知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

記紀神話に登場する神々

2018年04月15日 21時31分11秒 | 神社・神道
 古事記と日本書紀を合わせて“記紀”と表現します。
 そこに記されている神話を“記紀神話”と呼びます。
 記紀神話にはいろいろな神々が登場します。
 そしてそれらは日本各地の神社にまつられている神の名前としても馴染みがありますね。

 でも私は以前から不思議に思ってきました。

 「村の鎮守様」になぜ全国規模・全国共通の神様がまつられているのか?
 村の鎮守には村の神様(産土神・氏神)でいいのではないか?

 神社の歴史をひもとくと、やはりもともとの神社は産土神(その土地の神)・氏神(その氏族の神)をまつっていたようです。
 しかし歴史の流れの中で、ありがたい有名な神様を“勧請”という形で取り込んでいきます。
 遠くの本社に参拝できないので、神様に来てもらって地元でも拝める便利なシステムです。
 すると、もともとの神様は摂社や末社に追いやられ、または消滅してしまいました。
 それを国家レベルで行ったのが明治政府であり、国家神道という政策のもと、記紀神話の神をまつることを強制した歴史もあます。

 記紀は、著者・編纂者が目的を持って著した書物です。
 この場合、編纂者とは天皇家です。
 この場合、目的とは天皇家の正当性を国民に信じ込ませること。

 つまり、記紀神話は天皇家が自分の家系を正当化させるために著した書物なのです。
 この認識を忘れずに、読み解く必要があると感じています。

 私は記紀神話に登場する神々の名をなかなか覚えられません。
 当てられた漢字もふつうのパソコンの辞書では変換してくれませんし。
 一度整理しておきたいな、と思っていたタイミングで、下記の本に出会いました。
 逸話中心に書かれているので、他の本より頭に入りやすいかな。
 でもしばらくすると、やはり細かいところは忘れてしまいます・・・。


よくわかる祝詞読本」(瓜生 中:著)角川ソフィア文庫、第四章「神話に登場する神々」より

<備忘録>

造化三伸:日本の国土のエレメントを作った国常立(くにのとこたち)の神などの三柱の神

イザナギ、イザナミ:国常立の神から七代目に当たる二神。

アマテラスオオミカミ、ツクヨミノミコト、スサノオノミコト:出産で命を落としたイザナミを追って黄泉の国へイザナギは向かったが、そこで出会ったイザナミは腐乱しておぞましい姿であった。これを目にしたイザナギはほうほうの体で黄泉の国から脱出した。地上に逃げ帰ったイザナギはアハギ原という所で、黄泉の国の汚れを落とすために川で身を清めた(禊祓えの起源)。このときに左目を洗って生まれたのが天照大神、右目を洗って生まれたのが弟のツクヨミノミコト、花をすすいで生まれたのが末弟のスサノオノミコト。
 イザナギはこの三柱の神を三貴子と名付け、アマテラスには高天原(天界)を、ツクヨミには夜の世界を、スサノオには大海原を治めるように命じた。アマテラスとツクヨミは復命して早々に任地に赴いたが、スサノオだけはこれに反発して絶対に行きたくないと駄々をこねた。長期にわたって駄々をこねて号泣し続けるスサノオに愛想を尽かしたイザナギは、スサノオを勘当して、自分は滋賀県の多賀大社に引退してしまう。
 父親に勘当されて途方に暮れたスサノオは、何はともあれ姉のアマテラスに暇乞いをしようと思い、高天原に昇っていった。それを見たアマテラスはスサノオが高天原を乗っ取りに来たのだと疑った。到着したスサノオは暇乞いしに来たことを説明したが、アマテラスの疑いを払拭することができない。
 二神は“誓約”(うけい)という呪術的な儀礼で正邪の判定をすることにした。スサノオに女神が生まれれば身の潔白が証明されることにし、首尾よくスサノオが如神を生んで身の潔白が証明された。
 身の潔白が証明されたスサノオはうれしさのあまり慢心してとんでもない乱暴狼藉を働いた。アマテラスははじめは弟をかばったものの、死者も出てかばいきれなくなり、岩屋の奥に隠れて岩戸を閉めてしまった。

