もう昨年のことになるが、作治さんと「栄屋」で呑んだあと、若いころ荒らしまわっていた福富町・長者町界隈に繰り出し、懐かしい店の“今”を見に行くツアーを挙行した。 まずは、この路地。 1階は中華の「自由軒」が今でも健在だった。 ここのチャーシューメンがうまかったなぁ…。 夏は冷やし中華だ。 壊れたクーラーから出てきた結露水が、頭の上から垂れて冷やし中華のスープにポタポタと落ち込み、甘酢がどんどん薄くなっていったものだ。 厨房はカウンター内だけ。とにかく狭いので野菜を切ったりするのは路上でやっていた。だから雨の日なんかは大変で、店の人が合羽を着てトントンしているのだった。 2階は酒場「ヒンメル」。ハシゴ酒の最後に行くことが多かった店だ。 まだやっているんだろうか……いや、やっているわけないよなぁ…… 昔は毎日のように利用したエイトセンター。ビル名の由来は長者町8丁目にあるからだ。 地下1階から地上3階までが呑み屋街で、全部で40軒近く入っていたと記憶している。 4階には協同組合の理事長が住んでいた。 最初に行くようになったのは、この地下にあった「美津の家」だった。ばあさんが一人で切り盛りしてる呑み屋で、酒の肴は玉子焼きとか和え物など、優しい味わいの家庭的なおかずだった。 「美津の家」の歴史は古い。戦後間もなく桜川沿いにあったカストリ横丁で開店している。(現在の桜木町駅の横あたり) ばあさんの話だと、30軒ほど並んだ棟割長屋で、バラックに近いものだったそうだ。野毛はジャパニーズオンリー地区だったにもかかわらず、ときどき米兵がきて暴れたり、時には発砲事件もあったという。 その後、川沿いの横丁は汚くて不衛生ということから、多くの店が集団移転した。そうした呑み屋が集められた建物が「桜木町デパート」である。 当時の資料によると、美津の家をはじめ、洋紀、再会、心、よる、八郎湖(のちの太平山)、いざよい、ヒンメル、ライカ、山茶郷、小西など、1,2階あわせて100軒くらい入っていたようだ。 1970年代に入ると桜川新道を建設するため「桜木町デパート」が取り壊されることになり、立ち退きを余儀なくされた呑み屋は、長者町のエイトセンターや都橋商店街2階へ集められた。 エイトセンター1階を眺める。 まだ時間が早いからひっそりとしている。 「いざよい」の看板が残っていた。 「よる」もだ……。 外から一気に3階まで上がる階段。 酔っぱらって、ここから転げ落ちた人の数は数えきれない。 3階。 この奥に「ライカ」があった…と思う。 当時、国会議員だった大出俊がしばしば来ていたっけ。 その手前に「太平山」があった。ここに出入りするようになったきっかけは、私の所属するバンドの練習が終わったあと、よく呑みに行った「美代」の閉店だった。 「美代」と「太平山」は向かい合っていた。その「美代」が閉店するにあたって、私は記念として店の看板を貰うことになっていた。 それを預かっておいてくれたのが「太平山」だった。 以来、「太平山」には足しげく通うことになった。 2階トイレ。 ここでよく嘔吐している酔客がいたっけ… 2階は全く知らない店ばかりになっている。 「太平山」の最後はこの2階に移転していた。 それも何年か前、女主人が亡くなって閉店。 以来、エイトセンターに行くこともなくなった。 若いころに徘徊していた飲食店ビルを今こうして歩いていると、あちこちのドアから飲み仲間やご主人たちが出てくるような気がしてくる。 「桜木町デパート」から移転した店が集められた2つのビル。 「都橋商店街」の呑み屋は、いまや若者たちで賑わう店の集合体へと転換していったが、ここ「エイトセンター」はどのように変わっていったのだろうか。 時間ができたら探検しに行ってみたい。 ←素晴らしき横浜中華街にクリックしてね |
人には歴史があり、なるほどなあと思います。
これはフライデーの近くですか?
行ったことはないですが。
昭和の遺跡群だぁ。
そう、近くのフライデーにもたまに行きました。
大人の店という感じで、20代の私にはまだ早かったと思います。