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知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

八幡信仰と清和源氏と応神天皇

2018年01月07日 16時56分10秒 | 神社・神道
氏神さまと鎮守さま〜神社の民俗史〜」(新谷尚紀著、講談社選書、2017年発行)第二章より。

 全国にあまた存在する八幡神社・八幡宮。
 この広がりは、源氏の力によるところが大きいようです。
 源氏がその守護神と位置づけてから、武士の時代に“武勇の神”として全国の村々が我先に勧請した勢いを感じられます。
 でも、もともとは九州の巨石信仰であり、渡来神の影響を受けつつ展開し、のちに応神天皇や源氏と結びついていったとは、意外な驚きでした。

□ 八幡信仰と清和源氏
 京都の石清水八幡宮や鎌倉の鶴岡八幡宮は清和源氏の氏神として知られている。八幡神は八幡大菩薩との呼ばれ、神仏習合の典型的な神である。氏神とは言っても清和源氏の一族の先祖の神ではない。

□ 八幡信仰の始まりと広がり
 八幡信仰の根本創始は豊前の宇佐八幡宮である。それが平安時代に京都に勧請されて石清水八幡宮として創建され(859年)、その後、鎌倉の鶴岡八幡宮として源頼朝により勧請された(1180年)。
 それ以前のことを細かく書くと、
①宇佐八幡宮の前身は近くにある大元山(御許山:おもとやま)の馬城峯(まきのみね)の山頂に鼎立している三巨石を対象とする磐座祭祀であった。
②御許山の巨石信仰は土着の豪族宇佐氏が祀っていたと推定されるが、それに渡来系氏族で宇佐に住みついた辛嶋氏が祀っていた神と、大和からやってきた大神(おおが)氏が関与しながら形成されたのが八幡信仰である。
③平城京の宮廷にとって八幡神は鎮護国家の祈祷を行う神社のうちの一つに位置づけられていた。
④(749年)『続日本紀』に、宇佐の八幡大神が天神地祇を率いて大仏造立の成就への協力を誓う旨の託宣を下している。東大寺の建立とともに、その守護神として宇佐八幡神が勧請され手向山八幡宮として祀られた。

□ 石清水八幡宮
 平城京(奈良時代)にとって宇佐八幡宮は鎮護国家的な護国神であったが、清和天皇の平安京では王城鎮護的な護国神となっていったのが石清水八幡宮である。
 鎌倉時代に編纂された書物には、石清水八幡宮を天皇家の先祖を祀った神社と位置づけている。その祭神は、宇佐でも創祀の頃とは異なり、記紀神話が伝える三韓征伐、新羅征討の神功皇后とその皇子の応神天皇へと仮託されてきていた。
 八幡大菩薩と呼ばれる神仏習合の典型でもある八幡神を応神天皇になぞらえるようになったのは、弘仁年間(810〜824年)頃からと考えられる。
 京都の東北方の艮(うしとら)の鬼門を守る比叡山延暦寺に対して、西南方の巽の裏鬼門を守るのが石清水八幡宮であり、まさに平安京を守る王城鎮護の神社として周知されるようになり、決して清和源氏にとってだけの特別な神社ではなかった。
 石清水八幡宮の古文書「田中文書」(1046年)には「八幡大菩薩」は応神天皇でありそれは自分たち清和源氏の二十二代の始祖である」という記述がある(史実<伝承?)。
 『吾妻鏡』(1180年)には源頼義が1062年に八幡三所に丹精祈願を込めた伝承を記しており、1063年には頼義はひそかに石清水八幡宮の御神霊を勧請して、相模国鎌倉の由比郷に鶴岡八幡の瑞籬を建立、その鶴岡八幡宮を源頼朝があらためて小林郷の北山の地に遷座した、と記されている。その後頼朝は、そこで「為崇祖宗」(先祖の頼義・義家父子を輝かしき武門の誉れとして尊崇し、その先祖が記念し祭祀したという八幡神をこれから源氏の守り神として崇拝祭祀していくという姿勢表明)した。
 源義家が“八幡太郎”と呼ばれるのは、父親の頼義が石清水八幡宮に参詣したときの「霊夢之告」によるものである、という伝説がある。

平家と氏神
 文献によると、厳島神社は平家にとっては氏神であり、安芸国にとっては鎮守である、と理解されていた。
 平家一門はまもなく滅亡して氏神を祀るという伝承は消えていったが、源氏は頼朝の時代からのちの時代にまで長く武門の棟梁としての位置を占め、その御家人たちによって鶴岡八幡の系統に連なる八幡神社が各地に勧請されて尊崇の対象となっていった。

