imuimuさんのご子息が、大学院の入学試験に合格しました。
私も2年間だけでしたが、大学院修士課程(薬学)を修了しています。
その「先輩」として、心からおめでとうと、先ずは申し上げたいと思います。
後日、大学院生としての2年間の充実した日々についても、紹介しようかな…と思いますが、先ずは、その吉報に触れましたので、私の大学院受験までの日々と、合格した時の心の様子等を、思い出しながら振り返ってみようと思います。
(高校3年間の思い出はどうしたのか?…という声も聞こえますが、そちらは後日ゆっくりと…。)
私は、薬学部の出身です。私立大学でしたので、相当両親には負担をかけていました。
しかし、大学に入学した当初から、実はぼんやりではありましたが、「先」を考えていました。
まだ何を専門とするかは決めていない時期でしたが、とにかく「先」を考えていました。
そのためには、今の大学で、トップクラスの成績を上げることが「資格」と考えた私は、1年生から結構勉強していた方だと思います。
入学間もない1年生の上期のある必修科目のテストで、講義を担当なさった先生から、「Dancho君が、今回のテストでは1番の成績でした」とクラス全員(約100名)の前で告げられ、そんな私の「闘志」が、同期の「トップ」(全学部の入学式で「答辞」を読みあげています)の闘志をも燃やす結果となり、最終的には数人で凌ぎを削りました。
結局、彼を追い抜くことはできなかったけれど、おかげ様で、卒業式では全学表彰を受けるほど、学部内では「トップクラス」の成績をキープできました。学部表彰も受けられたのも、光栄に思います。
大学4年間で講義を受けている間に、天然物から生理活性物質がたくさん見つかって、構造決定もされているところに「面白味」を感じた私は、「生薬学」を専門として選びました。
ところで、その当時、「生薬学」を担当された教授は、その専門分野では権威があり、後に叙勲を受けられた程です。なので、大変「厳しい」研究室でした。
しかし、そこで研究を続ける気持ちは、残念ながら湧きませんでした。
もっと、高いレベルで、私自身が一時向き合った「癌」に関わる研究をやってみたい…そう思いました。
だったら…国立大学の薬学部の大学院しかない…と。
そこから、私がテーマにしたい「癌」に関わる研究を展開されている研究室探しが始まりました。
私立大学の理科系の大学は、相当な「お金」が必要だったので、あまり両親に負担をかけずに…という事を考えた場合、関東から外に出ることは、難しい…。
とすると、ここで「大学」に関しては2つに絞られます。そう、東京大学か、千葉大学…この2大学しか、当時はなかったのです。
そこに、「癌」というテーマで研究している研究室…幸いにして見つかりました。
結果的に入学することになった、千葉大学の某研究室が、そうでした。
ところで、いざ「研究室」が見つかっても、外部受験の場合、受験先の教授と、今私が属している研究室の教授と「縁故」がなければ、当時は難しい環境でした。
しかし、それも幸いにしてあったので、今属している研究室とは、だいぶ「趣」は異なるけれど、やってみたい…。
それで、私の「受験」が決まりました。
私が属した大学の研究室から、千葉大学の大学院に進学した先輩が2学年上にいらっしゃったので、その先輩から「体験談」をお伺いしました。
他大学からの受験は、内部からの進学者の「最後方」から「捲くって」、ボーダーラインより上に行かねばならないため、受験勉強は相当厳しいという事…
受験科目で重視されるのは、「英語」「有機化学」「生化学」であり、それ以外の科目の配点は、低いという事…
それぞれの研究室には「3つ」しか「椅子」が空いていないため、内部進学を希望する者が3名以上いれば、その時点で「競争」させてはもらえない事…
受験先の「研究室」には1度は必ず挨拶に足を運ぶ事…
など、色々ご教示頂きました。
