自分は持ってないから、あたかもあるように演出する。
ほしいのだけれど相手は持ってないから、その相手に執着する。
そんな不毛な人間関係をたくさんみてきました。
不思議ですね。
あるもので勝負せずに、ないものをあるように見せかけて人の気を引き、相手がそれを持ってないから、相手にそれを求めてしがみついて執着する。
実は治療者は、その欲望の対象を持っていないのだけれど、それを持っているように見せかけて、患者の欲望を徹底操作して、その時代の行動規範に合致させなければ、治療にならないそうなんです。
それがアメリカの場合は、アメリカンドリームという共同幻想と新自由主義なる行動規範なんだそうですが。
もっとも今の時代は、その行動規範自体が、曖昧模糊なものになっているのですがね。
さて、愛の対象としての治療者。憎しみの対象としての治療者。
愛の対象としての治療者の場合、患者は偽性寛解して治療終結。次の治療者でシューブ。
憎しみの対象としての治療者は、それこそ、問題患者の攻撃にさらされてしまう。
実はこのプロセスが、治療者が意識しないままで進んでしまうのが怖いのです。
それの防波堤が、かつては各教室の医局でした。
患者はいつの間にか病を治すために来るのではなく、人間関係を求めに来るものであるからです。
何やら何が言いたいかわからない文章になりましたが、幼い頃から見聞きしてきた人間関係から、こんな文章を書いてみました。
最近いろいろあって、大好きな人たちと会う機会がありません。
妹もそうです。
暖かくなったら、そのトラブルが落ち着きますように。
以上、管内十方面でいけもと。