本題に入る前に、先ずはこちらの写真をご覧下さい。
いずれも小生の出身高校である、埼玉県立春日部高校の、小生が卒業した昭和62年度(今から約20年前)の卒業アルバムから複製・転写したものです。
上の写真が、卒業生の担任他の担当になられた先生方の集合写真で、その下段の一番右に写ってる先生が、今日話題として取り上げるお方です。
下の写真は、そのお方の別の写真(個別写真)で拡大したものになります。
いきなりクイズですが、この先生…一体どなたでしょう?
読書が趣味の、このブログの読者の方なら、一発で正解できると思います。
そうです。正解は、ミステリー作家でおなじみの『北村 薫』先生です。
因みに本名は、『宮本 和男』先生。
先生は作家に転進する前、小生の母校でもあり、先生の母校でもある、春日部高校の国語の教諭として、教壇に立たれていました。
実は小生、高校3年生の時、『宮本』先生の現代国語の授業を1年間受けています。
一番上の集合写真でご理解できると思いますが、先生は、小生が高校3年生の時、同じ学年の別のクラスの担任もなさっていたので、こうして写真を2枚紹介できた…というわけですね。
さて、本題ですが、今日の朝日新聞の朝刊の生活面で、来月から始まる男性向けの投稿欄『男のひといき』の開設にあたり、先生がエールを贈る意味で登場されていました。
先生のお姿を、再び拝見できて、懐かしくなりましたね~。
ですが、先生のメッセージの中に、大切なものを見出した気がしたので、こうして記事をエントリーしました。
先ずは、先生のショートエッセイを紹介します。
(以下は、朝日新聞の今日の朝刊の記事を引用し、紹介します。)
*************************************
「馬は人を見る」という。
乗馬未経験者を侮るそうだ。ところで、猫もまた、人を見る。
わが家には、ゆずという猫がいる。のんびり寝てばかりいる。
目の色が変わるのは腹が空いた時だけだ。
まず、「めしをくれ」と鳴く。「まだ、早いだろう」というと、ふてくされる。
そして何と、──テーブルの上の紙への攻撃を開始するのだ。
爪を立てたり、噛みついたりする。
こちらは物書きだから、紙を攻められるとつらい。
困ると知っているのだ。わたしがいない時には、そういうことをしないらしい。
先日のことだ。たまりかねて、「やめてくれよ」と手を出した。
その、私の指の動きと、ゆずの爪のアタックが、空中でぴったり出会った。
百万にひとつの偶然、という感じで、彼の尖った、太い釣り針のような爪が、
わたしの右の中指の、爪と肉の間に、ぐさりと食い込んだ。
これは痛い。尋常でなく痛い。
うずくまり、次に跳びはねながら、「こんなに面倒をみてやっているのに、
どうしてこんな目にあわなければいけないんだっ!」と、うめいた。
そこで、「愛の関係において、爪をふるう強者と傷つく弱者が生まれるのは
別に珍しいことではない」という、ひとつの定理に思い至り、わたしは
「なるほど」と、妙に納得しつつ、消毒薬を探し始めたのだった。
*************************************
そこで、このエッセイを踏まえて、『宮本』先生はこう語っています。
*************************************
大切なものって、日常に転がってたりしますよね。
猫の爪が刺さった瞬間の痛みや…(中略)…日常の中にはあります。
しかし、そんなものも時とともに風化し、消えていってしまう。
デジカメで場面をとどめておくように、言葉でとどめようとすれば、
出てきた言葉はどんな像を結ぶでしょうね。それは自分が生きてきた記憶であり、
記録になる。
同じように猫を書いても、書く人によってまったく違うものになります。
書くことは結局、己を書くということですから。
書こうと思ってまわりを見ることで気づくこともあります。…(中略)
見えなかったものが見えてくれば、生活が豊かになるかもしれません。
一つひとつは個人的な体験でも、読み手が「私だけじゃないんだ」って、
それが救いになることってありますよね。
「あるある」と共感したり、力づけられたり。日常の一コマが普遍的なものに
なるんです。
ある投稿に応える投稿が生まれるなど、キャッチボールもあるかもしれません。
そういうことが語られていけばパッチワークのように日本の今の家庭の姿が
浮かんでくると思います。
書くことのおもしろさは男女共通です。男性のものの見方が表れる投稿は、
女性にとっても興味深いのではないでしょうか。
*************************************
ブックマークさせていただいているnanaponさんが管理なさっている『即席の足跡《CURIO DAYS》』というブログで、『本音を書き続けること』という先日エントリーされた記事や、少し前に遡って『知的生産性のツールとしてのブログ』という記事でも語られていましたが、『宮本』先生がおっしゃっていることと、非常にリンクしていると小生は感じましたが、読者の皆さんは、いかがお感じでしょうか?