この時、内部進学を希望し、現在は北海道大学で准教授として活躍している「内部進学の同期」と初めて出会う事にもなったのですが、幸いにして、私の希望する研究室には、「2つ」席が空いていることが分かり、受験勉強を始めながら、途中研究室へ挨拶に出かける等、「就職活動」とほぼ同じことをしました。それが8月の盆休みに入る入らないか…の時期だったように記憶しています。
その時点で、私が受験を希望する研究室には、数名受験希望の旨の挨拶を済ませている、他の私立薬科系大学の学生がいたそうです。この時点で、実は既に「出遅れ」ていました。
しかし、決めた以上は、合格を目指して勉強しなければいけません。
必死でした。
入学試験1ヶ月前から当日までは、「食事する」「入浴する」「トイレに立つ」「睡眠」以外の時間は、全て受験勉強に費やしたと思います。多分、時間にして1日16時間は、平気で勉強していました。
私が受験勉強した1993年は、夏の甲子園全国大会で、現在、埼玉西武ライオンズで活躍している土肥 義弘 投手(当時は、2年生エース)を大黒柱とした、春日部共栄高校が、2度目の出場で、埼玉県勢としては久しぶりになる決勝戦進出を決め、準優勝して、県内は盛り上がったのですが、それは、食事休憩中のニュースでちょっと知った位で、とにかく、「受験勉強」にどっぷり浸かった日々を過ごしていました。母が「そんなに勉強しなくても…」と「し過ぎ」で心配になるほど、やりました。
そして、受験当日。
最初の科目は「英語」。
ここで失敗すれば、その時点で「ゲームオーバー」ですから、プレッシャーはありました。
手ごたえとしては、「できていそうな、そうでない様な…」という如何にもファジーな感じだったことを覚えています。
しかし、次の「ドイツ語」で、「奇跡」が起きます。
千葉大学の大学院入試は、当時、辞書の持ち込みが許可されながら、「ドイツ語」は必修でした。
なので、「先」を見据えていた私は、大学2年生の時の語学1科目に「ドイツ語」を選択していました(1年生の時は、「英語」と「ドイツ語」2科目が必修で、2年生からどちらかを選択するシステムでした)。
4年生になって、千葉大学の大学院受験を決めた私は、ドイツ語の先生に「どんなものを読んで全訳の勉強をしたら良いですか?」と相談しました。
その時、「こんな文献を読んだらどうでしょうか?…コピーして差し上げましょう」と仰って、頂戴したドイツ語の文献は、糖尿病の現状と、新薬開発の展開に関するものでした。
とにかく、有難く頂戴し、これも、辞書を引きながら、必死に全訳に挑みました。
そしたら…この文献がそのまま(1か所の修正点もなく)、試験問題に登場したのです。
びっくりしました。
多分、ドイツ語は、ほぼ満点を取れていたと思います。
その時、これは、神様が「絶対に諦めるな!」と、私に言っているのでは…と勝手に思い込み、難問続出でしたが、諦めずに粘りに粘ったと思います。
ところで、千葉大学大学院薬学研究科(現・薬学研究院)の入試では、当時、希望する研究室を3つまで受験票に記入することができます。
しかし、私は、希望する研究室は「1つ」のみしか記入しませんでした。
これは、私の「どうしても希望する研究室に入りたい」という熱意と、根性と、闘志を見せるためでもありました。同時に、不合格なら、調剤薬局の薬剤師となるべく、「就職活動」をやり直す…という、「退路を断つ」思いもありました。今の大学で「内部進学」することは、全く考えていませんでした。
そういう「覚悟」で、私は大学院の入試に挑みました。
最後の「専門科目3つ」は、自分の希望する研究室から出題されている問題を解くことは当然で、3つ希望を受験票に書いた者は、必然的に3つが決まります。
私は「1つ」でしたから、残りの2つは「得意分野」を選び、少しでも多く得点を稼ぐことにしました。残り2つは、恐らく私立薬科系大学出身者が得意とする分野である、「薬理学」を中心に選んだ事を覚えています。残り2科目は、正直「楽勝」でした。
しかし、問題は、自分の希望する研究室から出題された問題が、きちんと解けるかどうかです。