□ 宗像三女神:アマテラスとスサノオが誓約をした際にスサノオから生まれた女神達。

□ アメノウヅメノミコト、アメノタヂカラオノカミ、フトタマノミコト
 岩屋に籠もってしまったアマテラスを引き出すために、高天原の神々は知恵を絞った。岩屋の前に大きな鏡(伊勢神宮の御神体である八咫鏡)を設え、その横に大きな榊に勾玉(まがたま)や大麻を取り付けたものを立てた。そしてアメノウヅメが逆さにした桶の上に立ち、岩屋の前の止まり木(鳥居の起源?)に止まっていた常世の長鳴鳥(鶏)のけたたましい鳴き声を合図に踊り始めた。
 これを見ていた神々は歓声を上げ、外の喧騒に不審を抱いたアマテラスは岩戸を少し押し開くと一気に光が広がった。アマテラスがアメノウヅメに何事かと問うと、「高貴な神がいでましになられたので、みな歓喜に酔いしれているのです」と答えた。八咫鏡に映った自分の姿を高貴な神と勘違いしたアマテラスは茫然自失となり、その瞬間を捉えてアメノタヂカラオという怪力の神が力任せに岩戸をもぎ取り、アマテラスを無理矢理外に連れ出した。
 そしてフトタマノミコトという神が、アマテラスが二度と入らないように岩戸の前に注連縄を張り巡らせた(注連縄の起源)。
 そしてアメノタヂカラオが岩屋の傍らにあった岩戸を力任せに遠くに投げた。岩戸ははるばる長野の戸隠まで飛んで落下した。これが戸隠神社の起源で、“戸を隠した”ことに由来し、アメノタヂカラオを主祭神としてまつっている。
 岩戸の前で乱舞したアメノウヅメは芸能の祖神として各地の神社にまつられ、今も歌手やタレントなどの芸能人に厚く信仰されている。

素戔嗚尊(すさのおのみこと)と櫛稲田姫(くしいなだひめ)と大国主神(おおくにぬしのかみ)
 高天原を追放されたスサノオは、出雲の斐伊川に天下った。一軒の家にたどり着くと老夫婦(足名椎:アシナヅチ、手名椎:てなづち)と少女(櫛稲田姫:クシイナダヒメ)が泣いている姿に出会う。老夫婦は山の神の総元締めの大山祇神(おおやまづみのかみ)の子だという。
 老夫婦には8人の娘がいたが、八岐大蛇(やまたのおろち)に7人の娘を食べられてしまい、今年は最後の娘が食べられてしまうと聞いて、クシイナダヒメに一目惚れしたスサノオは八岐大蛇退治を申し出る。
 八塩折の酒(やしおりのさけ:8回醸した上等な酒)で酔わせた八岐大蛇の首を切り退治したが、その際に八岐大蛇の胴体から一降りの剣が出てきた(天叢雲剣:あまのむらくものつるぎ、後に“草薙の剣”と呼ばれる)。この剣は後にスサノオがアマテラスに献上して三種の神器の一つとなり、今も名古屋の熱田神宮の御神体としてまつられている。
 八岐大蛇を退治したスサノオはクシイナダと結婚して宮殿を建てた(八重垣神社)。2人は子どもを作って出雲の地の開拓に励み繁栄に導き、国神(くにつかみ)の元祖となり、スサノオから6代目の孫が大国主神である。
 オオクニヌシは大己貴神(おおなむちのかみ)、大物主神(おおものぬしのかみ)、葦原醜男(あしはらしこお)などなど様々な別名があることで知られる。ナムチは蛇のこと(大ナムチは大蛇)。オオモノヌシはオオクニヌシが国造りに励むと同時に温泉や鉱山を開発し、薬や酒を作ったとされることから、物造りの神という意味で着けられた名である。葦原醜男(※)は豊葦原中国を統括する色男というほどの意味だ。
※ 「醜男」は「醜い男」という意味の他に「強くたくましい男」という意味もある。
 奈良の大神(おおみわ)神社は酒造の神として知られ、杉玉は大神神社がルーツである。この神社には酒造の祖としてオオモノヌシ(=オオクニヌシ)がまつられている。

