「己に背くもの」の筆頭。
それは自分が「幸福無資格者」であるという観念。
それに気づいたら、「そんな信仰など捨ててしまえ。」と思うのだが、業の慣性とでも言うのであろうか、なかなかその観念を捨てられない。
そんな観念を持つ端緒など何でもいいのだ。そんな観念を持ち始めたときからその人は、とにかく自分は「幸福無資格者」であるという観念を強めるために、数々の証拠集めをし、自らを不幸にすべく、自分を幸福から遠ざける愚行を始める。
もし罪というものがあるとすれば、それは自分が「幸福無資格者」であるという観念だろう。
なぜなら幸福を恵もうとしている神様の恵みを妨げる絶縁体こそ、そんな観念なのであるから、悔い改めるべき罪というのはそれ自身だ。
あなたは幸福になっていい。
自分は「幸福無資格者」というある種の信仰から、自分は「幸福有資格者」であるという信仰に、宗旨替えすべきだ。
神が無限であるというのであれば、幸福も無限であるのだし、あなたを愛する人は、あなたが幸せになって笑顔でるんるんしている姿を喜びこそすれ、妬みはしない。
あなたはあなたの幸福を喜ぶ人を友とすべきだし、あなたの幸福を妬むような人こそ遠ざけるべきなのである。
兼好法師の徒然草に、益者三友という段があるが、それに勝る、友とすべき人は、ただ単に、あなたの幸せを喜ぶ人であり、あなたの笑顔に奉仕する人なのである。
そういえば、友とは隣人のことを指す。
本当に隣人愛を実践している人こそ、あなたの幸せを喜ぶ人であり、あなたの笑顔に奉仕する人々なのだから。