2問出題されましたが、1つははっきり解けました。もう1つも、勉強した力を発揮できているはずだ…と思っていましたが、手ごたえとしては「フィフティーフィフティー」だったと思います。
1日目がそんな形で終わり、翌日は面接です。
面接の時には、実は採点を終えていて、その結果をにらみながら、面接官(そのうちの1名は、希望先の研究室を担当する教授)が、私に質問します。
この面接で、「君は、英語がダメだったね…」と面接官に言われてしまうと、その時点で「不合格」という情報が、この日になって流れました。私も、それに該当してしまうのか…と思うと、順番を待つ間、さすがに緊張の色は隠せなかったですね。
私の番になり、受験を希望した理由や、入学後にやってみたい研究についてなど、面接官から質問を受けたことを、ぼんやりながら記憶しています。
幸いにも、「英語がダメだったね」という言葉は聞かれなかったので、ホッとした事と、希望先の研究室の教授から…
「君は、薬理学系が得意みたいですね。どうしてそちらには進まないのか」
「もし、私の研究室が不合格なら、第2希望以下はないので、そのまま不合格となりますが、それでも良いのか」
と質問されたことは、はっきり覚えています。
とにかく、天然物から得られる生理活性物質を、実際に作って(合成して)みたいという熱意と、希望先以外の研究室以外は希望していないので、不合格でも結構…と答えました。
これで、私の受験は終わりました。後は、結果を待つだけです。
その合格発表の日。
私は、カジュアルではあるけれど、スーツを着て、合格発表のある掲示板へと向かいました。
近づくにつれ、合格者の歓喜に沸く声が、次第に大きくなります。
ドキドキしました…。
そして、掲示板の前まで着きました。下を向いて、体を小さくさせて掲示板まで向かった事をはっきり覚えています。自信は、正直、あまりなかったです。
顔を挙げました…。
私の番号が、ありました!。合格です。
もの凄く嬉しかった…。
あんなに勉強して挑んだ受験は、これまでに1度もなかった気がするから…。
私も、他大学の学生ながら、内部進学者と同じ様に、喜びを爆発させました。我を忘れる程に。
それ程嬉しかった…。
プレッシャーを凄く感じていたから…。
合格を知った直後は、半分、信じられなかったけれど…。
その私の歓喜を爆発させた様子を見た、別の研究室の修士の1年生の先輩が、内部進学者の1人に…
「池へ、こいつ(=Dancho)と一緒に飛び込め!。連れて行け、こいつを!」
と指示して、私は、その「同期」に連れられて、池へダイブしました。
でも、これも嬉しかった…。
千葉大学の同期として認められた瞬間でもあったのだから…。
ところで、千葉大学薬学部のキャンパス内には、およそ20m2程の面積の「池」があり、大学院入試の合格発表の日に、内部進学者がここに飛び込む事が「恒例」の様です。
そのために、前日にその「池」を掃除するというのですから、もはや「伝統」です。
この「池」に、他大学から受験した合格者が飛び込んだ例は、これまでなかったそうです。
そして、今でも私に続く後輩がいないとしたら、私が「唯一」の存在の様です。
それが良いのか悪いのかは別にして、私と研究室の「同期」になる女性は、「変な人が同期に加わったなぁ…」と、その時思ったそうです。
(因みに、同じ研究室で学ぶことになったこの女性が、大学院入試の成績がトップだったそうです。)
確かに冷静に考えたら、「変」です(笑)。
それなりに「正装」してきた他大学の学生が、何の躊躇もなく池へダイブするのだから…。
とにかく、「正装」は台無しになり、着替えをどうするか…研究室で相談になりました。さすがにずぶぬれのまま、帰ることはできないだろう…と。
でも、研究室にとっては、私の様なキャラクターを持った研究員が加わることは、どうも歓迎だったようで、大学院2年生の先輩方は、笑みを浮かべていらっしました。
