目覚めた孔雀。独り言三昧。

目覚めた孔雀こと池本哲晃(いけもとてつこう)の独り言です。

キリスト教の数学的解釈。

2024-07-09 23:57:38 | いけてつオタク話
キリスト教の論理。
人は死ぬ。死ぬからには理由があるに違いない。それはアダムとイブが神に逆らって、善悪を知る実を食べたからだ。

キリスト教の論理。
すべての人は死ぬ。ところがイエスは死後三日後によみがえった。だからすべての人は死ぬという、全称命題は否定された。ところがイエスは無原罪の子である。無原罪であるためには、原罪のあがないが必要だ。それがイエスのあがないである。

従って、原罪やその他一切の罪をあがないイエスのあがないを信じ、洗礼を受ければ、死を免れることはできる。

これ、現実にはあり得ない話なのですが、数学的には筋の通った論証なのです。

学問の世界において、数学的に筋の通った論証をすれば、現実妥当性は、後の学者が追試してくれる。

従って、こういった議論が大好きなヨーロッパの人々は、キリスト教が大好きなのであります。

そうそう、死なない人々は、一部の人々である。これ、すべての人は死ぬという命題の対偶ですが、これもその例はイエス。そして旧約聖書のエリヤ。
どちらも無原罪だとされています。

従ってキリスト教の主張でいけば、罪を犯さなければ、永遠に生きられるというのがその見解であります。

さて、新約聖書に、あれは確かパウロだったと思いますが、すべての人々は罪人だという、失礼な主張があります。

ということは、イエスやエリヤは人ではなかったのでしょうか?
人でなければ、罪人ではないのですから、それは昇天できますよね?

そこで、アタナシウス派の、イエスは完全な神であり、人であったとしないと、意味が通じなくなります。

ここでめでたく論理矛盾は解消されたわけでありますが、クリスチャンであった人々で、死後三日にしてよみがえった人は見たことがありません。

うーん、後の学者が追試をするといったところで、私はそれまで生きてないや。

うーん困ったものだ。

こういうことを言っているから、いけもとははぐれざるになるのよね。
身から出たさびか。
ちゃんちゃん。