キリスト教の論理。
人は死ぬ。死ぬからには理由があるに違いない。それはアダムとイブが神に逆らって、善悪を知る実を食べたからだ。
キリスト教の論理。
すべての人は死ぬ。ところがイエスは死後三日後によみがえった。だからすべての人は死ぬという、全称命題は否定された。ところがイエスは無原罪の子である。無原罪であるためには、原罪のあがないが必要だ。それがイエスのあがないである。
従って、原罪やその他一切の罪をあがないイエスのあがないを信じ、洗礼を受ければ、死を免れることはできる。
これ、現実にはあり得ない話なのですが、数学的には筋の通った論証なのです。
学問の世界において、数学的に筋の通った論証をすれば、現実妥当性は、後の学者が追試してくれる。
従って、こういった議論が大好きなヨーロッパの人々は、キリスト教が大好きなのであります。
そうそう、死なない人々は、一部の人々である。これ、すべての人は死ぬという命題の対偶ですが、これもその例はイエス。そして旧約聖書のエリヤ。
どちらも無原罪だとされています。
従ってキリスト教の主張でいけば、罪を犯さなければ、永遠に生きられるというのがその見解であります。
さて、新約聖書に、あれは確かパウロだったと思いますが、すべての人々は罪人だという、失礼な主張があります。
ということは、イエスやエリヤは人ではなかったのでしょうか?
人でなければ、罪人ではないのですから、それは昇天できますよね?
そこで、アタナシウス派の、イエスは完全な神であり、人であったとしないと、意味が通じなくなります。
ここでめでたく論理矛盾は解消されたわけでありますが、クリスチャンであった人々で、死後三日にしてよみがえった人は見たことがありません。
うーん、後の学者が追試をするといったところで、私はそれまで生きてないや。
うーん困ったものだ。
こういうことを言っているから、いけもとははぐれざるになるのよね。
身から出たさびか。
ちゃんちゃん。