そして、たまたま背格好が似ている修士1年生の先輩から、着替えをお借りすることになりました。
当時の私が属することになる研究室は、女性が多かったようで、「お茶室」と呼んでいる休憩室を、一時「立ち入り禁止」にして、そこで着替えさせて頂いたことを覚えています。
先輩が着替えを持参してくる間に、全身ずぶぬれになりながらも、研究室の教授が待つ教授室に合格の挨拶に向かいました。
恐らく、教授も、大学院入試の合格発表の行事の事は良くご存じで、全身ずぶぬれの私の情況を察して下さったと思われ、「何だ、その格好は!」と叱咤されることはありませんでした。それには、正直ホッとしました。
そして、教授に「実際にこちらでお世話になる来年4月までに、特に勉強しておくべきことがあれば、教えて下さい」と申し上げ、NMR分析法に関する著書を紹介していただき、教授室を後にしました。
程なくして、着替えが届き、着替えを終えた頃から、気持ちの高ぶりを抑えることができた様に思います。
着替え終わった後、4月からお世話になる研究室の先輩(修士の2年生)がやってきて、私が難なく解けた問題についても、「あれがヴィルスマイヤー反応と分かったのは、大したもの」とお褒めの言葉を頂戴し、合格した実感がようやく湧いてきました。
また、「実は残りの2つの椅子を、4人で競っていた」という事もこの時告げられ、実は「大変」だったことを初めて知り、その分喜びも大きかったし、頑張らないといけないと、身が引き締まった思いもしました。
研究室の皆さんから、「これから打ち上げをするのだけれど、ご一緒しませんか?」と申し出があったのですが、残念ながら、それは固辞させていただきました。
推薦していただいた、今の研究室のスタッフの先生方や、有機化学の勉強に関して多大なご指導を頂戴した、別の研究室の先生、ドイツ語の文献を提供していただいたドイツ語の先生、そして母に、合格の吉報を届けなければならなかったからです。
(公衆電話で、合格した事だけは伝えたのですが、やはり直接口頭で伝える必要があったので…。)
簡単に挨拶を済ませ、合格に当たって期日内に提出する書類等を受け取って、母校に戻ると、同期達にも既に私の合格が伝えられていたようで、皆が「おめでとう」と祝福してくれたことを覚えています。
スタッフにも、「千葉大へ行くのだから、これから厳しくいくぞ!。覚悟しておけ…」というお言葉も頂戴しました。
有機化学のご指導を頂戴した先生からも「良かった…」と、ドイツ語の先生からは「(入試問題が文献と)全く同じだったとは驚きましたが、合格できて良かった…」というご祝辞をそれぞれ頂戴しました。
そして帰宅し、びしょぬれになったスーツが入ったビニール袋を見た母が、「どうしたの?」といきなり突っ込んできましたが、嬉しそうではありました。さすがに、ハグはなかったけれど…(冷汗)。
でも、文句ひとつ言わずに、スーツを洗濯してくれたこと…感謝しています。
この合格に、一番喜んでくれたのが、近所に住む、母方の祖母でした。
この時は知る由もなかったのですが、その僅か1年8ヶ月後に他界してしまいます。その祖母が「一生懸命、また勉強して、頑張るんだよ」と祝福してくれたのが嬉しかったですね。
先輩からお借りした着替えをお返しする日に、提出書類を事務局へ提出して、翌年の4月を待つだけとなり、こうして私の「5回目の受験」が、最高の形で終わりました。
翌年の4月以降の2年間は、幸いにして、天然物由来の抗癌剤(現在上市され、既に臨床現場で使用されている薬)に関する合成研究に携わることができ、非常に充実した日々を過ごすことができました。
ここで勉強できたことを、誇りにも思っています。
その様子は、後日…という事にします。
とにかく、imuimuさんのご子息にも、私の様に、充実した大学院生としての日々を過ごせることを願って止みません。
一生懸命「仕事」をした分、その充実度は大きくなることは、私が保証します。
そこで流した汗は、必ず後の人生に活きてきます。
