あちこちから「戦場のメリークリスマス」ばかりが聴こえてくる。
「サカモト」といえば「戦メリ」。
このステレオタイプも、事情が事情だけに、しばらくは受け入れていた。
坂本龍一氏の仕事はあまりにも膨大で、そのすべてを追いかけることは、ほとんど不可能と思える。
氏の話が出てくると「戦メリ」ばかりっていうのはどうなの?と、いつもだったらこう思っていはず。
僕自身はリアルタイムで「戦メリ」の洗礼を受けたわけではない。氏の音楽を「サカモト」として、意識して聴くようになったのは、だいぶあとになってから。
なので、「戦メリ」の何が衝撃的だったのか?
公開当時のことについて、よく知っているわけでもない。
だからこそ、臆面もなく言ってしまうのだけど、僕は「サカモト」の音楽が大好きなのだ。
好きすぎて、迂闊に語ることなどできない。もう一方で、音楽そのものとは違うところで、素直に受け入れられないこともあった。
音楽とは完全に切り離して、まったくの別物として捉えていたのだけど、EVcafeで村上龍と一緒にゲストを迎えての鼎談。
思い返すに、村上龍よりも坂本龍一の言葉に衝撃を受けた。高校生だった僕はクラクラしながら引き込まれた。わけわからないのにやたらとハイブロウな話が展開していくその空気感がたまらなかった。
素直に申し上げれば、たまにテレビのバラエティ番組に登場する氏の姿には、正直、違和感があった。だいぶ古くから「お笑い」と親しい関係があったことなどはまったく知らずに、「サカモト」を聴いていたからかも知れない。いや、テレビで坂本龍一を意識するより前に本を、読んでいたから、かも知れない。
同じような理由で、氏の社会活動家としての側面には、どうにも賛成しかねるところが多々あった。
とても刺激的な思考の流れ、思考の航跡には惹きつけられるのだが、その先の「結論」というか、「行動」については、いつもどこかに違和感があった。
であるにも関わらず、僕は「サカモト」の音楽のことはどんどん好きになっていった。
今、現在でも思うのだが、これは僕としても特殊かつ特別。
「サカモト」の音楽から本当にたくさんのことを教えてもらった。この実感は確かにある。
テクノサウンドの申し子が繰り出すフレーズが、何十年もたって、あとから聞き直してみると、どうにも「日本的」としか聴こえてこないことには、語るべきなにかがあるはずだと思う。
映画音楽では、「坂本龍一」の「日本的」な感性がより際立つ。
「ラストエンペラー」のテーマ曲だって、僕には「中華風」には聴こえない。
「坂本的フレーズ」に「日本的要素」を聴くことができる。
「嵐が丘」のテーマを聴いていると、ヒースの生い茂る荒野の向こうに日本の海が見えてくるように思うことさえある。シーンによっては、音楽が映像を導いていることだってある。
「シェルタリング・スカイ」のテーマもそう。映画を見ながら、あれは砂漠ではなく、海なのではなかろうか?と何度も思ったのは、音楽のゆえ。
そういう意味では、「戦メリ」は氏の音楽のベーシックな塊を確かに最初から聴かせてくれていたのかも知れない。
テクノポップから映画音楽、ボサノバだってやった。ミニマルミュージックからオーケストラに至るまで、表現手段にまるで節操がない。このあたり、どことなく「ピカソ」を思い出させるところもある。縦横無尽にジャンルを渡り歩く。けれど、何を聴いても「サカモト」とわかるある種の独特な響き。その音楽の源泉がピアノにあったことは氏のピアノ曲が最初から証明している。
それなのに、社会活動家「坂本龍一」の言葉は、婉曲にではあるが、音楽で教えてくれたはずのことを否定する。
本当にトガッていた頃の氏の発言は、にこやかに「左翼的」であったのだけど、そうでありながら、氏の音楽はどこまでも「日本的」に聴こえるという不思議。
ピグミーの歌声を、沖縄の音楽を、アフリカの民族音楽のビートを自身の音楽に実装しながら、鼓童の太鼓には難色を示すなどは、ただ音楽の趣味を言うには思想的に過ぎた印象は否めない。その一方で、ドビュッシーやラヴェルを愛した氏。
博識の氏が、その二人共が実は強烈な愛国者であったことを知らぬはずはないのに。
いつだって抱えきれないほどの矛盾を溢れさせていた人。そういう印象はあの原発事故以降にますます強まっていったように見えた。
昔から、左翼と言うよりも、どこかアナーキストな響きさえあったように思うのだが、若かりし頃の僕としては、たじろぎつつ、「サカモト」の音楽と言葉の間に大きな矛盾を感じることがしばしばだった。
しかしながら、音楽は本人の政治的、思想的な信条を裏切る。
というか、そもそも、氏の音楽はそういうところから離れたところで鳴っている。
あるいは、それが「サカモト」の音楽を僕がずっと好きでいられる理由なのかもしれない。
「サカモト」にあっては、常に音楽が上位に位置する。望む望まないに関わらず。
ここ最近、氏の発言は、昔には考えられないほど、不思議なくらい素直に愛国的であったように思う。かと言って、いわゆる右左のステレオタイプで言うところの右に転向したというわけでもない。
とってもナチュラルな祖国愛。
もっと早くに言ってほしかった。
これから先の氏の言葉を聞きたかった。
定義し難い特別な存在が老いを生きて、その上で発する素直な言葉を聞きたかった。そして、音楽。
アルバム「12」の切実な音を聴いていると、どうしてもこの先があるように聴こえてしまう。
この先の音楽こそ、鳴らすべき「サカモト」だったんじゃないか?これを思わずにいられない。
ご冥福を心よりお祈りします。
「サカモト」といえば「戦メリ」。
このステレオタイプも、事情が事情だけに、しばらくは受け入れていた。
坂本龍一氏の仕事はあまりにも膨大で、そのすべてを追いかけることは、ほとんど不可能と思える。
氏の話が出てくると「戦メリ」ばかりっていうのはどうなの?と、いつもだったらこう思っていはず。
僕自身はリアルタイムで「戦メリ」の洗礼を受けたわけではない。氏の音楽を「サカモト」として、意識して聴くようになったのは、だいぶあとになってから。
なので、「戦メリ」の何が衝撃的だったのか?
