そもそもキリスト教のセンスがない国に、資本主義をやれ!といってもだめだ。
まずキリスト教のように絶対的な存在がないから、経済倫理を破っても「弱肉強食こそ資本主義だ!」などとうそぶいて、やりたい放題のことをする。
キリスト教の戒はなぜ守られるか?
この世界に唯一絶対の存在として神が君臨し統治する。
その世界で彼が宣明した戒を破るということは、その場合、逃げ場はなく、未来永劫戒を破った罰を永遠に受け続ける。
そしてイエス以前には救済者がいない。
文章で書けば、たった三行の文章であるが、これは実に恐るべきことである。
さて、日本教には彼に比肩する存在はいない。
それどころか戒を破っても話のわかる人が助けてくれる。
まさにやりたい放題ではないか。
さて、イエスは神が定立した細々とした禁戒である律法の類いを要約して、隣人愛の実践という勧戒に変えた。
旧約の労働は神の懲罰。なんてセンスから、カルヴァンあたりが言い出すイエスの勧戒の実践。というように、労働観が転回するのだ。
カルヴァンは預言者だったのか?!
ここでいけもとは、クリスチャンと呼ばれている人と神学論争をするつもりはない。
んなものは、その場で一番口がうまいやつが勝つようにできているからだ。
さて、日本教の労働観は、神様ですら働いているのだから、人も働け、動物もこき使え。
とこうなる。
強迫的労働自我。
働かないと気が済まない人々。
気持ちよくゆっくり休むことのできない人々。
そんな人々たちを作り出す教義。
こんな教義は奴隷主やマルキシストにとっては、万歳としか言いようのない教義であろう。
ちなみにマルクスは、受救貧民をくそみそに罵っているから、マルキシズムは日本教のドグマと相通じるものがあるのかもしれない。
ちなみにリライトされたマルキシズムの本では、受救貧民は、ギャング、売春婦、受刑者等という、社会的にマイナスな商品を提供する人々から構成される。と書いているが、そもそもの受救貧民とは、公的給付を受ける貧民たちのことである。
(若い研究者たちよ、最近の古典は各方面に都合よくリライトされているので注意されたし。)
さて、いけもとがこうやってヘデゴナシ記事を書いても、読者の方に対して、対価ゼロの商品を生産していることになる。
が、これを作家工房なんかで、人間関係にもまれながら生産すると、職場で商品を生産したことになる。
1人で何らかの商品を生み出すことが仕事復帰。
多数で人間関係にもまれながら何らかの商品を生み出すことが職場復帰。
さーって、職場復帰は難しくても、仕事復帰はたやすくできる人々がいる。
(この概念は、心理屋の人々や産業医、そして管理職の皆さんは覚えておくといいかもしれない。)
こんなヘデゴナシ記事は、近くの古本屋に行って高校社会科の学参を買ってくれば、誰にでも書ける。
そんなわけである。
以上、管内高井戸インターでいけもと。