とにかく、頑張って下さい。
私も2年間だけでしたが、大学院修士課程(薬学)を修了しています。
その「先輩」として、心からおめでとうと、先ずは申し上げたいと思います。
後日、大学院生としての2年間の充実した日々についても、紹介しようかな…と思いますが、先ずは、その吉報に触れましたので、私の大学院受験までの日々と、合格した時の心の様子等を、思い出しながら振り返ってみようと思います。
(高校3年間の思い出はどうしたのか?…という声も聞こえますが、そちらは後日ゆっくりと…。)
私は、薬学部の出身です。私立大学でしたので、相当両親には負担をかけていました。
しかし、大学に入学した当初から、実はぼんやりではありましたが、「先」を考えていました。
まだ何を専門とするかは決めていない時期でしたが、とにかく「先」を考えていました。
そのためには、今の大学で、トップクラスの成績を上げることが「資格」と考えた私は、1年生から結構勉強していた方だと思います。
入学間もない1年生の上期のある必修科目のテストで、講義を担当なさった先生から、「Dancho君が、今回のテストでは1番の成績でした」とクラス全員(約100名)の前で告げられ、そんな私の「闘志」が、同期の「トップ」(全学部の入学式で「答辞」を読みあげています)の闘志をも燃やす結果となり、最終的には数人で凌ぎを削りました。
結局、彼を追い抜くことはできなかったけれど、おかげ様で、卒業式では全学表彰を受けるほど、学部内では「トップクラス」の成績をキープできました。学部表彰も受けられたのも、光栄に思います。
大学4年間で講義を受けている間に、天然物から生理活性物質がたくさん見つかって、構造決定もされているところに「面白味」を感じた私は、「生薬学」を専門として選びました。
ところで、その当時、「生薬学」を担当された教授は、その専門分野では権威があり、後に叙勲を受けられた程です。なので、大変「厳しい」研究室でした。
しかし、そこで研究を続ける気持ちは、残念ながら湧きませんでした。
もっと、高いレベルで、私自身が一時向き合った「癌」に関わる研究をやってみたい…そう思いました。
だったら…国立大学の薬学部の大学院しかない…と。
そこから、私がテーマにしたい「癌」に関わる研究を展開されている研究室探しが始まりました。
私立大学の理科系の大学は、相当な「お金」が必要だったので、あまり両親に負担をかけずに…という事を考えた場合、関東から外に出ることは、難しい…。
とすると、ここで「大学」に関しては2つに絞られます。そう、東京大学か、千葉大学…この2大学しか、当時はなかったのです。
そこに、「癌」というテーマで研究している研究室…幸いにして見つかりました。
結果的に入学することになった、千葉大学の某研究室が、そうでした。
ところで、いざ「研究室」が見つかっても、外部受験の場合、受験先の教授と、今私が属している研究室の教授と「縁故」がなければ、当時は難しい環境でした。
しかし、それも幸いにしてあったので、今属している研究室とは、だいぶ「趣」は異なるけれど、やってみたい…。
それで、私の「受験」が決まりました。
私が属した大学の研究室から、千葉大学の大学院に進学した先輩が2学年上にいらっしゃったので、その先輩から「体験談」をお伺いしました。
他大学からの受験は、内部からの進学者の「最後方」から「捲くって」、ボーダーラインより上に行かねばならないため、受験勉強は相当厳しいという事…
受験科目で重視されるのは、「英語」「有機化学」「生化学」であり、それ以外の科目の配点は、低いという事…
それぞれの研究室には「3つ」しか「椅子」が空いていないため、内部進学を希望する者が3名以上いれば、その時点で「競争」させてはもらえない事…
受験先の「研究室」には1度は必ず挨拶に足を運ぶ事…
など、色々ご教示頂きました。