□ アマテラスが高天原だけでなく下界を統治しようと思った理由
 天神は天皇家の祖神国神はその他の豪族の祖神である。この話は大化の改新を経て中央集権を強めた天皇家が、他の豪族を席巻して全国支配をする過程を示したもの。
 
□ 「豊葦原瑞穂国」(とよあしはらみずほのくに);
 日本の古代の美称は「豊葦原瑞穂国」という。
 かつて日本の海岸線や河岸、沼沢の畔には葦が美しく生い茂っていた。古代の人々は1日に15cmも伸びるという葦の生命力に神秘性を感じてこれを大切にしてきた。そして、青々と生い茂る姿を稲田に譬え、稲がすくすくと成長して稲穂がたわわに実る光景を想像した。「瑞穂」とは瑞々しく育った稲穂という意味である。

大国主神の国譲りと建御雷神(たけみかづちのかみ)、事代主神(ことしろぬしのかみ)、建御名方神(たけみなかたのかみ)、天穂日神(あめのほひのかみ)
 下界の支配を目指したアマテラスは、御子神(みこがみ)を遣わせてオオクニヌシと国譲りの交渉をさせることにした。しかし最初に遣わした神はオオクニヌシの人柄に絆されて地上に居着いて一向に帰ってこない。次に遣わした御子神は、こともあろうにオオクニヌシの娘と結婚し、地上に遣わされた目的も忘れて、幸せな生活を営んでいる。
 業を煮やしたアマテラスは雷の神として知られている建御雷神(たけみかづちのかみ)を遣わせた。この神は藤原氏の遠祖で、もともと茨城県の鹿島神宮に鎮座していた。それが藤原氏が大きな権勢を握って藤原不比等が主導して平城京遷都を敢行すると、それに伴って奈良に遷座された。これが春日大社の起源で、タケミカヅチは春日大社の主祭神として今もまつられている。
 復命したタケミカヅチは出雲の稲佐の浜に降り立ち、剣を立てて切っ先の上に胡座(あぐら)をかいて座り、すさまじい形相でオオクニヌシに国譲りを迫った。オオクニヌシは二人の息子の意見を聞くことにした。
 最初に呼ばれたのが事代主神(ことしろぬしのかみ)である。釣りが好きなコトシロヌシは美保関(みほのせき)の磯で釣りに興じていたところから駆けつけたが、タケミカヅチのすさまじい形相に恐れをなして逃げてしまった。青柴垣(あおふしがき)という垣根を作ってその中に入り、美保関の海中深く沈んで、そこから未来永劫に渡って出てこないことを誓った。以来、コトシロヌシは美保関にある美保神社の祭神として鎮座している。
 次に呼ばれたのが次男の建御名方神(たけみなかたのかみ)で、タケミカヅチに勝負を挑んだがひと太刀交わした途端にタケミカヅチのパワーに気圧されて一目散に逃げ出した。それをタケミカヅチは猛然と追いかけ、信濃の諏訪湖まで追い詰めた。殺されそうになったタケミカヅチはこの力未来永劫に渡って出ないので命だけは助けてくださいと命乞いをした。以来、タケミカヅチは諏訪大社の御祭神として今も崇敬を受けている。
 オオクニヌシは国譲りに同意することにした。このとき、アマテラスに天子(天皇)の宮殿に勝るとも劣らない神殿を建ててくれるよう望み、アマテラスは快諾して出雲の地に壮麗な神殿を建設した。これが出雲大社である。
 このときアマテラスは出雲の地に引退するオオクニヌシに対して、自分の御子神を食事の世話や雑用を担う世話係として遣わした。この神は天穂日神(あめのほひのかみ)といい、アマテラスがスサノオと誓約を行ったときに生まれた五柱の神のうちの次男にあたる。そして、この神の子孫が代々、出雲大社の大宮司職を務める千家家である。

事代主神(ことしろぬしのかみ)と恵比寿神
 江戸時代頃から事代主神を恵比寿神とする信仰が広まった。これは出雲大社のオオクニヌシが大黒天と同一視されたことによるもので、出雲のエビス、ダイコクとして、出雲大社に参拝した際には必ず美保神社に参拝しないと「片参り」といって御利益が半減すると言われた。
 鯛を釣る姿のエビスは、美保神社のコトシロヌシが釣りが好きだったことに由来する。

