りゅういちの心象風景現像所

これでもきままな日記のつもり

真摯さ、その断片

2021-06-11 19:47:00 |  映 画 
東大教養学部900番教室で三島由紀夫がマイクを片手に討論している映像を見た。
なんというか、三島由紀夫という人の誠実さがすごく際立っていて、
どういう場所で話しているのか?とか、その後になにが起こるのか?とか、
そういうことは忘れてしまって、三島由紀夫の言葉に引き込まれた。

とっても不思議な感覚。
すでにこの先を知っている(つもりの)僕が、後に起こる市ヶ谷でのことを知らないかのように、
三島由紀夫の話に耳を傾けていたっていう時間をいまの時代に持ったという。。。

全共闘がなんたるか?を、僕はまったく知らないし、語る資格も、語るつもりもない。
しかし、三島由紀夫の誠実さについてなら、語る資格がなくてもなにがしかを言いたくなる。
少なくとも、あの場にいた学生諸氏に対して三島由紀夫は常に礼儀正しく、
話を逸らしたり、誤魔化したりせず、だけどユーモアはたっぷりで、
本人曰く「つとめて余裕を装うためにタバコをのんで」いたりする。
そして、時に乱暴な提議にも、真正面から道筋をつける。
当時、並み居る論客達(とは言え、相当に若い学生)を相手に、
上から見下すような真似は決してせず、声を荒げることもなく、
どこまでも対等であることを旨としている。
今から見れば三島圧勝の展開であっても、
相手を追い詰めるようなことは決してしない。
揚げ足を取ったりなどという下等なことなど決してしない。
不遜なパターナリズムとはまったく違う性質。
常に相手に敬意を払う、これに徹している。
伝える言葉を持つ人がとるべき態度。
至極真っ当な姿勢にみえたのだ。
恐るべきは、これはほんの数時間、三島由紀夫が垣間見せた、
真摯さ、その断片に過ぎないということ。

「映画」なので、どう作っても編集は入る。
編集にはいろんな工夫があるし、三島以外の証言やまったくの外部からのコメントも織り交ぜてある。
しかし、そのどれもが失礼ながら、余計なもの、邪魔ものに感じた。
映画がどうとか、編集どうこうの問題ではない。
真摯であることの強さ。
これを失った世界に生きてるのだと、自分をふり返ってしまった。

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