目覚めた孔雀。独り言三昧。

目覚めた孔雀の独り言です。

先輩と共通の友人のお墓参りをしてきた。

2021-02-23 21:54:55 | いけてつ独り言
今日。先輩とドライブして、共通の有人のお墓参りをした。
道すがら、いろんなことが頭に浮かんだ。
釈迦は悟りを得たときに、自受法楽といって、自ら見た法を楽しんだと経に書いてある。
私は約十年間、病の苦しみで外出できなかったが、ちっとも楽しくなかった。
一つ釈迦に、全く俗世間と交わりをたって、それで愉快だといえた釈迦の見た法は何だったのかと尋ねてみたい。
それとこれは余談であるが、上座八万四千、大乗八万四千、十六万八千の法門が釈迦仏法にあるという。
その十六万八千の法門は、おもちゃだと経に書いてある。
そしてそれらを使って、我々を楽しませ、最後に大白牛車という最高のおもちゃを与えて、解脱させると書いてある。
その大白牛車。それは死ではないかとИКМТは思う。
そんなことを先輩とドライブしながら考えていた。

これは皮肉であるが、神様仏様。
そんな甘えたことを言ってられるのは、生活に余裕があって甘えてられる身分の人だと思う。
バイブルによれば、盗むほど貧しくなく、うぬぼれるほど豊かではなく云々とあるが、そんな生活環境にあるからこそ、神というアヘンに酔いしれるだけの余裕があるのだと思う。

こんなことを言ったら、仏教徒の友人やキリスト教徒の友人に激怒されると思うが、これが先輩とドライブしながら考えていた、ИКМТの考えのすべてである。

そんなことを言わせるのは、共通の友人のお墓参りをした功徳なのか罰なのか私にはわからない。

今日はその精進揚げに、先輩の家で、スナック菓子を肴に発泡酒を飲んだ。
その帰りの電車で、ある酔漢がもどしていた。
駅員さん三人が、その後始末をして、酔漢の介抱をしていた。
このコロナ禍の中でである。

そうそう。
結局先輩と飲んだ結びの言葉は、ИКМТが先輩を生き仏として供養し、先輩が私を生き仏として供養する。
そんな相互供養が、大乗仏教の言うところの菩薩行の究極であり、キリスト教で言うところの隣人愛の実践なのかなと言うところで、落としてきた。

そんなわけである。
以上、管内忍土、または涙の谷で、ИКМТ。


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