NHKの夜ドラ、
腐女子、うっかりゲイにコクる
をみていました。
タイトルのコミカルさから、楽しいコメディかと
思いきや、ドラマを見てみると
なかなかヘビーに感じるドラマで
いろいろ考えたりしました。
性的マイノリティーと言われる人と
日本では、それとわかって
当人と話したことはありませんが
スペインに留学した時、語学学校で
LGBTのカップルと知り合ったことがあります。
カップルの1人が私と同じクラスでした。
私と彼は入門クラスでしたが、彼の彼氏は
新聞などの購読クラスにいました。
彼氏の方が先に授業が終わって、彼氏は
いつも学校前のBarで待っていました。
Bar、バルは、日本のバーとは違って、
居酒屋と定食屋の中間のような
お酒も、食事も、カフェもありのお店です。
私はアルコールは飲めないので
Barで、カフェコンレチェ→ミルクコーヒーを
飲んでいましたが、だいたいの人は、
ワインかビールを飲んでいましたね。
まぁそれはともかく
クラスメートの彼はかなり整った顔立ちで
背も高く、かっこいい〜というタイプ。
彼氏の方は一見、ワイルドな感じで
クラスメートの彼がいなければ、私自身は
何か理由が無い限り、話しかけようとも、
近づいてみようともしないだろう雰囲気の人。
でも、 話してみると、ユーモアのある面白い人でした。
私は初め2人が同国人で、仲のいい友達なんだねー
くらいに思っていました。
会った時に毎回、必ずチュー!!してましたが
それも、ヨーロッパの人は、異性同性関係なく
会った時、別れる時に軽く抱擁したり
キスしたりしていたし、仲良しなので
そんななのかと思っていました。
でも、2人がいつもとてもくっつき過ぎなのと
手を繋いでいたり、
挨拶じゃない時もチューしてたり、
なんか変だと思わないでもないでしたが…
ぜーんぜん、気がつきませんでした。
初めての海外で
いろいろなことを見聞きし、対処し
自分でもわからなかったけど
いっぱいいっぱいだったのかなと思います。
知らないことも、経験ないこともたくさんあって
そうなんだ〜ということばかりで。
その知らないことを、へぇそうなんだぁと
受け入れて行くことで精いっぱいだったのかなと思います。
それに、まず同性同士のカップル
ということが全く頭に浮かばなかったし
スペインに来てから
時々、男同士で手を繋いでいる人を見かけて
いたのと、スペインでは日本よりずっと
他人同士のスキンシップが多かったから
そんなものかと思っていて、
ぜーんぜん気がつかなかったんですね。
今思えば、無知なのと鈍いのとダブルで
私って恥ずかしいやつだったと思います。
でも、スペインに居たからというのもあると
思いますが、そうだったのかとわかった後も
特に不思議にも、変にも感じなくて
なんだそうだったのか!と思っただけで、
そうだな、確かに〜
なんで今までわからなかったのだろうと
自分でも不思議に思うくらい、
普通に仲の良い、いい感じの2人でした。
私が知り合った同性同士のカップルは
その1組だけですが…。
今、日本で同じような同性のカップルや
彼氏はいるような彼と知り合ったとして
同じような感想を持つだろうか?と考えました。
が、多分、それは、その人達が同性同士だから
ということより、人としてそれぞれの印象が自分にとってどうか?ということで違うだろうと思いました。
では、自分の親しい人や身近な人が
実は…とカミングアウトしてきたら?
とも考えました。
それも、やっぱり、普段のその人との関係によるので、その人の好きな物事がわかったとして
関係に変化が起きるか?というと
あまり変わらないような気もしますが…。
例えが、合わないかもしれませんが
私は虫が苦手ですが、例えば、その人が
今まで私と一緒に
虫ってやだよね、なんかコワイ!と
言ってたのに、
実は虫が大好きだったとわかったら?