この時、内部進学を希望し、現在は北海道大学で准教授として活躍している「内部進学の同期」と初めて出会う事にもなったのですが、幸いにして、私の希望する研究室には、「2つ」席が空いていることが分かり、受験勉強を始めながら、途中研究室へ挨拶に出かける等、「就職活動」とほぼ同じことをしました。それが8月の盆休みに入る入らないか…の時期だったように記憶しています。
その時点で、私が受験を希望する研究室には、数名受験希望の旨の挨拶を済ませている、他の私立薬科系大学の学生がいたそうです。この時点で、実は既に「出遅れ」ていました。
しかし、決めた以上は、合格を目指して勉強しなければいけません。
必死でした。
入学試験1ヶ月前から当日までは、「食事する」「入浴する」「トイレに立つ」「睡眠」以外の時間は、全て受験勉強に費やしたと思います。多分、時間にして1日16時間は、平気で勉強していました。
私が受験勉強した1993年は、夏の甲子園全国大会で、現在、埼玉西武ライオンズで活躍している土肥 義弘 投手(当時は、2年生エース)を大黒柱とした、春日部共栄高校が、2度目の出場で、埼玉県勢としては久しぶりになる決勝戦進出を決め、準優勝して、県内は盛り上がったのですが、それは、食事休憩中のニュースでちょっと知った位で、とにかく、「受験勉強」にどっぷり浸かった日々を過ごしていました。母が「そんなに勉強しなくても…」と「し過ぎ」で心配になるほど、やりました。
そして、受験当日。
最初の科目は「英語」。
ここで失敗すれば、その時点で「ゲームオーバー」ですから、プレッシャーはありました。
手ごたえとしては、「できていそうな、そうでない様な…」という如何にもファジーな感じだったことを覚えています。
しかし、次の「ドイツ語」で、「奇跡」が起きます。
千葉大学の大学院入試は、当時、辞書の持ち込みが許可されながら、「ドイツ語」は必修でした。
なので、「先」を見据えていた私は、大学2年生の時の語学1科目に「ドイツ語」を選択していました(1年生の時は、「英語」と「ドイツ語」2科目が必修で、2年生からどちらかを選択するシステムでした)。
4年生になって、千葉大学の大学院受験を決めた私は、ドイツ語の先生に「どんなものを読んで全訳の勉強をしたら良いですか?」と相談しました。
その時、「こんな文献を読んだらどうでしょうか?…コピーして差し上げましょう」と仰って、頂戴したドイツ語の文献は、糖尿病の現状と、新薬開発の展開に関するものでした。
とにかく、有難く頂戴し、これも、辞書を引きながら、必死に全訳に挑みました。
そしたら…この文献がそのまま(1か所の修正点もなく)、試験問題に登場したのです。
びっくりしました。
多分、ドイツ語は、ほぼ満点を取れていたと思います。
その時、これは、神様が「絶対に諦めるな!」と、私に言っているのでは…と勝手に思い込み、難問続出でしたが、諦めずに粘りに粘ったと思います。
ところで、千葉大学大学院薬学研究科(現・薬学研究院)の入試では、当時、希望する研究室を3つまで受験票に記入することができます。
しかし、私は、希望する研究室は「1つ」のみしか記入しませんでした。
これは、私の「どうしても希望する研究室に入りたい」という熱意と、根性と、闘志を見せるためでもありました。同時に、不合格なら、調剤薬局の薬剤師となるべく、「就職活動」をやり直す…という、「退路を断つ」思いもありました。今の大学で「内部進学」することは、全く考えていませんでした。
そういう「覚悟」で、私は大学院の入試に挑みました。
最後の「専門科目3つ」は、自分の希望する研究室から出題されている問題を解くことは当然で、3つ希望を受験票に書いた者は、必然的に3つが決まります。
私は「1つ」でしたから、残りの2つは「得意分野」を選び、少しでも多く得点を稼ぐことにしました。残り2つは、恐らく私立薬科系大学出身者が得意とする分野である、「薬理学」を中心に選んだ事を覚えています。残り2科目は、正直「楽勝」でした。
しかし、問題は、自分の希望する研究室から出題された問題が、きちんと解けるかどうかです。
