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東京の富岡八幡宮は 横浜の富岡八幡宮 のご分霊でした。

2018年10月15日 | 奈良と、神社と、好きなものごと
横浜に富岡八幡宮という神社があります。

横浜高校の校歌
朝日たださす〜、富岡のおか〜🎶
という歌詞で始まりますが
その富岡の阜というのは
富岡八幡宮がある山のことを言ってると思います。

ちなみに
私は横浜高校卒ではありませんが
高校野球の試合を見てるうちに
横浜高校の校歌を覚えてしまいました。
二番まで歌えます(笑)


話は戻りますが、この前、近くを通った時に
深川にある富岡八幡と同じ名前よね
と、ふと思いました。

同系列というか、同じ神社だよねーと思い
ホームページを見てみたら
横浜 富岡八幡宮

当宮はおよそ八百年前
建久二年(1191)に源頼朝公が
当郷鎮護の為摂津の西宮の恵比寿様を
お祀りしたのが始めで、
のち安貞元年(1227)には八幡大神を
併せ祀り、社名も八幡宮と改めました。


とありました。
横浜の方が、頼朝の時代に創建なら
多分、江戸期に造営されただろう
深川の神社の方が後ですね。

しかも、もともとのご祭神だった恵比寿様に
まつわる神社名ではなく
後から合わせ祀った神様の方の名前が
神社名になってるんですね〜
八幡様、強し!です。

八幡様、どこの八幡様でも
九州の宇佐八幡様から分霊されてるものが
ほとんどだと思います。
そして八幡様は一柱の神様ではなく
応神天皇、神功皇后、比売神の
三柱の神様で祀られています。
八幡というのはユニット名みたいな感じですね。

八幡様を合わせてお祀りしたことについては
県の神社庁の富岡八幡宮の項目に
縁起伝承がありました。


安貞元年 (一二二七年) の祭礼当日、
一人の僧が村の民家を訪れ白髪の翁に食を乞うた。
翁は「祭礼当日なので麦酒が御座居ます。」
と差上げたところ、僧は茅の一葉をとり、
うまそうに啜り飲み、「実はわしは八幡なり、
今日よりわしを祀れば、より悪魔を退け
加護すべし。」と云って消えてしまった。
この時より八幡様を併せ祀り、
社名も八幡宮に改められたとある。


だそうです。
八幡様、恵比寿様のご祭礼の日にやってきて
振舞いを頂戴した上、自分を祀れば
除災悪霊調伏してやるぞ!とは
ものすごい自信満々の売り込みですねー!
この売り込みがドンピシャうまく行って
社名も自分の名前になりましたしね。

富岡八幡宮という社名についても
縁起にあります。

この安貞元年は、鎌倉幕府が開かれて、
幕府鎮護の為に鶴岡に八幡宮を御遷座してより
三十五年目にあたり、又当宮の社家佐野家の
初代佐野左ヱ門が鎌倉より着任したと
伝えられる年に当たることから、鎌倉の鬼門の
方の鎮護として、源氏の氏神八幡宮を
併せ祀ったものと思われる。


と、記しています。

恵比寿神社とならなかったのは
鎌倉幕府の将軍家源氏の氏神
武士の神様とされる八幡様と、恵比寿様と
それそれを奉ずる氏族勢力に差があったでしょうね。
それに鎌倉の鬼門を守護するというのは
悪霊、御霊、祟りや物の怪を恐れていた
当時としては最重要といってもいいことだったと思います。

また、この富岡八幡宮は波除八幡とも
呼ばれているそうですがその由来についても
記してあり、その波除八幡の伝承が
江戸に富岡八幡宮を勧進することに
繋がったと分析しています。


応長年間の大津波で、隣村長浜千軒が全滅
してしまった時、富岡は八幡宮の山に護られて
無事であった事から、御神威のあらたかさをら称えて『波除八幡』とも呼ばれる様になり、
海神としての蛭子尊 (エビス様) の信仰とも
相まって、海運関係の商人や漁師等を通じて広く江戸にまで信仰を集めた。

寛永の頃徳川家光は深川の埋立事業を行ったが
工事は非常に難航し、当宮に波除の祈願をし、
のち無事に工事が完遂したので、氏神として
富岡八幡宮を勧請したのが深川八幡の初めと
伝えられている。

時の富岡の地頭豊嶋明重は家康より三代に仕え
家光の重臣であった事からも、深川埋立事業と
富岡八幡宮御分霊とのいきさつが伺える。
以後『正八幡宮』と称され、広く江戸からも
参拝者が訪れ、日本橋からの『正八幡』の額を
始め、深川仲町、芝など江戸の旧海岸線からの
奉納品が多く遺されている。


西宮の恵比寿様をお祀りしていた神社で
八幡様を合わせ祀って八幡宮という社名になり
津波から土地を守った実績?から波除のご利益
が広く知られて、埋め立て工事氏が難航して
いた江戸の深川に富岡八幡宮が分霊された
という流れです。

ふむふむ。

でも、頼朝さんはどうしてここに
西宮の恵比寿様をお招きして祀ろうと
思ったんでしょうね??

頼朝さんは、京を避けてたイメージですが
西宮の恵比寿様はお参りしたことがあるのかなぁ?


恵比寿様という神様はふた通りあります。
イザナギ、イザナミの間に生まれたヒルコを
恵比寿様とするものと
大国主の子の事代主を恵比寿様とするものと。

摂津の恵比寿様というのは
今の西宮神社のことだと思うので
頼朝さんが勧進したのは、事代主系ではなく
ヒルコ系の恵比寿様でした。

古事記ではヒルコは、不具で生まれてきたので
葦の船に乗せられて流されてしまう
という神様です。

頼朝さん、神様をお祀りするというなら
初めから自分の氏神の八幡様をお招きして
お祀りしても良かったんではないかと、思います。
でも、八幡様ではなく
ヒルコ系の恵比寿様をお招きしたのは
感傷的に言えば、頼朝さんも親から離され
伊豆に流されて暮らしていたので
ヒルコと似た生い立ちと境遇とも言えなくないので
ヒルコの恵比寿様に思い入れがあったのかなぁ?とか思いますが…どうなんでしょうね。


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