をあげると、このあと名古屋、大阪、神戸へと大都市に向かった。 この時点で、本格的な都市ジュータン爆撃を浴びていない六大都市は、京都と横浜だけだった。市民にとってみれば「アメリカとは開港以来の因縁が深いので横浜は攻撃されないだろう」との思い込みがあったようだ。 だがこの間に別の恐るべき計画が進行していた。マンハッタン計画と呼ばれる原子爆弾の製造である。 原爆投下目標の選定作業は、着々とすすめられていた。 その基準は①日本人の抗戦意志を挫折させるような場所②まだ本格的な被害を受けていない場所③原爆の威力をつかめるような広さのある場所…ということになった。 5月10日、候補地は京都・広島・横浜・小倉・新潟と決まった。横浜が下位にランクされたのは、産業施設が海に囲まれていること、丘陵が多く平面的な広がりがないため効果測定が難しいこと、対空砲火が厳重であることなどによるようだった。 5月23日には再び東京空襲が行なわれ、これによって首都は壊滅した。この頃になるとさすがのハマッ子も「次は横浜か?」などというウワサが立ちはじめる。そして28日、アメリカでは原爆投下の目標を京都・広島・新潟の三都市に絞った。 この時点で横浜は原爆投下リストから外されたわけである。これで多くの横浜市民が原爆被害から逃れられたのだが、アメリカは替わりのものを用意していた。それが翌日に行なわれる横浜大空襲だった。 昭和20年5月29日朝6時20分、アメリカ軍の大編隊が太平洋から駿河湾を通り富士山に到達し旋回を始めたというラジオの警戒警報があった。午前8時過ぎ、市内に空襲警報が発令される。それから約1時間後、517機のB29とそれを護衛する100機の戦闘機が、大編隊を組んで横浜上空に現われた。 爆撃目標は東神奈川・平沼橋・港橋・大鳥小学校・吉野橋の5地点で、これを中心として集中豪雨のように焼夷弾をばらまいたのである。1時間の爆撃で使われた焼夷弾は、約44万個だった。下から見るとまるでスダレのようで、朝だというのに真っ暗になったという。 アメリカ軍が東京を壊滅させるのには5回の空襲が必要だったが、横浜中心部はこの1回で壊滅した。それほど集中的・徹底的な爆撃だったのである。警察発表によると死者は3650人といわれているが、実際には7000から8000人だったのではないか。罹災した市民は30数万人にものぼった。 三春台から黄金町にかけては、逃げ遅れ蒸し焼きになった市民が多かった。板東橋方面へ逃げようとした人たちは、日本軍に阻止され追い返されたところで、多数が焼き殺されてしまった。 タ方になると焼け野原から自分の家族の死体を焼く煙が立ち上った。また、黄金町駅前は死体置き場になった。というのも、駅周辺は強制疎開で大きな広場ができていたからである。ここに各地から死体が運び込まれた。 空き地に積み上げられていた死体の山は、戦意喪失を防止するため日本軍によって迅速に運び去られたあと、砕けた骨を埋めて土饅頭とし、そこに黄金地蔵堂が造られた。お地蔵さまは今、普門院に安置されている。 焼け野原から立ち上る煙や残り火が完全に消えたのは1ヶ月後であった。 (参考文献:「大空襲5月29日―第2次大戦と横浜―」「横浜の空襲と戦災」) ▲普門院は黄金町駅近くにある ▲黄金地蔵 大通り公園の板東橋駅近くに「平和祈念碑」が建っている。毎年5月29日にはここで慰霊祭が行われていたが、戦後50年を期に、やめてしまったようだ。 ▲大通公園。かつて、ここは運河(吉田川)だった。あの日、何人の市民がここに飛び込んだのであろうか。 ▲平和祈念碑 この祈念碑に向かって右側のビル1階に「ショーラパン」がある。グルメなブロガーがここのランチについて言及されているので、ご存じの方も多いだろう。 