八幡三所の神
・第一段階:鎮座の原点の古代の渡来系の神であり、かつ八幡大菩薩として神仏習合の神であり、国家鎮守の威力ある神であった。
・第二段階:10世紀以降、応神天皇を中心にその母神の神功皇后を祀る段階へ展開し、源頼義は八幡三所の応神天皇を清和源氏の先祖と位置づけた。しかし、源氏の八幡信仰はもともとは武闘と武勇の一族の守り神という意味が中心であり、一族の先祖神としての性格はなかった。先祖神というのはいわば後付けである。
 八幡神は古代は国家鎮護の神であり、それが源氏によって武勇の一門の守護神へと読み替えられ、読み込まれていった。

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「氏神」と「産土神」と「鎮守神」

2018年01月07日 16時11分06秒 | 神社・神道
氏神さまと鎮守さま〜神社の民俗史〜」(新谷尚紀著、講談社選書、2017年発行)第二章より。

 氏神、産土神、鎮守神・・・似たようなイメージがありますが、はて、民俗学的にいうと違いがあるのでしょうか。
 どうやら、氏神と産土神は同類ですが、鎮守神は鎮護と似ていて「いくさ(戦)」との関連が強いようです。政権レベルでは「王城鎮守」、対近隣国では「国鎮守」、地域レベルでは「郡鎮守」となります。
 確かに武士の時代、「○○神社で戦勝祈願をして出兵した」という話をよく聞きますね。
 それが歴史の流れの中で、戦に明け暮れる時代から平和な時代になるとともに、村の守り神に変容し区別が曖昧になっていったのでしょう。

 この書籍では、歴史的文献から紐解き、部分的に近畿地方の神社を取り上げて解説しています。

氏神は氏族の本貫地に祀られている在地性の強い氏神であり、そこで先祖を祭るという意識もあった。
 律令官人達にとって氏神が平安京や平城京に近い畿内に多く祀られており、毎年2月・4月・11月に「先祖之常祀」が行われていた。つまり、律令官人達の出身宇治族にとってその本貫地に氏神を祀る神社を設営している例が多かったこと、そしてその祭祀には春秋の2季があり、稲作の祈年祭と収穫祭の性格があったのではないか。

□ 文献上の「氏神」
(733年)『万葉集』に「大伴氏神」として初出。大伴連の遠祖の天忍日命(あめのおしひのみこと)を指しており、祖神という意味と考えられる。

□ 文献上、官人の氏神祭祀を公認する賜暇の記録が散見される
(772年)正倉院文書の請暇解(せいかげ)
(834年)『続日本後紀』に小野氏(小野妹子の出身氏族)が近江国の滋賀郡小野村を本貫地としており、その地に氏神を祀っていて春秋の祭祀には現地に赴いて奉仕していたという記録あり。

□ 藤原氏と氏神
(777年)『続日本紀』に藤原良継が病気になったので、藤原氏の氏神である鹿嶋社と香取神にそれぞれ正三位と正四位上の神階を授けたという記録がある。
 藤原氏の元の氏は中臣連であり、『古事記』『日本書紀』が記すその祖神は天児屋命(あめのこやねのみこと)である。
 つまり、藤原氏の氏神は、氏の祖神ではないということになる。
 奈良の春日社、河内の枚岡社、平安京の大原野神社という藤原氏の祭る神社について整理すると、藤原氏の氏神は、はじめのうちは鹿嶋社・香取社の「鹿嶋坐健御賀豆智命、香取坐伊波比主命」であったのが、のちには枚岡社の「枚岡坐天之子八根命、比売神」を加えていった。
 藤原氏の場合、氏神の意味がはじめ平城京の時代には“守護神”であったものが、のちに平安京の時代には“祖神”をいう意味が加わっていった。

「氏神ー氏子」と「産神(うぶすな、うぶがみ)ー産子」
 1800年頃の古文書によると、安芸国や甲斐国、甲州、肥後国では氏神を産神と考え、氏子を産子と考える傾向があった。

「うぶすな」の意味
 生まれた土地の神を「うぶすな」の神と呼ぶ早い例として確かなものは『今昔物語集』である。
 鎌倉時代の辞書『塵袋』によると、うぶすなとは、それぞれの氏の本拠の地をいうのであったが、それがやがてその本拠の地で祭る神の意味へとなった。