書くということの意味…改めて、お二方からご教示頂いた気がしています。
心から感謝したいです。
そして、およそ20年ぶりになる、久しぶりの『宮本』先生の現代国語の授業…堪能させて頂きました。
先生の授業で印象深いのは、森 鴎外の『舞姫』の授業でしたが、今、それに似た感動を覚えています。
こういう感動って、おすそ分けした方が、価値があるのかな?と、小生は思いまして…。
それで、紹介させていただきました。
上手に言えなくて恐縮ですが、改めて、ブログを始めて良かったな…
せっかく始めたので、楽しみながら記事をエントリしていこう…
そして、ブログを通じて情報交換させていただいている方々とのご縁は、大切にしたい…。
この記事を終える今この瞬間も、そう感じています。
追記
宮本先生(=北村 薫 先生)の2005年に朝日新聞に連載された小説『ひとがた流し』が、なんと直木賞候補作品に挙がっていたんですね。大きな賞に手が届くほどの売れっ子作家に上り詰めたなんて…考えただけで凄いです。
蛇足ですが、一番上の写真の下段の一番左に写っている先生が、NHK教育テレビの英語関連の講座の講師も担当されたご略歴がある、現在は神田外語大学で教壇に立たれている小野田 榮 先生です。
英語ができない小生を、毎回授業で指名しては、できるまで補習や追試験を小生に課しましたが、応援団にすごく理解がある先生で、大好きな先生です。
今でも年賀状のやり取りが続いており、実家近くに住所があります。実家に帰った時、今度一緒にお酒でも…と思っています。
そして、上段の右から3番目の「小室 哲哉」風のお方が、小生が1年生と3年生の時の担任だった関谷先生です(数学を担当。先生のHP『すうがくしつもんばこ』はこちら)。
話し方や声質も「小室 哲哉」っぽくて、小室さんをテレビで見るたび、先生を思い出します。
こうして改めて思うと、凄い先生方の授業を受けていたんだな…と。
正直、ビックリしています。
いずれも小生の出身高校である、埼玉県立春日部高校の、小生が卒業した昭和62年度(今から約20年前)の卒業アルバムから複製・転写したものです。
上の写真が、卒業生の担任他の担当になられた先生方の集合写真で、その下段の一番右に写ってる先生が、今日話題として取り上げるお方です。
下の写真は、そのお方の別の写真(個別写真)で拡大したものになります。
いきなりクイズですが、この先生…一体どなたでしょう?
読書が趣味の、このブログの読者の方なら、一発で正解できると思います。
そうです。正解は、ミステリー作家でおなじみの『北村 薫』先生です。
因みに本名は、『宮本 和男』先生。
先生は作家に転進する前、小生の母校でもあり、先生の母校でもある、春日部高校の国語の教諭として、教壇に立たれていました。
実は小生、高校3年生の時、『宮本』先生の現代国語の授業を1年間受けています。
一番上の集合写真でご理解できると思いますが、先生は、小生が高校3年生の時、同じ学年の別のクラスの担任もなさっていたので、こうして写真を2枚紹介できた…というわけですね。
さて、本題ですが、今日の朝日新聞の朝刊の生活面で、来月から始まる男性向けの投稿欄『男のひといき』の開設にあたり、先生がエールを贈る意味で登場されていました。
先生のお姿を、再び拝見できて、懐かしくなりましたね~。
ですが、先生のメッセージの中に、大切なものを見出した気がしたので、こうして記事をエントリーしました。
先ずは、先生のショートエッセイを紹介します。
(以下は、朝日新聞の今日の朝刊の記事を引用し、紹介します。)
*************************************
「馬は人を見る」という。
乗馬未経験者を侮るそうだ。ところで、猫もまた、人を見る。
わが家には、ゆずという猫がいる。のんびり寝てばかりいる。
目の色が変わるのは腹が空いた時だけだ。
まず、「めしをくれ」と鳴く。「まだ、早いだろう」というと、ふてくされる。
そして何と、──テーブルの上の紙への攻撃を開始するのだ。
爪を立てたり、噛みついたりする。
こちらは物書きだから、紙を攻められるとつらい。
困ると知っているのだ。わたしがいない時には、そういうことをしないらしい。
先日のことだ。たまりかねて、「やめてくれよ」と手を出した。
その、私の指の動きと、ゆずの爪のアタックが、空中でぴったり出会った。
百万にひとつの偶然、という感じで、彼の尖った、太い釣り針のような爪が、
わたしの右の中指の、爪と肉の間に、ぐさりと食い込んだ。