公開当時のことについて、よく知っているわけでもない。
だからこそ、臆面もなく言ってしまうのだけど、僕は「サカモト」の音楽が大好きなのだ。
好きすぎて、迂闊に語ることなどできない。もう一方で、音楽そのものとは違うところで、素直に受け入れられないこともあった。
音楽とは完全に切り離して、まったくの別物として捉えていたのだけど、EVcafeで村上龍と一緒にゲストを迎えての鼎談。
思い返すに、村上龍よりも坂本龍一の言葉に衝撃を受けた。高校生だった僕はクラクラしながら引き込まれた。わけわからないのにやたらとハイブロウな話が展開していくその空気感がたまらなかった。
素直に申し上げれば、たまにテレビのバラエティ番組に登場する氏の姿には、正直、違和感があった。だいぶ古くから「お笑い」と親しい関係があったことなどはまったく知らずに、「サカモト」を聴いていたからかも知れない。いや、テレビで坂本龍一を意識するより前に本を、読んでいたから、かも知れない。
同じような理由で、氏の社会活動家としての側面には、どうにも賛成しかねるところが多々あった。
とても刺激的な思考の流れ、思考の航跡には惹きつけられるのだが、その先の「結論」というか、「行動」については、いつもどこかに違和感があった。
であるにも関わらず、僕は「サカモト」の音楽のことはどんどん好きになっていった。
今、現在でも思うのだが、これは僕としても特殊かつ特別。
「サカモト」の音楽から本当にたくさんのことを教えてもらった。この実感は確かにある。
テクノサウンドの申し子が繰り出すフレーズが、何十年もたって、あとから聞き直してみると、どうにも「日本的」としか聴こえてこないことには、語るべきなにかがあるはずだと思う。
映画音楽では、「坂本龍一」の「日本的」な感性がより際立つ。
「ラストエンペラー」のテーマ曲だって、僕には「中華風」には聴こえない。
「坂本的フレーズ」に「日本的要素」を聴くことができる。
「嵐が丘」のテーマを聴いていると、ヒースの生い茂る荒野の向こうに日本の海が見えてくるように思うことさえある。シーンによっては、音楽が映像を導いていることだってある。
「シェルタリング・スカイ」のテーマもそう。映画を見ながら、あれは砂漠ではなく、海なのではなかろうか?と何度も思ったのは、音楽のゆえ。
そういう意味では、「戦メリ」は氏の音楽のベーシックな塊を確かに最初から聴かせてくれていたのかも知れない。
テクノポップから映画音楽、ボサノバだってやった。ミニマルミュージックからオーケストラに至るまで、表現手段にまるで節操がない。このあたり、どことなく「ピカソ」を思い出させるところもある。縦横無尽にジャンルを渡り歩く。けれど、何を聴いても「サカモト」とわかるある種の独特な響き。その音楽の源泉がピアノにあったことは氏のピアノ曲が最初から証明している。
それなのに、社会活動家「坂本龍一」の言葉は、婉曲にではあるが、音楽で教えてくれたはずのことを否定する。
本当にトガッていた頃の氏の発言は、にこやかに「左翼的」であったのだけど、そうでありながら、氏の音楽はどこまでも「日本的」に聴こえるという不思議。
ピグミーの歌声を、沖縄の音楽を、アフリカの民族音楽のビートを自身の音楽に実装しながら、鼓童の太鼓には難色を示すなどは、ただ音楽の趣味を言うには思想的に過ぎた印象は否めない。その一方で、ドビュッシーやラヴェルを愛した氏。
博識の氏が、その二人共が実は強烈な愛国者であったことを知らぬはずはないのに。
いつだって抱えきれないほどの矛盾を溢れさせていた人。そういう印象はあの原発事故以降にますます強まっていったように見えた。
昔から、左翼と言うよりも、どこかアナーキストな響きさえあったように思うのだが、若かりし頃の僕としては、たじろぎつつ、「サカモト」の音楽と言葉の間に大きな矛盾を感じることがしばしばだった。
しかしながら、音楽は本人の政治的、思想的な信条を裏切る。
というか、そもそも、氏の音楽はそういうところから離れたところで鳴っている。
あるいは、それが「サカモト」の音楽を僕がずっと好きでいられる理由なのかもしれない。
「サカモト」にあっては、常に音楽が上位に位置する。望む望まないに関わらず。
ここ最近、氏の発言は、昔には考えられないほど、不思議なくらい素直に愛国的であったように思う。かと言って、いわゆる右左のステレオタイプで言うところの右に転向したというわけでもない。
とってもナチュラルな祖国愛。
もっと早くに言ってほしかった。
これから先の氏の言葉を聞きたかった。
定義し難い特別な存在が老いを生きて、その上で発する素直な言葉を聞きたかった。そして、音楽。
アルバム「12」の切実な音を聴いていると、どうしてもこの先があるように聴こえてしまう。
この先の音楽こそ、鳴らすべき「サカモト」だったんじゃないか?これを思わずにいられない。
ご冥福を心よりお祈りします。