少彦名神(すくなびこなのかみ)
 「出雲国風土記」にはオオクニヌシの国造りの神話が記載されている。朝鮮半島の岬に縄をかけ、陸地を引いてきた際、ガガイモの実で造った小さな船に乗って小さな神が近づいてきた。それがスクナビコナで「私にも国造りをお手伝いさせてください」と叫んでいた。
 オオクニヌシはこんな小さな体で手伝いができるものかと思ったが、意外や意外、スクナビコナは大活躍をした。国造りが終わってスクナビコナがたわわに実った粟の穂によじ登って一休みしていたとき、実ってはじけた粟の実に飛ばされて常世の国へ行ってしまった。
 スクナビコナは茨城県の大洗磯崎神社をはじめ、各地の神社の祭神としてまつられている。先に述べたオオクニヌシとの関係から、東京の神田神社(神田明神)などのように、オオクニヌシと相殿(あいどの)でまつられていることも多い。

天孫邇邇芸命(ににぎのみこと)
 オオクニヌシとその御子神が天孫に国を譲ることに同意したため、アマテラスはアメノオシホミミに豊葦原中国に天下るよう命じた。中国(なかつくに)の混乱が収まるまで待っていたアメノオシホミミであるが、降臨の準備をしている間に新たな神が生まれた。この神こそが天孫邇邇芸命で、アメノオシホミが高木神(たかぎのかみ・・・造化三神の一柱、高御産日神:たかみむすひのかみ、の別名)の娘の万幡豊秋津師比売命(よろずはたあきづしひめのみこと)と結婚して生まれた子どもであり、この神こそ降臨させるのにふさわしいとアメノオシホミミはアマテラスに進言する。
 アマテラスはこの進言を受け入れ、生まれたばかりのニニギノミコトを降臨させることにした。
 さて、アメノオシホミミはアマテラスとスサノオの誓約の結果生まれた、アマテラスの子どもである。これに対して、ニニギノミコトは造化の三神の一柱であるタカミムスヒの娘の子、つまり別天神(ことあまつかみ)の直系の孫に当たる。アメノオシホミミは造化の三神の孫という決闘の正しさを理由に、ニニギノミコトの方が自分よりも天下るにふさわしい存在であると判断したのかもしれない。
 ニニギノミコトは正式には「天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命」(あめにきしくににきしあまつひこひこほのににぎのみこと)という名前である。「天邇岐志国邇岐志」は天地が豊かに賑わうという意味、「天津日高」は天神の美称、「日子」は男性の美称、「番能邇邇芸」は稲穂が豊かに実る様をあらわしている。つまり、ニニギノミコトの長いフルネームには、穀物を豊かに実らせる穀物神をいう意味が込められている。
 万物を創造する造化の神であるタカミムスヒと、作物の成長にとって不可欠の太陽神であるアマテラスの血を引くニニギノミコトは、豊葦原中国の守護神として最もふさわしい神であった。

猿田毘古神(さるたびこのかみ)
 ニニギノミコトが降臨する際、道の辻にサルタビコという異形(七握もある長い鼻を満ち、身長七尺あまり、口の端が明るく光り、目は八咫鏡のように光り輝いている)の神がいた。彼の先導により、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、布刀玉命(ふとだまのみこと)、天宇受売神(あめのうずめのかみ:アメノウヅメ)、伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと)、玉祖命(たまのおやのみこと)を加えた一行が筑紫の日向(ひゆうが)の高千穂の霊峰に降臨した。
 このとき、アマテラスは「三種の神器」である八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)八咫鏡(やたのかがみ)草薙(くさなぎ)の剣をニニギノミコトに授けた。これら三つの神宝は現在に至るまで歴代天皇の証として継承されている。
 道案内をしたサルタビコは道案内の神、あるいは交通安全の神として各地にまつられており、バスや鉄道など交通関係に携わる人々に今も厚く信仰されている。