氏神と鎮守
 尋常小学唱歌の「村祭」に「村の鎮守の神さまの今日はめでたいお祭日」という歌詞がある。
 郷村で祭られている神社は、概して近畿地方から中国地方など西日本では氏神と呼ばれるのに対して、北関東地方など東日本では氏神ではなく鎮守と呼ばれることが多い。
 関東地方ではウジガミといえば家ごとに祭る屋敷神の呼称である例が多いのに対して、郷村で祭る神社のことは鎮守と呼ぶ例が多い。

文献上の「鎮守」
(737年)『続日本紀』:軍事的な意味で用いられている。
(939年)『本朝世紀』:神祇に関する意味で初めて用いられた。
(1004年)『本朝分粋』:熱田の祭神を「鎮主」と表現している。
(1083年)「賀茂社桜会縁起」:賀茂社(※)の神が「鎮守」と表現されている。
(1123年)白河法皇が石清水八幡宮に捧げた告文より、白河法皇にとって石清水八幡宮の八幡大菩薩は、国家鎮護の神仏であり国家の鎮守として位置づけられていた。
(1145年)豊後国柚原八幡宮の解文によると八幡宮と八幡大菩薩が鎮守の神であることが院政期には平安京だけでなく地方でも見られるようになった。
(1147年)鳥羽上皇の院宣より、平安京で祇園社、祇園感神院が国家の鎮守に位置づけられるようになっていた。
(1161年)石山寺に伝わる聖人覚西の祭文によると、国鎮守は近江国の建部神社、郡鎮守は高島郡の水尾神社、そしてその下に荘郷鎮守が祭られていると読み取れ、「王城鎮守」「国鎮守」「郡鎮守」などの表現が現れてきた。

賀茂社の伝承
「山城国風土記逸文」によれば、賀茂社はもともと賀茂建角身命(かものたけつのみのみこと)が丹波国の伊賀古夜比売(いかこやひめ)との間にもうけたのが玉依比古と玉依比売であり、その玉依比売が石川の瀬見の小川で川遊びをしているときに流れてきた丹塗矢を拾って身ごもり誕生したのが賀茂別雷命(かものわけいかずちのみこと)で、それらの神々を祭神とする神社である。そして玉依比古は賀茂県主らの遠祖であるとされる。
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神社祭祀・祭祀形式の変遷

2018年01月07日 15時32分07秒 | 神社・神道
氏神さまと鎮守さま〜神社の民俗史〜」(新谷尚紀著、講談社選書、2017年発行)第一章より。

 古代日本の神社祭祀が始まった頃の形態を扱った項目です。
 自然物(巨岩・巨石)そのものを神として祀ったものが最古とされ、神域の設定、臨時の祭祀場設置から常設建築へと長い時間をかけて変遷してきました。

日本の神祇祭祀の基本
・文献資料からは「祠」「社」「宮」などの建造物
・考古資料からは「磐座(※1)祭祀」「禁足地(※2)祭祀」
ーが古態であった。

※1) 磐座(いわくら):社殿が建てられる以前の古代の神社は「巨石(=磐座)などの自然物を祀る祭祀施設」であった。
※2)禁足地:足を踏み入れることを禁じた神域


祭祀方式の変遷
1.磐座祭祀
2.禁足地祭祀
3.祭地への神籬(※3)設置
4.祭地への臨時的な社殿設置
5.常設の宮殿設営

※3)神籬(ひもろぎ):神道において神社や神棚以外の場所において祭祀を行う場合、 臨時に神を迎えるための依り代となるもの。

□ 古文献上の“神社”
(659年)『日本書紀』に「神の宮」という単語(現在の出雲大社を指す)
(684年)『日本書紀』に「寺塔神社」という単語

□ 飛鳥時代の神社祭祀
 天皇と国家の祭祀として、五穀豊穣と風水害を避ける祭祀が整備された。孟夏4月の広瀬大忌神祭と孟秋7月の龍田風神祭が、毎年2回定期的に制度的に行われるようになり、その際、各地の「諸社」(もろもろのやしろ)にも使いを遣わして幣帛をまつるのが慣例とされた。

□ 「祠」「社」「宮」
 これらの言葉は、『日本書紀』や『古事記』において古代の神々を祀るための装置として使われている。そしてそれらは、いずれも建築物を表す語であった。

□ 古い神社の形態〜「磐座祭祀」(いわくらさいし)から「禁足地祭祀」へ
 三輪山祭祀遺跡、宗像沖ノ島遺跡などに認められる。4世紀後半には巨石の磐座、6世紀前半から禁足地祭祀へと転換している。