なんで私に合わせてたの?とかは思うと思いますが、
虫が好きなその人を、イヤだとか嫌いとかは
思わないと思います。
でも、まぁ思考の中のことと、実際の時とは
やはり違うかもしれないですが。
ドラマの中で、うーんそうだよね、と思ったのは
純君も三浦さんも、自分が考える
“普通”とは、自分が決定的に違うことを悩み、
それを他人に知られることを、怖れていたことです。
そういう悩みや怖れの感情は、少し理解できます。
10代の頃くらいから、多かれ少なかれ誰でも
どうもなんか、“普通”とは
ちょっと自分がズレているんじゃないか?と
思い悩んだりすることがあるだろうと思います。
私はその答えを、哲学や心理学に求めてみたのですが、、、
自分にとってのその答えみたいなものを見つけたのは、
かなり時間が経って、卒論の時に読んだソシュールの思想でした。
言葉の意味がどう成り立って、人に認識されるか
ということがわかった時、人が不安定だったり
いつも揺れている存在であることの不思議が
わかったような気がしました。
でも、ソシュールを知る以前にも
こんなことかなと考えて
それなりに納得していたことはありました。
“普通”は人それぞれ違うけれど、
集合の要素の共通部分のようなものを人は
イメージしてそれを“普通”と思っているんじゃないかと。
どんな人も、あの人なんか変わってる、と
感じる部分があるのは、そのためかと思いました。
人には、それぞれの要素があって、共通部分と、それ以外の要素で成り立っていて、
変わっていると感じたり、見られたりするのは
それぞれのイメージする共通部分や、
共通部分と感じることの大小によるんじゃないかと思っています。
純君は、自分の集合の要素には人と重なっているところもたくさんあるのに、重なっていない
部分の方を大きく感じて、とても辛くなっているように見えました。
でも、三浦さんも、純くんも自分の集合の要素の
共通部分と違う部分に気がついて、どちらも
自分の要素だと受け入れて、人と向き合おうとする感じで終わったように思い、良かったなぁと
思いました。
腐女子、うっかりゲイにコクる
をみていました。
タイトルのコミカルさから、楽しいコメディかと
思いきや、ドラマを見てみると
なかなかヘビーに感じるドラマで
いろいろ考えたりしました。
性的マイノリティーと言われる人と
日本では、それとわかって
当人と話したことはありませんが
スペインに留学した時、語学学校で
LGBTのカップルと知り合ったことがあります。
カップルの1人が私と同じクラスでした。
私と彼は入門クラスでしたが、彼の彼氏は
新聞などの購読クラスにいました。
彼氏の方が先に授業が終わって、彼氏は
いつも学校前のBarで待っていました。
Bar、バルは、日本のバーとは違って、
居酒屋と定食屋の中間のような
お酒も、食事も、カフェもありのお店です。
私はアルコールは飲めないので
Barで、カフェコンレチェ→ミルクコーヒーを
飲んでいましたが、だいたいの人は、
ワインかビールを飲んでいましたね。
まぁそれはともかく
クラスメートの彼はかなり整った顔立ちで
背も高く、かっこいい〜というタイプ。
彼氏の方は一見、ワイルドな感じで
クラスメートの彼がいなければ、私自身は
何か理由が無い限り、話しかけようとも、
近づいてみようともしないだろう雰囲気の人。
でも、 話してみると、ユーモアのある面白い人でした。
私は初め2人が同国人で、仲のいい友達なんだねー
くらいに思っていました。
会った時に毎回、必ずチュー!!してましたが
それも、ヨーロッパの人は、異性同性関係なく
会った時、別れる時に軽く抱擁したり
キスしたりしていたし、仲良しなので
そんななのかと思っていました。
でも、2人がいつもとてもくっつき過ぎなのと
手を繋いでいたり、
挨拶じゃない時もチューしてたり、
なんか変だと思わないでもないでしたが…
ぜーんぜん、気がつきませんでした。
初めての海外で
いろいろなことを見聞きし、対処し