□ 天孫降臨に従った神々と氏族(しぞく)
 天孫降臨には前述の五柱の神の他にも数柱の神が従った。それらは天皇家と関係の深い氏族の族長となった。
・アメノコヤネ(天児屋根命:あめのこやねのみこと)・・・中臣氏(後の藤原氏)の祖神
・フトダマ(布刀玉命:ふとだまのみこと)・・・忌部(いんべ)氏の祖神
・アメノウズメ(天宇受売神:あめのうずめのかみ)・・・宮中の祭事で舞などを奉納する猿女君(さるめのきみ)の祖神
・イシコリドメ(伊斯許理度売命:いしこりどめのみこと)・・・作鏡連(かがみつくりのむらじ)の祖神
・タマノオヤ ・・・玉祖連(たまのおやのむらじ)の祖神

 中臣氏と忌部氏は宮中の神事を司る神祇(じんぎ)氏族の中核で、
・中臣の名は神と人の間をつなぐ臣(氏族)の意味、
・忌部氏は神事に欠かすことのできない物忌み(穢れを祓うこと)を司る氏族
・猿女君は歌舞を奉納
・作鏡連と玉祖連は催事に不可欠の鏡や勾玉などの製造に従事する氏族

 そのほかの降臨に従った神々
思金神(おもいかねのかみ)・・・アマテラスを岩屋から引き戻す策を練った、極めて思慮深い神
天忍日命(あめのおしひのみこと)・天津久米命(あまつくめのみこと)・・・弓矢や太刀を携えて護衛として
天手力男神(あめのたぢからおのかみ)

・アメノオシヒ(天忍日命:あめのおしひのみこと)・・・大和朝廷の軍事力を担った大伴氏の祖神
・アマツクメ(天津久米命:あまつくめのみこと)・・・大伴氏に従属して同じく朝廷の軍事を司った久米氏の祖先

木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやびめのみこと)と石長比売(いわながひめ)
 降臨したニニギノミコトはコノハナノサクヤビメという美しい少女と出会い、一目惚れをして結婚を申し出る。彼女はオオヤマヅミの娘であり、父親のオオヤマヅミは姉のイワナガヒメとともに姉妹共々娶ってくれるよう懇願したが、醜い容姿のイワナガヒメを見たニニギノミコトは親元に送り返してコノハナノサクヤビメだけと結婚した。
 オオヤマヅミの考えはこうだった。頑強なイワナガヒメとの間には巌のように盤石で永遠に近い寿命を保つ天孫が生まれるであろう、一方、美しいコノハナノサクヤビメは天孫に木の花が咲き誇るような繁栄をもたらすであろう、つまり姉妹をともに娶ることによって、天孫は永遠の寿命と繁栄との両方を手に入れることができたはず・・・しかしニニギノミコトがコノハナノサクヤビメだけを娶ったので、繁栄は手にしたものの、天孫(後の天皇)の寿命は限りあるものになってしまったのである。
 一夜の契りを結んだコノハナノサクヤビメは身ごもったが、それをニニギノミコトに告げると彼は国つ神の児に違いないと疑念を持ち、これに憤慨したコノハナノサクヤビメは産屋に火を放ってその中でお産をすると申し出た(天神の児なら燃えさかる火の中でも無事に生まれてくる)。
 そして三人の子ども(三柱の神)が無事にまれた。その三神とは、
火照命(ほでりのみこと)・・・海佐知毘古(うみさちびこ=海幸彦)
火須勢理命(ほすせりのみこと)
火遠理命(ほをりのみこと)・・・山佐知毘古(やまさちびこ=山幸彦)
 そして、山幸彦の孫に当たるのが初代現人神、神武天皇である。

