目覚めた孔雀。独り言三昧。

目覚めた孔雀こと池本哲晃(いけもとてつこう)の独り言です。

まあ、腹の虫がおさまるまで起きていることにします。

2024-02-23 23:46:39 | いけてつ独り言
気を使わなくなった。
これは文字通り、気の意味であって、対人配慮をしないというわけではない。
気を使わなくなったので、気疲れしなくなり、気が立って、お酒を飲まなければ眠れなくなるようなこともなくなった。

思考の座が、頭から腹に移った。
頭に血が上らなくなり、腹が立つようになった。

それに気が付いたのが、さっきまで妹と話していたときに口をついて出た言葉だ。

前は頭にきたとか、気が立って眠れないという表現をしていたが、今日は腹の虫がおさまらない。

まあ、腹の虫がおさまるまで、起きていることにします。

そんなわけであります。
以上、ικμτ。

今日という今日は、頭にきたからガチャ切りしてやった。

2024-02-23 21:42:06 | いけてつ独り言
今夜も電話をかけてきやがった。
それもこんな時間(夜の九時半)に。

それもどうでもいい話で。

その話の内容は彼の名誉のためにここでは書かないが、それは彼自身が悩んで結論を出す問題であって、私に話して決着のつく問題ではない。

よろず彼はこんな感じだ。

彼は葛藤にぶつかると、成長によって超克するのではなく、定石みたいなもので決着をつけようとする甘さがある。

彼にとってみれば、キリスト教のドグマですら、体のいい人生のQ&Aの集まりだと思っているんだろう。

ところが当てが外れて、ドグマと自分の欲望の間で調整が取れなくなり、悩んでいるのだ。

私は彼の話し相手ぐらいにならなれるが、葛藤を成長によって超克していくのは彼自身の仕事であって、私の仕事ではない。

それにしたって、もっと常識的な時間に電話をしてくるのであれば、もうちょっと優しい対応もできただろうが、さすがに二日連続で、夜の九時半にかけてこられた日には忍耐にも限度がある。

それも五十にもなって。

とりあえず、今日という今日は、頭にきたからガチャ切りしてやった。

今日は頭にきたから、もう寝ます。
あとは知らねえ。
あいつの人生だ。俺の人生じゃねえや。

そんなわけである。
以上、ικμτ。

あ~、昨夜は本当に迷惑だった。

2024-02-23 13:50:26 | しんぶんクロハタ並びに小黒金剛石
しつこいねえ。
いつまで人を宗教に勧誘すればいいんだろう。
昨日なんて、夜の九時半ごろに電話をかけてきやがった。

夜の九時半に、宗教の勧誘。
非常識にもほどがある。

歌まであるんだよ。
キリスト野郎、のさばるな
○○○○許さんぞ~。

自称・正統派のキリスト教会の代表や牧師が、人を呪っていいとか、夜分遅く勧誘しろとか教えるんだから、何が正統派のキリスト教会だといいたい。

んなの邪教じゃねえか。

大体治る病気なら、祈らなくても治るし、治らない病気なら、医者にかけても治らないよ。

あ~、昨夜は本当に迷惑だった。

別に借金しているわけじゃねえんだから、今度かけてきたらガチャ切りしよう。

再び前掲の歌をもう一度。
キリスト野郎、のさばるな。
○○○○許さんぞ~。


不定期に起きる、ブレインフォグに悩んでいます。

2024-02-22 18:23:14 | いけてつ独り言
たまに夕方の六時ごろになると、いきなり頭の中にもやがかかったようになり、何も考えられなくなったり、体が動かなくなったりするので、誰かが生霊を飛ばしてくるんだろうと思っていた。

そしてデート中にこのことを話し、具体的に名前を列挙したら、まだK戦闘員と交友しているのかと彼女さんに怒られ、とうとう彼女と別れてしまった。

なぜなら、ことはικμτ一人ではすまず、ικμτの家族や親しい人たちにまで、勧誘の手が及ぶからだ。

いくら何でも、呪詛でこんなことは起きるまいとネットでググってみたら、ブレインフォグという、れっきとした病気であることが分かった。

はじめはてんかん発作を疑ったが、意識は持続して、その間に起きたことは覚えているのでてんかん発作ではない。

それが決め手になった。

大体源氏物語の六条の御息所じゃあるまいし、生霊を飛ばして人の頭をパッパラパーにさせてみたり、動けなくさせたりするぐらいなら、その能力で、宗教でも開いているはずだ。

ブレインフォグ。
本の話だと思っていたら、まさかικμτもかかるとは思っていなかった。

今度病院に行ったときに、ブレインフォグに悩まされていることを、先生に話してみることにする。

以上、ικμτ。

愛が見えない。

2024-02-21 17:45:08 | いけてつ独り言
まるで急に盲目になったようだ。
愛が見えない。

当たり前にあるはずの愛が見えなくなった。
周りにあるものが、全て愛の仮面を被ったシニカルな冷笑に思える。

それとも、全てが愛の仮面を被ったシニカルな冷笑が多くを占めるこの世の中だからこそ、本物の愛に出会うと嬉し涙が出てくるのであろうか。

ただ一つだけ真実だとわかるのは、自分が持っている周りへの温かい気持ち。
だからこそ、愛が見えなくなっても愛の存在を信じていられるのだ。