ここまで来たら「ショーラパン」で昼食をと思う気持ちも分からないではないが、平和祈念碑をお参りしたあとは、向かって左側にある和食・お食事処の「いちばん」で定食をいただきたいものだ。 なんたって、ここは安い! ボリュームもたっぷし。そして、お客はむさくるしいオジサンばっかし。女の方が入っているのを見たことがない。「ショーラパン」とは全く客層が違うのだ。 ここでは、戦時中に食べたスイトンやフスマ粥など思い出しながら、550円の定食をいただこう。 これは鯖の味噌煮定食。もちろん550円! メインの鯖は一切れかと思っていたら、な、なんと2切れも入っているではないか。大きなヤツの半身を使っているのだ。まるでスープのような味噌ダレの中で2切れの鯖がドップリと浸っていた。 その右側のお椀は、蟹の入ったうすい味噌汁。蟹が入っていなければ戦時中が偲ばれるお味だ。 真ん中は茶碗蒸し。550円定食なので作り置きなのは仕方ないが、ちゃんと具の入ったものである。 その右の小鉢は切り干し大根。なかなか滋味、いや地味なお味だった。奥は漬物。ライスは超大盛り。まあ、とにかくお腹いっぱいになることは間違いない! 戦時中に食べたら、超豪華昼食膳である。 そんなランチをいただきながら考えた。 焼夷弾を投下していったアメリカ軍兵士が上空から眺めていたのは、数え切れないほどの建物や住民が存在する都市としての横浜。それはビルの名前も、市民一人ひとりの名前も分からない、単なる集合体としての街だ。 しかし、上空から見れば単なる“横浜という街”であったろうが、落とされる側の下界には、一人ひとり名前のある個人がいた。そこは物理的な街というのではなく、個人の集合体、たくさんの人生の集まりだったはずだ。 いつだったか、黒焦げの死体の山を撮影した写真を見せていただいたことがある。それは性別すら分からない、すさまじい光景だった。でも、その一体一体に、それぞれの人生があったはずなのだ。 ←素晴らしき横浜中華街にクリックしてね |
そこには、空襲を実際に体験された方の生々しい証言があって...それが今も脳裏から離れません。
また、このほど、とある理由で横浜市北部を回り、多くの慰霊碑を目にし、それらの土地からも多くの人が出征し帰らなかったことをあらためて認識しました。
一人一人で対すれば優しくもなれる人間が、ある大義名分のためには人殺しもするのは、いったいなぜなんでしょう。
人間、一人ひとりなら良い人ばっかりなのに、その人たちが集合した「国家」となると、どうも良くありませんね。
それにしても、あの焼夷弾は焼き殺すのが目的の爆弾でした。被災者たちはどんなに苦しかったことか…
金属の塊が穴から掘り出されて置いて有ったのを
見たことがあります。見るからに不気味だったのを
おぼえています。母曰く、あの金属の物体は焼夷弾
だそうです。何回も中華街に行っていますが戦争の
傷跡を見たのは、あの時が初めてでした。
コメントありがとうございます。私も別な傷跡を見ました。
福建路にある「天香」の場所には、今ではマンションが建っていますが、そこは数年前まで、ローマステーションが倉庫で使っている小汚い小屋がありました。
その建物にいくつもの弾痕が残っていたのです。あれは、機銃掃射の跡だといわれていました。
自転車がパンクしたとき、修理のゴム糊には最高でした。
当時甘さに飢えていた拙は、高射砲弾の黄土色の微粒粉末を舐めました。ウットリしたそのあと、胃の中のものがが(イモの葉っぱ)吹き出しまして、ぶっ倒れました。
然し、サッカリンとかズルチンなどに比較できないマッタリした、上品な甘さでした。
凄い体験談ですね。
初めて聞きました、こういう話。
そうでしょうね。
でもB29から機銃掃射されたという話もいくつか聞きます。
私はP51戦闘機だったのではないかと思いますが。