恵比寿神と恵比須講
 恵比寿神は、記紀神話ではイザナギ・イザナミが最初に産んだ子どもで、クラゲのように骨がなく、三歳になっても足が立たなかったので、葦船に載せて海に流してしまった蛭子(ひるこ)神である。
 蛭子神は日本の沿岸を一周して西宮の岬にたどり着いた(西宮神社縁起より)。
 もともと恵比寿は胡(あるいは夷)とも表記され、中国では夷狄(いてき)、つまり北方の異民族の呼称だった。夷狄の侵攻を防ぐために築かれたのが万里の長城である。一方、夷狄は珍しい文化をもたらした。クルミ、キュウリ、胡坐(あぐら)など。
 このような夷狄の性格が恵比寿神の性格にも取り入れられ、恵比寿は岬の先端などに漂着して福をもたらすと考えられるようになった。このような神を客人神(まろうどがみ)、希人神(まれびとがみ)といい、希にやってきて幸いをもたらすという意味である。恵比寿神が主に岬の先端にまつられるのは漂着神の性格があるからである。
 恵比寿神はかつて豊漁の神として信仰されていたが、室町時代頃から商業が発展すると、町中にも勧請されて商売繁盛の神として盛んな信仰を集めるようになった。
 また、各地で恵比須講も結成され、特に商工業者の間で強固な講が組まれた。彼らの恵比須講はもちろん恵比寿神に対する信仰の結社ではあるが、それ以外に講員が集まって営業上の様々な秘密の取り決めをする組織でもあった。その取り決めの内容(カルテルや出荷調整)は恵比寿神に誓って絶対に口外しない約束をした。
 今も関東を中心に「恵比須講」と称する大売り出しを行っている地方があるが、これは商工業者が闇カルテルなどを組んで日頃消費者に不利益を与えていることを反省して年に1、2回大安売りを行うもので、いわば“罪滅ぼし”なのである。明治になり百貨店ができると、この恵比須講が百貨店のセールの起源となった。

大国主神と大黒天
 大黒天はインドの神話に登場する神で、仏教とともに日本に伝えられた。サンスクリット語でマハー・カーラといい、マハーは偉大な、大きなという意味で、摩訶と音写(サンスクリット語の発音を中国語の音で写したもの)される。カーラは黒色という意味で、文字通り偉大な黒、真っ黒という意味である。
 仏教の大黒天は全身真っ黒で凄まじい憤怒の表情を浮かべた三面六臂(顔が三つ、手が六本)で、後ろの二本の手で生剝ぎにした象の皮を掲げ、中の二本のうち右手には人間の髪をつかんで持ち上げ、左手はヤギの角を握って持ち上げている。そして、一番前の二本の手で剣を持って円盤上に座っている。
 「大黒」の名が出雲の大国主神の「大国」と音が通じることから、鎌倉時代頃から両者が同一視されるようになった。今でも出雲の人たちは大国主神とは言わずに、親しみを込めて「だいこくさま」と呼んでいる。この場合、オオクニヌシと大黒天の両者がミックスされているのである。
 仏教における恐ろしい姿の大黒天がオオクニヌシと同一視されると、オオクニヌシの温和で優しい性格に影響されて、しだいに優しい風貌になっていくのであった。

八幡神は「たくさんの軍旗を持っている神」
 もともと八幡神は軍神として産声を上げた。
 宇佐神宮の縁起では、第29代、欽明天皇治世(6世紀中頃)、九州の宇佐八幡宮の境内にある菱形池の中から3歳の童子が現れて「我は誉田(ほむた)天皇、広幡八幡麻呂(ひろはたやはたまろ)なり」と言った。誉田天皇は第15代、応神天皇の和風諡号(しごう)で、広幡は大きな軍旗、八幡はたくさんの軍旗を持っているという意味である。
 宇佐八幡の霊験はすでに奈良時代以前から中央にも知られており、天変地異や内乱などの事態が起こると勅使が参向して神意を伺った。また、奈良時代中頃に弓削(ゆげの)道鏡が宇佐八幡の託宣を利用して皇位を狙った事件は有名である。
 平安時代になると、京都に宇佐の八幡神を勧請した。これが石清水(いわしみず)八幡宮である。その場所である男山は京都の南部にあり、この辺りだけ山が切れている。そして京都から流れてきた桂川、木津川、宇治川が合流して淀川となる地で、大阪も目の前にあることから、古くから軍事上の要塞だった。その地に軍神をまつって平安京の警護を固めようとしたのである。
 平安時代末には「武人八幡」と呼ばれて武将に厚く崇敬されるようになった。1062年に前九年の役に出兵する際、石清水八幡宮を鎌倉の由比ヶ浜の近くに勧請し、源頼義が武運長久を祈った。また頼義の子の義家は“八幡太郎義家”の異名をとり、八幡神の申し子とされている。
 1180年、鎌倉に拠点を置いた頼朝は今の鶴岡八幡宮がある大臣山の下に移し、1191年には山の中腹に社殿を造営して鎌倉幕府の守護とした。鶴岡八幡宮はすでに鎌倉時代に分霊して横浜の富岡にまつられた(富岡八幡宮)。
 関東の八幡宮のほとんどは鶴岡八幡宮の分霊である。江戸時代には富岡八幡宮から深川に勧請され、これが深川の富岡八幡宮である。一方、宇佐八幡宮や石清水八幡宮は西日本を中心に全国に勧請された。

