私は自己実現を望んでいたのか!
私の大好きなイデオロギー。
一つはキリスト教、もう一つはマルキシズム。
その二つである。
方やバリバリの観念論で方やバリバリの唯物論であるが、そんなベールを引っぺがしてみると、実は二つとも自己実現の理論であり、その提唱者であるイエスもマルクスも、どちらも嫌うのは自己隠蔽である。
自分のしたいことを我慢するのがそんなに美徳なのか?
乱暴に言ってしまえば、キリスト教いやさイエス教も、マルキシズムいやさマルクス教も、結局は自分の内なる神に殉教することを、文底秘沈の形で書いてある。
ただこの場合、両方とも、提唱者である、イエスやマルクスのイデオロギに殉教することを要求しており、我々の中に潜む、自分の衝動に殉教することを要求していないことに注意すべきであるが!
さて、世界中広しといえども、神と論争し、論理的にその神をやり込めることができたら、神が人の言い分を聞くというのは、この、内なる神に限る。
これは実話であるが、ここのところ忙しくてしょうがない。
なんかむかっときたので、昨日、内なる神に向かって、
「てめえの計画とやらでこっちはむちゃくちゃ忙しいんだ。万障繰り合わせて、すべてがつつがなく実行できるんだろうな! そしてギャラよこせ! ギャラ!」
と、本気で内なる神にプロテストしたら、本当に手持ちの時間と予算内で、やりたいことがきちっとできて、たった二百五十一円ではあるが、本当にこの内なる神からギャラをもらったのである。
クリスチャンであれば、内なる神に用いられたのだから、感謝です!
とでも言って、ただ働きでも喜ぶのであろうが、あいにくИКМТはクリスチャンではなく、ただの怒りっぽいがめついおっさんである。
そんな怒りっぽいがめついおっさんに言い分を聞いてくれるのだから、内なる神は優しいし、しゃれがわかる。
さて、そんなことはどうでもいい。
もう、むちゃくちゃだと思ったら、あなたも神にいちゃもんをつけてみるといい。
釈迦がすべての現象の目撃者であるならば、そのすべての現象を天地開闢の時に計画し、文楽の黒子のごとく、その現象を実現させるのが内なる神である。
さらに教師たちは、それは我々にとって、プラスになることだとも言っている。
だったら、その現象は、手持ちの資源で実現できるはずであり、私にプラスになることなのだ。
「それを信じるから、その通りにせよ!」
あまりの多忙さに腹が立ったら、内なる神にそういちゃもんをつけてみるがいい。
実は天地開闢の昔から、すべてを計画し、あなたにやらせて、Rocky's rewordsならぬ、Your's rewordsをくれるのがあなたの内なる神なのだから!
そんなことを思った、吉宗ИКМТであった。
追記。
本当に内なる神は何でも実現してくれる。
バイブルに、
「あなたは何をしてほしいのか?」
「あなたはそれを信じるか?」
「あなたの信仰のごとくなれ!」
といってくれる神がいると言うが、それは本当だった。
私はそのことを証しする。