これは痛い。尋常でなく痛い。
うずくまり、次に跳びはねながら、「こんなに面倒をみてやっているのに、
どうしてこんな目にあわなければいけないんだっ!」と、うめいた。
そこで、「愛の関係において、爪をふるう強者と傷つく弱者が生まれるのは
別に珍しいことではない」という、ひとつの定理に思い至り、わたしは
「なるほど」と、妙に納得しつつ、消毒薬を探し始めたのだった。
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そこで、このエッセイを踏まえて、『宮本』先生はこう語っています。
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大切なものって、日常に転がってたりしますよね。
猫の爪が刺さった瞬間の痛みや…(中略)…日常の中にはあります。
しかし、そんなものも時とともに風化し、消えていってしまう。
デジカメで場面をとどめておくように、言葉でとどめようとすれば、
出てきた言葉はどんな像を結ぶでしょうね。それは自分が生きてきた記憶であり、
記録になる。
同じように猫を書いても、書く人によってまったく違うものになります。
書くことは結局、己を書くということですから。
書こうと思ってまわりを見ることで気づくこともあります。…(中略)
見えなかったものが見えてくれば、生活が豊かになるかもしれません。
一つひとつは個人的な体験でも、読み手が「私だけじゃないんだ」って、
それが救いになることってありますよね。
「あるある」と共感したり、力づけられたり。日常の一コマが普遍的なものに
なるんです。
ある投稿に応える投稿が生まれるなど、キャッチボールもあるかもしれません。
そういうことが語られていけばパッチワークのように日本の今の家庭の姿が
浮かんでくると思います。
書くことのおもしろさは男女共通です。男性のものの見方が表れる投稿は、
女性にとっても興味深いのではないでしょうか。
*************************************
ブックマークさせていただいているnanaponさんが管理なさっている『即席の足跡《CURIO DAYS》』というブログで、『本音を書き続けること』という先日エントリーされた記事や、少し前に遡って『知的生産性のツールとしてのブログ』という記事でも語られていましたが、『宮本』先生がおっしゃっていることと、非常にリンクしていると小生は感じましたが、読者の皆さんは、いかがお感じでしょうか?
書くということの意味…改めて、お二方からご教示頂いた気がしています。
心から感謝したいです。
そして、およそ20年ぶりになる、久しぶりの『宮本』先生の現代国語の授業…堪能させて頂きました。
先生の授業で印象深いのは、森 鴎外の『舞姫』の授業でしたが、今、それに似た感動を覚えています。
こういう感動って、おすそ分けした方が、価値があるのかな?と、小生は思いまして…。
それで、紹介させていただきました。
上手に言えなくて恐縮ですが、改めて、ブログを始めて良かったな…
せっかく始めたので、楽しみながら記事をエントリしていこう…
そして、ブログを通じて情報交換させていただいている方々とのご縁は、大切にしたい…。
この記事を終える今この瞬間も、そう感じています。
追記
宮本先生(=北村 薫 先生)の2005年に朝日新聞に連載された小説『ひとがた流し』が、なんと直木賞候補作品に挙がっていたんですね。大きな賞に手が届くほどの売れっ子作家に上り詰めたなんて…考えただけで凄いです。
蛇足ですが、一番上の写真の下段の一番左に写っている先生が、NHK教育テレビの英語関連の講座の講師も担当されたご略歴がある、現在は神田外語大学で教壇に立たれている小野田 榮 先生です。
英語ができない小生を、毎回授業で指名しては、できるまで補習や追試験を小生に課しましたが、応援団にすごく理解がある先生で、大好きな先生です。
今でも年賀状のやり取りが続いており、実家近くに住所があります。実家に帰った時、今度一緒にお酒でも…と思っています。
そして、上段の右から3番目の「小室 哲哉」風のお方が、小生が1年生と3年生の時の担任だった関谷先生です(数学を担当。先生のHP『すうがくしつもんばこ』はこちら)。
話し方や声質も「小室 哲哉」っぽくて、小室さんをテレビで見るたび、先生を思い出します。
こうして改めて思うと、凄い先生方の授業を受けていたんだな…と。
正直、ビックリしています。