筥崎八幡宮の由来〜神功皇后と応神天皇と武内宿禰
 第14代の仲哀天皇の后である神功皇后は、熊襲成敗のために九州に仲哀天皇に従って遠征したが、天皇が頓死してしまった。当時(7世紀中頃)、朝鮮半島では百済、新羅、高句麗の三国が覇権を争い、緊迫した情勢が続いていた。とくに新羅が熊襲と組んで大和朝廷に侵略してくることが懸念されていた。
 天皇が客死したことが新羅に知れると一気に攻めてくることが危惧された。先手を打って新羅を攻めるべく、神功皇后は速やかに軍備を整えて新羅に遠征した。そのとき、神功皇后は応神天皇を身籠もっており、臨月を迎えていつ生まれるかわからない状態だった。そこで神功皇后は股間に石を挟み、縄でぎゅうぎゅうに縛って出陣した。
 このとき、武内宿禰(たけしうちのすくね)が参謀として出陣し、船は順風満帆で進み、自ら立てた波に乗って新羅の奥深くまで侵攻したという。その光景を見た新羅の王は恐れをなし、戦わずして大和に帰順することを誓ったという。
 凱旋してきた神功皇后は福岡の筥崎八幡宮の前の海から上陸し、縄を解いて股間の石を外した時に生まれたのが応神天皇であるという。“筥崎”の名は、そのとき、応神天皇の胞衣(えな=胎盤)を筥(箱)に入れて埋めて胞衣塚を作ったことに由来するという。筥崎八幡宮の参道の脇には今も応神天皇の胞衣塚がある。
 このように応神天皇は母親のお腹にいるときからすでに実戦に加わった根っからの軍神である。八幡宮には応神天皇を主祭神とし、相殿(主祭神と一緒にまつられるゆかりの深い祭神)として神功皇后がまつられる。そして、軍事参謀として活躍した武内宿禰も摂社として境内にまつられることが多い。

弁才天七変化〜川の神、音楽の神、学問の神、五穀豊穣の神、商売繁盛の神、宗像三女神、宇賀神〜
 七福神の弁財天もその由来はインドの神様である。それが仏教に取り入れられて日本に伝わり、記紀神話に登場する宗像三女神と集合し、さらに民間信仰の宇賀神という蛇神(竜神)と集合して現在に至る複雑な経緯を内包した神である。
 サンスクリット語で弁才天はサラスヴァティーといい、サラスヴァティーは古代インドに実在した河川の名で、それをそのまま神格化したのがサラスヴァティーである。
 一定のリズムや旋律を刻んで流れる川のせせらぎが、音楽になぞらえられて音楽の神となった。そのため、日本に伝えられても弁財天は琵琶を持っている。一定のリズムや旋律は、雄弁な弁舌にたとえられて「弁才」の名が冠された。また、弁舌さわやかに理路整然と語る人は聡明であるということから、学問の神としても信仰を集めている。
 今もインドのヒンドゥー教ではサラスヴァティーが盛んな信仰を集め、とくに音楽関係の人たちに厚く信仰されている。インドのサラスヴァティーは、琵琶の原型となるビーナという民族楽器を持っている。
 サラスヴァティーは仏教に取り入れられて信仰されるようになったのが弁才天である。日本でも音楽の神として琵琶を持った姿に作られ、また、学問の神としての性格も兼ね備えている。さらにもともと水の神という作物の成長を促す性格から、五穀豊穣の神として盛んに信仰され、室町時代頃から商業が発達してくると商売繁盛の神として信仰されるようになった。室町時代末から江戸時代はじめ頃になると、弁才天ではなく、財産の「財」の字を当てて弁財天と表記するようになった
 また、平安時代頃から弁才天はアマテラスがスサノオとの“誓約”(うけい)の結果生んだ三柱の女神「宗像三女神」と集合し、さらには古くから民間で信仰されている宇賀神という蛇神(龍神)とも習合して極めて複雑になった。これらの神はともに水神の性格が強いということで習合したのである。
 このような宗像三女神、弁才天、宇賀神が習合した弁天信仰は、複雑な様相を呈しながら熱狂的に支持された。
 仏教由来でありながら弁才天をまつる社は弁天社と呼ばれている。これは宗像三女神や宇賀神と習合した結果、神の性格が強くなったためと考えられている。外来の神の中ですっかり日本の神として定着することになった弁才天は、日本人の宗教心や民族性に最もマッチした神として親しまれてきたのである。