<参考>
日本における古代祭祀研究と沖ノ島祭祀 (笹生衛)
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「氏神さまと鎮守さま〜神社の民俗史〜」(新谷尚紀著)

2018年01月07日 15時04分12秒 | 神社・神道
氏神さまと鎮守さま〜神社の民俗史〜
新谷尚紀著、講談社選書、2017年発行



<内容紹介>
日ごろ意識することは少なくとも、初詣や秋祭り、七五三のお宮参りと、私たちの日常に神社は寄りそっている。我々にとって、神とは、そして日本とはなにか? 民俗調査の成果をふまえ、ごくふつうの村や町の一画に祭られる「氏神」や「鎮守」をキーワードに、つねに人びとの生活とともにあった土地や氏と不可分の神々や祭礼を精緻に探究。日本人の神観念や信心のかたちとしての神や神社の姿と変容のさまを、いきいきと描き出す。


 私の興味を持つ「民俗」と「神社」・・・ど真ん中のストライク本です。 
 それもパワースポットとなる有名神社ではなく、村の鎮守さまレベルのお社が人々の生活の中でどう位置づけられてきたのか、を扱った内容です。
 まさに「知らない世界に帰りたい」。

 記述はわかりやすい啓蒙本ではなく、資料を根拠にした論文と言っても差し支えない高いレベルで、よほど興味がなければ読破は困難と思われます。
 漢字の羅列の古文書や昔の人物の名前がイヤと言うほど出てきます。まるで「イヤなら読むのをやめてもいいんだよ」と試されているかのよう。

 縄文時代、弥生時代の定義が学会レベルで揺らいでいる事実から始まり、神社祭祀の方法の変遷、氏神・産土神・鎮守神の違いを文献から紐解いて説明し、ある神社を取りあげてその歴史的変遷をたどる作業など、目が離せない内容が続きました。

 読了してみて、日本の神社ってひとことでは説明できない複雑な歴史的経緯をたどってきていることがわかりました。
 自然崇拝・民間信仰をベースに、修験道、外来宗教(仏教・道教)などの影響を受け、さらに時代的に荘園制度や不安定な社会情勢(→ 熊野神社)、武士社会(→ 八幡宮)でその管理者と神様の勧請が変遷し、最終的に現行の氏子制度に落ち着いたのは江戸時代のようです。
 これらの多様な神社が、一部は変化し、一部は残り、それらが混在して現在に至っています。
 著者はこの現象を「神社の上書き保存」というパソコン用語を用いて説明しています。上手いこといいますね〜。

 神さまの種類や性質は変わっても、その底流に流れているコアなものは、その地域・が結束するための装置・システムではないか、と感じました。
 現在でも、境内に公民館や自治会館が設置されている地方の神社は珍しくありませんし、そのように地域では神社がきちんと生き残っていますね。

“まえがき”から
 日本で稲作が普及したのは紀元前後。
 それまでの狩猟採集と異なり、稲作には継続的な集団労働と統率力・結束力が必要なため強力なリーダーが必要になります。つまり権力者の出現です。
 7世紀の飛鳥時代の中央集権を担った天武・持統天皇は仏教が浸透したことが有名である一方で、神社祭祀が国家的な規模で整備された時代でもありました。
 その神祭りの中心が稲の祭りであり、稲と米は権力と祭祀に密着したもの、政治の結晶として結実し、1000年以上経った現在でも引き継がれています。
 祭祀の上では天皇の毎年の新嘗祭(にいなめさい)や天皇即位に際しての大嘗祭(だいじょうさい)。
 政治の上でも、古代の律令制下の田租、古代中世の荘園公領制下の年貢、近世の幕藩制下でも稲と米の生産高を基準とする所領支配と徴税システムとしての石高制が整備され、そのもとで年貢米が重要な意味を持ちました。


“おわりに”から
 文献記録と民俗伝承から明らかとなったのは以下の7点;

1.氏神とは、
①氏族の祖神
②氏族の守護神
③氏族が本貫地で祀る神
という3つの例があり、③は産土の神に共通する。

2.鎮守の神とは、文字通り反乱を鎮圧する守護神という意味で、旧来の神社に対して、あらためて王城鎮守・国鎮守・荘郷鎮守という位置づけがなされる例がみられたり、新たに勧請された神社の例もあった。

3.荘園領主が祀る荘園鎮守社が、中世には在地武士の氏神となり、近世には村落住民の氏神となるという展開例が近畿地方の農村では多くみられた。

4.その近畿地方の農村での氏神の祭祀においては、中世武士や近世村民が順番に一年神主(当屋)を務める宮座が形成される例、つまり、宮座祭祀という方式が形成される例が多くみられた。