自分でもわからなかったけど
いっぱいいっぱいだったのかなと思います。
知らないことも、経験ないこともたくさんあって
そうなんだ〜ということばかりで。
その知らないことを、へぇそうなんだぁと
受け入れて行くことで精いっぱいだったのかなと思います。
それに、まず同性同士のカップル
ということが全く頭に浮かばなかったし
スペインに来てから
時々、男同士で手を繋いでいる人を見かけて
いたのと、スペインでは日本よりずっと
他人同士のスキンシップが多かったから
そんなものかと思っていて、
ぜーんぜん気がつかなかったんですね。
今思えば、無知なのと鈍いのとダブルで
私って恥ずかしいやつだったと思います。
でも、スペインに居たからというのもあると
思いますが、そうだったのかとわかった後も
特に不思議にも、変にも感じなくて
なんだそうだったのか!と思っただけで、
そうだな、確かに〜
なんで今までわからなかったのだろうと
自分でも不思議に思うくらい、
普通に仲の良い、いい感じの2人でした。
私が知り合った同性同士のカップルは
その1組だけですが…。
今、日本で同じような同性のカップルや
彼氏はいるような彼と知り合ったとして
同じような感想を持つだろうか?と考えました。
が、多分、それは、その人達が同性同士だから
ということより、人としてそれぞれの印象が自分にとってどうか?ということで違うだろうと思いました。
では、自分の親しい人や身近な人が
実は…とカミングアウトしてきたら?
とも考えました。
それも、やっぱり、普段のその人との関係によるので、その人の好きな物事がわかったとして
関係に変化が起きるか?というと
あまり変わらないような気もしますが…。
例えが、合わないかもしれませんが
私は虫が苦手ですが、例えば、その人が
今まで私と一緒に
虫ってやだよね、なんかコワイ!と
言ってたのに、
実は虫が大好きだったとわかったら?
なんで私に合わせてたの?とかは思うと思いますが、
虫が好きなその人を、イヤだとか嫌いとかは
思わないと思います。
でも、まぁ思考の中のことと、実際の時とは
やはり違うかもしれないですが。
ドラマの中で、うーんそうだよね、と思ったのは
純君も三浦さんも、自分が考える
“普通”とは、自分が決定的に違うことを悩み、
それを他人に知られることを、怖れていたことです。
そういう悩みや怖れの感情は、少し理解できます。
10代の頃くらいから、多かれ少なかれ誰でも
どうもなんか、“普通”とは
ちょっと自分がズレているんじゃないか?と
思い悩んだりすることがあるだろうと思います。
私はその答えを、哲学や心理学に求めてみたのですが、、、
自分にとってのその答えみたいなものを見つけたのは、
かなり時間が経って、卒論の時に読んだソシュールの思想でした。
言葉の意味がどう成り立って、人に認識されるか
ということがわかった時、人が不安定だったり
いつも揺れている存在であることの不思議が
わかったような気がしました。
でも、ソシュールを知る以前にも
こんなことかなと考えて
それなりに納得していたことはありました。
“普通”は人それぞれ違うけれど、
集合の要素の共通部分のようなものを人は
イメージしてそれを“普通”と思っているんじゃないかと。
どんな人も、あの人なんか変わってる、と
感じる部分があるのは、そのためかと思いました。
人には、それぞれの要素があって、共通部分と、それ以外の要素で成り立っていて、
変わっていると感じたり、見られたりするのは
それぞれのイメージする共通部分や、
共通部分と感じることの大小によるんじゃないかと思っています。
純君は、自分の集合の要素には人と重なっているところもたくさんあるのに、重なっていない
部分の方を大きく感じて、とても辛くなっているように見えました。
でも、三浦さんも、純くんも自分の集合の要素の
共通部分と違う部分に気がついて、どちらも
自分の要素だと受け入れて、人と向き合おうとする感じで終わったように思い、良かったなぁと
思いました。