□ 弁才天をまつる神社〜厳島神社と江島神社
 日本三大弁才天の一つに数えられる広島の厳島神社は、もともと瀬戸内海に浮かぶ弥山という山の麓に宗像三女神を九州の宗像大社から勧請してまつったのが始まりで、後に弁才天がまつられ、宇賀神が加わった。厳島神社の背後にある弥山は瀬戸内海の交通の要衝にあり、その特徴ある山容は古くから瀬戸内海航行の際の目印となる山として、瀬戸内水軍などから崇められてきた。そして、ここは神を「いつく」山と呼ばれた。この「いつく」は「居つく」という意味ではなく「斎く」、つまり「まつる」という意味で、すなわち「神をまつる山」なのである。
 神奈川県の江島神社も平安時代に宗像三女神をまつり、鎌倉時代になってから弁才天と宇賀神がまつられた。

金比羅
 金比羅もれっきとしたインドの神で、サンスクリット語でクンビーラと呼ばれるガンジス川の守護神である。それが仏教に取り入れられて金比羅と音写され、日本にも仏教とともに伝えられてきた。そして、水の神という性格から船の航行を守る守護神、豊漁を約束してくれる神、あるいは五穀豊穣の神として盛んな信仰を集めるようになった。そして弁才天と同じように室町時代頃からの商業の発達に伴って、商売繁盛、金運上昇にも霊験あらたかとされた。

□ 明治以降に定められた祭神
 もともと日本の古来の神々は氏神や産土神で特定の名前を持たなかった。それが明治維新になって国家神道の時代になると、記紀の記述に基づいて神話に登場する神々が祭神として定められるようになった
 維新政府は神道を国教とする国家神道で国民を統制し、富国強兵と近代化を強力に推進した。その過程で「神仏判然令」という法令を明治初年に発し、神と仏を判然と区別する作業を強硬に推し進めた。そのとき、維新政府は各寺社に対して神社として存続するか、仏教寺院として存続させるかを独断で決めていった。
 奈良県の談山(だんざん)神社は、もともと藤原鎌足の菩提を弔う妙楽寺という仏教寺院として創建されたものだが明治初年には鎌足を祭神とした寺社として存続することに決め、談山神社と号することになった。
 また、名古屋の熱田神宮はヤマトタケルを主祭神としてまつったが、戦後は旧に復して熱田大神(あつたおおかみ)を祭神としている。もともと歴史のある神社では、その土地を支配した豪族の氏神をまつり「○○の大神」といっていたのである。


(オマケ)“御幣”(ごへい)とはなにか?
 もともと御幣は幣帛(へいはく)といって神への捧げ物だった。昔、税として納められる絹織物などを木簡や竹簡で挟んで献上したことに由来すると考えられる。本来、御幣は御幣束といって束にして供えるものだった。東北などでは今も御幣を束にして神前に供える風習が残っている。
 時代が少し下ると、御幣は神への捧げ物の意味から、それを目印に神が降臨する依代としての意味合いが強くなった。神社の本殿の前に御幣が供えられているのは依代の意味である。だから、祭神が一柱の神社では一本、三柱の神社では三本の御幣が供えられるのである。また、お祓いの時に神職がはたきのように振る“祓い棒”の起源も御幣にある。祓い棒もはじめは幣束と同じだったが、これで穢れを祓うことからその中に神威が宿ると考えられ、神聖視されるようになった。
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