5.中国地方など、荘園鎮守社が設営されなかった地方では、戦国武将が領内の農民と呼応して、武運長久と五穀豊穣と庄民快楽という双方向的な現世利益を願う形の氏神の神社が創建されたり再建されていき、それが近世社会では村民が氏子として祀る氏神へとなっていった。

6.その中国地方の例では、宮座祭祀という形ではなく、戦国武将の家臣の内から有力な神職家が出てその氏神の妻子に当たり、その神職家が筋性から近現代まで継承されている例が多い。

7.その戦国武将が覇権を握った領地にさかんに再建をしていった氏神の場合も、もともとはそれ以前に領主や村民が祀っていた神々が存在しており、その神格は素朴な山や田や水などの神々から、外来の黄幡神や大歳神など霊験豊かな神々へ、さらには中世武将が勧請した熊野新宮や八幡宮へといういわば祭神の上書き保存が繰り返されている例が、一つの展開例として注目された。

■ 神を祀る方法は「祓え清め」
 神々を祀る方法の基本は「祓え清め」である。
 人々がその祓え清めを行った上で祈り願ったことは、平和(天下泰平)・豊作(五穀豊穣)・生命(子孫繁盛)という3つの基本的な願いである。

日本の神々
 日本の神々とは、自然の恩恵と脅威が心象化されたものであり、稲作の王権を生み出したその沿革を語る記紀神話が神々の中心である。
(天照大神)高天原と太陽の象徴
(月読命)つくよみのみこと。夜の世界と月の象徴
(素戔嗚尊/須佐之男命)大海原と雨水の象徴
ーである。
 しかし、現在の日本各地の神社や神祇の信仰の実態は非常に複雑であり、古代の神話が語るそのままではない。歴史的な日本の信仰伝承の展開の要点は以下の通り;

①古代日本の神々への神話的なレベルでの神祇信仰とその伝承
②中国から伝来した陰陽五行の思想や道教の信仰や呪法などの受容とその消化と醸成
③古代インドで生まれ中国に伝えられてそこで醸成され、6世紀半ば以降に韓半島を経て日本に伝わり、またその後も7〜9世紀までの遣唐使に随行した僧侶たちによって伝えられた仏教信仰

ーという三社の併存混淆状態であった。

 中世世界では、この三本交じりの本流が複雑怪奇に展開する。
・神祇信仰も古代の素朴なままではなかったし、陰陽五行信仰も卜占や防疫や呪術の信仰として中世的な進化を遂げていった。
・山岳信仰と神仏習合を核とする山岳修験の活発化もめざましく、仏教信仰も密教化の勢いを加速させながらその顕密体制の根底は維持しつつ、一方で新たな宋学禅宗の伝来や新仏教諸派の旺盛な活動によって動揺し活性化していった。
・律令制の動揺から荘園制の形式へという古代国家の根幹の転換が、神仏信仰の世界にも響き合い、さらに武家政権の誕生と大陸貿易の活性化は、新たに中世的な神仏信仰や霊異霊妙な信仰を生み出していった。そして、
④さまざまな霊妙怪奇な神仏信仰(牛頭天王、毘沙門天、大黒天、帝釈天、吉祥天、弁財天、茶吉尼点:だきにてん、宇賀神、第六天魔王など)の創生と流通が起こり、とくに室町期以降に流行した七福神などさまざまな庶民信仰の流布
ーであった。 
 中世社会はそうした多様な呪的で霊妙な神仏信仰の混淆や展開がみられた時代であり、それら4本の信仰潮流が混合混淆しながら近世社会へと一般化していき、また近代現代へと伝えられてきて今日の日本の信仰世界を作り出してきている。
 しかしそのような複雑で混淆的な信仰伝承ではあっても、神祇信仰、陰陽五行信仰、仏教信仰、中世的な呪的霊異神仏信仰、という基本的な四者は、決して混合融合してしまって元の形や仲美をなくしてしまっているわけではない。
 長い歴史の流れの中で、時代ごとに流行した様々な霊験や現世利益を求める信仰や呪法が取り入れられていながらも、その一方では、自然界の森や山や岩や川やそれらを包む森林に清新な神々の存在を感じ、それを信じて敬い拝んできたという基本だけは守り伝えられているのが日本の神社である。
 神社とは祓え清めの場であり、精神性を基本とする、大自然の神の祭りの場なのである。
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