尊敬するある方からの助言に、最初は面食らった。
「まずはお掃除からはじめてみてはいかがですか?」
語り口はやさしく、仰ることは簡潔。
その簡潔さが、考え抜かれた末のある種の到達点から発せられていることを、
いままでだって何度も思い知らされている。
いろんなヒントは与えてもらっていて、自分なりに考える。
ああでもないこうでもないと紆余曲折を経て、あっ!っと光が見えたと思うと、
実は先生が最初に、にこやかに仰っていたことだった。。。
震えるほど感動的な瞬間に何度も立ち会っている。
当のその方が「まずはお掃除から。。。」と仰る。
正直、一瞬、キョトンしてしまった。
なんとなく、自分がいま抱えていることに対して、
「お掃除」というアクションはなんだかものすごく遠い感じがしたのだ。
だが、ここは自分の感情にこだわって、強情をはる場面ではない。
感情にこだわる、むしろこれが問題なのだ。
先生のアドバイスをとにかく信じることにした。
それが8月初めごろのこと。
「お掃除」とか「お片づけ」とか、そういうことなら、これはよくよく知っているつもりでいた。
けれども、一度、ある種のレベルを突破すると、なるほど、「お掃除」が心に及ぼす影響は
僕が当初想像していたことなんか、てんで問題にならない深さにまで達する。
この奥深さは、いったいどれほどの深さにまで達するのか?
わが身のことながら、いまだに底は見えないのだけれど、
少なくとも、片付けて、キレイに磨いた分だけは、見通しがよくなってきてる。
これは「そういう気がする」というものではなくて、文字通り、
スッキリと見通せるようになるのだ。
これには正直、驚いた。
最初の想像、あるいは自明と思い込んでいること。
それはただの決めつけに過ぎない、ということになる。
例えば。
それなりにお掃除はしていても、習慣の故に見落としていた部分などはある。
見ないようにして、過ごしてきた部分さえある。
あらためて見直すと、どうしていままで放っておいたのか?
驚くほど汚れていたりする。
反省する暇があったら、まずをこれをキレイにしてみろと。
なるほど。
ただ、簡単ではない。
たかだか十数年、住んでいたというだけで、こびりついたりすることがある。
よし!と、これに取り掛かる。
時間をかけて満足いくまでキレイにすると、今度は、そのすぐそばの、
いままでそんなに問題に感じなかった部分が、少し、くすんで見えてきたりする。
そうか。。。と思って、今度はそこに取り掛かる。
そこがキレイになると、その横の。。。という具合で、なかなかにエンドレスなのだ(^ω^ゞ
とてもにこやかに仰っていた先生のアドバイスは、その一言の射程距離がとんでもないのである。
もちろん、毎日はできないし、いっぺんにもできない。
基本は週一回、テーマを決めて。
まめにコツコツと。あとは気づいたときに短時間でいいから、そこだけはやる。
これをひと月やり、ふた月やり。
そうこうするうちに、劇的な感覚の変化が起こる。
まず、見え方が変わってくる。
見るという感覚が変わってくると、気づくことが変わってくる。
そしてそこで、あらためて考えるということを考え直してみる。
「まずはお掃除からはじめてみては?」
ここにきて、ようやく、この言葉の意味がわかりかけてきた気がしてきた。
だが、とにかく射程距離の長い、先生のアドバイスだ。
ここで「わかった」つもりになってはいけない。
実利はもちろんある。
見違えるほど、わが家の中身がキレイになってきた(*^。^*)♪
そして、さっちゃんがことのほか喜んでくれている(^ω^ゞ
なので、晩酌してても、お酌などが、なんだかとても丁寧なような(^ω^ゞ
ま、ここまでのところ、いいことづくめであるのは間違いない。
あ、ところで、僕は「断捨離」という言葉がだいっきらい、ということだけは言い添えておきたい。
「お掃除」、「お片づけ」をしていれば、そりゃあ、捨てるものというのは出てくるものだけれど、
僕がやっているのは断じて、「断捨離」などではない。
いちおう念のため(*^。^*)