2022年の記録
「人民中国の残影」を3本執筆している間に時は流れ4月半ば。2月下旬に甲府市周辺を日帰り散策した時の記録。
山梨県の人には申し訳ないが、関東甲信越1都9県の中で、影が薄く感じるのは僕だけか。山梨県内富士山、富士五湖周辺には、足繁く通ったが、甲府市周辺に行くのは、初めて。
甲府へは、往路午前復路午後のスケジュールならば、新宿駅前のバスタから高速バスを利用するとリーズナブルで便も良い。コロナ感染を心配する人もいるが、密度は鉄道よりはるかに低く、鉄道移動と差異がないのではないかと思う。(あくまで素人肌感覚)
高速バスが、甲府駅に到着する直前に目に飛び込んできたのが、山梨県議会議事堂である。甲府駅前から富士川町方面へ向かう路線バスの乗り継ぎ待ち時間で訪問することができる。
山梨県庁舎別館 (旧本館) 及び県議会議事堂は、元の甲府城内の同じ県庁敷地内に、ほぼ同一の工法、素材、様式により建てられ、ともに1930年(昭和5年)に竣工し、2009年(平成21年)に山梨県の有形文化財の指定を受けている。
どちらの建物も外壁は腰部に塩山産の花崗岩または擬石塗、その上部には愛知県産のタイルを張り、軒周りには濃緑色の陶瓦の庇が配される鉄筋コンクリート造の地下1階地上3階建て(山梨県庁別館)と地下1階地上2階建て(山梨県議会議事堂)となっている。
甲府駅前から路線バスで約50分、増穂中学校前で下車してグーグル先生の誘導で歩くこと10分、旧舂米(つきよね)学校 (富士川町民俗資料館)に到着。
旧舂米学校校舎は、明治9年(1876年)竣工の木造2階建て、桟瓦葺、正面玄関に車寄せがつき、塔屋に太鼓を備える。明治時代初期の様式手法による学校建築の特色をみせ、藤村式擬洋風建築の外観をよく残している。1975年(昭和50年)県指定文化財。現在、富士川町の民俗資料館として活用されている。
訪問した土曜日は、案内員が丁寧に解説してくれる。藤村式建築(ふじむらしきけんちく)とは、山梨県令藤村紫朗(ふじむらしろう)の指導の下で建てられた擬洋風の学校建築のことで、山梨県内に住民の私財が投入され、労力奉仕などにより36校の藤村式建築が建設され、5ヶ所が現存している。その中でも、舂米学校校舎は特別に凝った作りになっている。地元豪農の桁違いの寄付によるものなのだが、その財源がミステリーで、広大な土地を所有しているといっても農民の捻出できる金額ではなく、「徳川埋蔵金か?」なんて話もあるとか。また、舂米学校校舎は、何度も移築を重ねたため、国の重要文化財級の建築物としての価値があるにも関わらず指定されなかったと案内員は悔しそうに語っていた。
旧舂米学校校舎からは、コミュニティバスでJR鰍沢口駅へ向かう。旧舂米学校校舎の案内員から教わった辺りには、バス停の看板もない。斜前の派出所の警察官に訊ねても「知らない」の返事。コミュニティバスは、ほんとうに来るのか?何しろ、コロナ禍の今、ヒッチハイクもできない・・・・・・。定刻より2、3分遅れで、無事バス到着。乗客は、終点のJR鰍沢口駅まで僕1人。
JR鰍沢口駅には、始発の甲府行き身延線がすでに停車していた。こちらも乗客は僕1人。コミュニティバスで使えたSuicaが、身延線では使えず、ヤレヤレ。
次の目的地の日本基督教団市川教会のあるJR市川大門駅で下車すると特徴的な駅舎である。街全体に古風な瓦屋根の家屋がならぶ。目的の市川教会も例外ではない。
日本基督教団市川教会は、明治21年(1881年)建設の桟瓦葺袴越屋根の木造平屋建建築物で、漆喰仕上げとする独特の外観で天然石の高い基礎の上に建っている。平成9年(1997年)に登録有形文化財に登録された。
市川教会からJR市川本町駅まで特徴的な街なみの市街地を歩き、再びJR身延線に乗り甲府駅の1つ手前の金手駅で下車し、甲府カトリック教会に向かう。
甲府カトリック教会の聖堂は1925年(大正14年)竣工の木造モルタル平屋建ての空襲を免れた数少ない戦前建築物である。三角のとんがり屋根に十字架、側壁にはアーチ窓と控え壁という教会建築の王道で、側廊がない単廊構造。正面の4本の列柱に合わせて外壁はモルタルで石造り風に仕上げられている。側面出入口上の「天主堂」の表記は、長崎の教会を思いださせてくれる。
甲府カトリック教会から甲府駅へ向かう途中に甲府城址(舞鶴城址)がある。石垣、堀の一部を除くと復元建築物である。また、中央本線開通と甲府駅開業により城址は分断され、駅の南北に復元建築物がある。
中央本線北側の線路沿いに甲州夢小路という江戸時代から昭和時代初期までの甲府城下町を再現した観光地がある。歴史的な価値はないが、小粋な雰囲気は悪くない。
甲府駅北口には、移設された旧睦沢学校校舎(甲府市藤村記念館)がある。先に紹介した旧舂米学校校舎と同様の藤村式擬洋風建築として、1875年(明治8年)に巨摩郡睦沢村(現山梨県甲斐市)に建設された。木造2階建、屋根は宝形造、桟瓦葺き、正面に玄関ポーチとベランダを設け、屋上に塔屋を設けている。
【メモ】
終わりの見えないロシアのウクライナ侵攻に何が何だかわからなくなっている。誤解を恐れずに記せば、ウクライナ人、ロシア人、兵士、市民・・・・・そのいずれの死も喪失以外の何ものでもない。悲しみ、恨み・・・・といったネガティブな感情を残しただけだ。何故に命を断たれたか? 戦争は狂気以外の何ものでもない。
戦場の兵士は、「やられる前にやっちまえ!」の思考になる。狂気の兵士には、市民も市民を装った殺人者にしか見えなくなる。死と隣り合わせの兵士は、自らのDNAを残す動物的な本能からレイプを厭わない。略奪は、恐怖に対する報酬を求めたにすぎないと思ってしまうのだ。繰り返すが、戦争は、人を狂気にする。もう、やめてくれ!
旅は続く