2問出題されましたが、1つははっきり解けました。もう1つも、勉強した力を発揮できているはずだ…と思っていましたが、手ごたえとしては「フィフティーフィフティー」だったと思います。
1日目がそんな形で終わり、翌日は面接です。
面接の時には、実は採点を終えていて、その結果をにらみながら、面接官(そのうちの1名は、希望先の研究室を担当する教授)が、私に質問します。
この面接で、「君は、英語がダメだったね…」と面接官に言われてしまうと、その時点で「不合格」という情報が、この日になって流れました。私も、それに該当してしまうのか…と思うと、順番を待つ間、さすがに緊張の色は隠せなかったですね。
私の番になり、受験を希望した理由や、入学後にやってみたい研究についてなど、面接官から質問を受けたことを、ぼんやりながら記憶しています。
幸いにも、「英語がダメだったね」という言葉は聞かれなかったので、ホッとした事と、希望先の研究室の教授から…
「君は、薬理学系が得意みたいですね。どうしてそちらには進まないのか」
「もし、私の研究室が不合格なら、第2希望以下はないので、そのまま不合格となりますが、それでも良いのか」
と質問されたことは、はっきり覚えています。
とにかく、天然物から得られる生理活性物質を、実際に作って(合成して)みたいという熱意と、希望先以外の研究室以外は希望していないので、不合格でも結構…と答えました。
これで、私の受験は終わりました。後は、結果を待つだけです。
その合格発表の日。
私は、カジュアルではあるけれど、スーツを着て、合格発表のある掲示板へと向かいました。
近づくにつれ、合格者の歓喜に沸く声が、次第に大きくなります。
ドキドキしました…。
そして、掲示板の前まで着きました。下を向いて、体を小さくさせて掲示板まで向かった事をはっきり覚えています。自信は、正直、あまりなかったです。
顔を挙げました…。
私の番号が、ありました!。合格です。
もの凄く嬉しかった…。
あんなに勉強して挑んだ受験は、これまでに1度もなかった気がするから…。
私も、他大学の学生ながら、内部進学者と同じ様に、喜びを爆発させました。我を忘れる程に。
それ程嬉しかった…。
プレッシャーを凄く感じていたから…。
合格を知った直後は、半分、信じられなかったけれど…。
その私の歓喜を爆発させた様子を見た、別の研究室の修士の1年生の先輩が、内部進学者の1人に…
「池へ、こいつ(=Dancho)と一緒に飛び込め!。連れて行け、こいつを!」
と指示して、私は、その「同期」に連れられて、池へダイブしました。
でも、これも嬉しかった…。
千葉大学の同期として認められた瞬間でもあったのだから…。
ところで、千葉大学薬学部のキャンパス内には、およそ20m2程の面積の「池」があり、大学院入試の合格発表の日に、内部進学者がここに飛び込む事が「恒例」の様です。
そのために、前日にその「池」を掃除するというのですから、もはや「伝統」です。
この「池」に、他大学から受験した合格者が飛び込んだ例は、これまでなかったそうです。
そして、今でも私に続く後輩がいないとしたら、私が「唯一」の存在の様です。
それが良いのか悪いのかは別にして、私と研究室の「同期」になる女性は、「変な人が同期に加わったなぁ…」と、その時思ったそうです。
(因みに、同じ研究室で学ぶことになったこの女性が、大学院入試の成績がトップだったそうです。)
確かに冷静に考えたら、「変」です(笑)。
それなりに「正装」してきた他大学の学生が、何の躊躇もなく池へダイブするのだから…。
とにかく、「正装」は台無しになり、着替えをどうするか…研究室で相談になりました。さすがにずぶぬれのまま、帰ることはできないだろう…と。
でも、研究室にとっては、私の様なキャラクターを持った研究員が加わることは、どうも歓迎だったようで、大学院2年生の先輩方は、笑みを浮かべていらっしました。
