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まだまだ赤穂城内でウロウロしている今回のレポート。もうしばらく城内におつきあい下さい。
さて、大石神社参道からくるりと後ろを向いて本丸を見た様子です。二の丸庭園跡を挟んで本丸の城門と天守台が見えます。が、なんとも広大ですなー。五万三千石の小藩がこんな広壮な城郭を築くのは相当領民に負担を掛けたことでしょう。しかも天守まで造る気だったのですから(天守は支配者が君臨している様子を象徴的に示すもの。当時の支配者は徳川幕府であって、天守を築くという行為はその幕府と肩を並べんという意思の表れでもあります)かなり負けん気が強いというか、空気が読めないというか・・・赤穂浅野氏は荒々しい戦国の気質を尊ぶ「バサラ」な大名だったのかもしれません。
それはともかく天守は財政難か幕府をはばかってか結局建設されませんでした。領民への過酷な課税は恨みを残したようで、内匠頭が刃傷により切腹・お家断絶と決まったとき、領内の農民は赤飯を炊いてお祝いしたそうです。
現在二の丸庭園を復元中。大名庭園はどんなんだったのか、完成が楽しみです。
さて、大石神社参道からくるりと後ろを向いて本丸を見た様子です。二の丸庭園跡を挟んで本丸の城門と天守台が見えます。が、なんとも広大ですなー。五万三千石の小藩がこんな広壮な城郭を築くのは相当領民に負担を掛けたことでしょう。しかも天守まで造る気だったのですから(天守は支配者が君臨している様子を象徴的に示すもの。当時の支配者は徳川幕府であって、天守を築くという行為はその幕府と肩を並べんという意思の表れでもあります)かなり負けん気が強いというか、空気が読めないというか・・・赤穂浅野氏は荒々しい戦国の気質を尊ぶ「バサラ」な大名だったのかもしれません。
それはともかく天守は財政難か幕府をはばかってか結局建設されませんでした。領民への過酷な課税は恨みを残したようで、内匠頭が刃傷により切腹・お家断絶と決まったとき、領内の農民は赤飯を炊いてお祝いしたそうです。
現在二の丸庭園を復元中。大名庭園はどんなんだったのか、完成が楽しみです。
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