そして、たまたま背格好が似ている修士1年生の先輩から、着替えをお借りすることになりました。
当時の私が属することになる研究室は、女性が多かったようで、「お茶室」と呼んでいる休憩室を、一時「立ち入り禁止」にして、そこで着替えさせて頂いたことを覚えています。
先輩が着替えを持参してくる間に、全身ずぶぬれになりながらも、研究室の教授が待つ教授室に合格の挨拶に向かいました。
恐らく、教授も、大学院入試の合格発表の行事の事は良くご存じで、全身ずぶぬれの私の情況を察して下さったと思われ、「何だ、その格好は!」と叱咤されることはありませんでした。それには、正直ホッとしました。
そして、教授に「実際にこちらでお世話になる来年4月までに、特に勉強しておくべきことがあれば、教えて下さい」と申し上げ、NMR分析法に関する著書を紹介していただき、教授室を後にしました。
程なくして、着替えが届き、着替えを終えた頃から、気持ちの高ぶりを抑えることができた様に思います。
着替え終わった後、4月からお世話になる研究室の先輩(修士の2年生)がやってきて、私が難なく解けた問題についても、「あれがヴィルスマイヤー反応と分かったのは、大したもの」とお褒めの言葉を頂戴し、合格した実感がようやく湧いてきました。
また、「実は残りの2つの椅子を、4人で競っていた」という事もこの時告げられ、実は「大変」だったことを初めて知り、その分喜びも大きかったし、頑張らないといけないと、身が引き締まった思いもしました。
研究室の皆さんから、「これから打ち上げをするのだけれど、ご一緒しませんか?」と申し出があったのですが、残念ながら、それは固辞させていただきました。
推薦していただいた、今の研究室のスタッフの先生方や、有機化学の勉強に関して多大なご指導を頂戴した、別の研究室の先生、ドイツ語の文献を提供していただいたドイツ語の先生、そして母に、合格の吉報を届けなければならなかったからです。
(公衆電話で、合格した事だけは伝えたのですが、やはり直接口頭で伝える必要があったので…。)
簡単に挨拶を済ませ、合格に当たって期日内に提出する書類等を受け取って、母校に戻ると、同期達にも既に私の合格が伝えられていたようで、皆が「おめでとう」と祝福してくれたことを覚えています。
スタッフにも、「千葉大へ行くのだから、これから厳しくいくぞ!。覚悟しておけ…」というお言葉も頂戴しました。
有機化学のご指導を頂戴した先生からも「良かった…」と、ドイツ語の先生からは「(入試問題が文献と)全く同じだったとは驚きましたが、合格できて良かった…」というご祝辞をそれぞれ頂戴しました。
そして帰宅し、びしょぬれになったスーツが入ったビニール袋を見た母が、「どうしたの?」といきなり突っ込んできましたが、嬉しそうではありました。さすがに、ハグはなかったけれど…(冷汗)。
でも、文句ひとつ言わずに、スーツを洗濯してくれたこと…感謝しています。
この合格に、一番喜んでくれたのが、近所に住む、母方の祖母でした。
この時は知る由もなかったのですが、その僅か1年8ヶ月後に他界してしまいます。その祖母が「一生懸命、また勉強して、頑張るんだよ」と祝福してくれたのが嬉しかったですね。
先輩からお借りした着替えをお返しする日に、提出書類を事務局へ提出して、翌年の4月を待つだけとなり、こうして私の「5回目の受験」が、最高の形で終わりました。
翌年の4月以降の2年間は、幸いにして、天然物由来の抗癌剤(現在上市され、既に臨床現場で使用されている薬)に関する合成研究に携わることができ、非常に充実した日々を過ごすことができました。
ここで勉強できたことを、誇りにも思っています。
その様子は、後日…という事にします。
とにかく、imuimuさんのご子息にも、私の様に、充実した大学院生としての日々を過ごせることを願って止みません。
一生懸命「仕事」をした分、その充実度は大きくなることは、私が保証します。
そこで流した汗は、必ず後の人生に活きてきます。
とにかく、頑張って下さい。