Being on the Road ~僕たちは旅の中で生きている~

日常の中にも旅があり、旅の中にも日常がある。僕たちは、いつも旅の途上。

人民中国の残像/瀋陽 第2回

2022-10-05 21:23:47 | 旅行

2005年の記録

県級都市(郡部)の蓋州市の協力工場の製造完了し、瀋陽での生活が始まる。季節は、夏から秋を飛び越えて冬になっていた。

 

 

郊外は、工場や石炭火力発電所から排出される煙で空は霞んでいる。中国のアパートの外壁は、日本と比較にならないほど劣化が早い。一方、室内は、豪勢な造りである。「外壁は住み心地に影響しない」といった中国的合理主義か?

 

 

瀋陽のホテルと職場の中国国有企業の門までは、徒歩数分のところにある。(さすが巨大・中国国有企業、門までよりも、門から事務所までの方が、距離がある。) 月曜日から土曜日は、ホテルと職場の往復。旧市街の散策は、日曜日の楽しみだ。

 

 

蓋州のバスターミナルで、「こっち、こっち、すぐ出発する」と言われて、ダブルキャブのトラックに乗せられた。高速道路のサービエリアで、大型バスに乗り換えるものと思っていたら、そのまま瀋陽まで来てしまった。降ろされたのは、知らないところだった。(後から長距離バスターミナルの裏手とわかった。) 掘っ立て小屋のうどん屋、「絵になるかな」と思ってシャッターをきった。

 

 

瀋陽駅近くには、赤レンガの倉庫と店舗が混在する、何となくロシアの風を感じる問屋街があった。赤レンガの好きな僕は、ほぼ毎週通って、意味もなくブラブラした。

 

 

会社にあった黒板に描かれた安全スローガン。中国は、スローガンの国、工場内のいたるところに様々なスローガンが掲げられていた。今まで見たスローガンで、最も強烈だったのは、「今日、仕事に頑張らないと、明日、仕事探しに頑張ることになる」。上海人の友人の民営企業の現場に掲げられていた。

 

 

【回想録】

蓋州市の協力企業での製造指導までが、僕の駐在期限だったが、幸か不幸か中国側と仲介商社の要望で、設備完成までに延長された。僕の仕事が評価された反面、プロジェクトは、ますます深刻な状況になっていた。

 

中国側とは、大連港船上渡しの契約。遅延のペナルティは、契約金額×1%/日の減額である。(僕が決めた) 「中国側は、何が何でも納期を守ろうとする。」と書けば、聞こえは良いが、品質は蔑ろにされ、遅延原因を日本側に転嫁する論戦が始まった。

論戦と言っても“狐と狸の化かし合い”みたいなものだった。僕以外の日本人スタッフは、異口同音に“人間不信”と吐露した。中国側と僕は、中国ビジネスなんて、こんなものと思っていたので、打合せが終われば“ノーサイド”、食事に誘われれば、一緒に飲みに行った。(ほかの日本人は、「仕事以外では、顔も見たくない、Zhenに任せた」と言って欠席)

 

国慶節休みも中国側、日本側とも返上して頑張ったが、気温は下がり、硬化前に塗装表面の凍結が始まるため午後3時以降の塗装作業を中止せざるを得ないなど、天候にも泣いた。

「何でもいいから、とにかく日本に持って来い」といった日本側とも揉めた。日本側は、中日合作プロジェクトを半ば諦めていたが、僕ら日本人駐在員は、プロジェクトの失敗は、自らの存在の否定を認めることになるので、白旗を揚げる気はなかった。

「凍え死ぬまで、中国にいる気か!」と言う上司に対し、「中国からスクラップを輸入する気はありません。」と突っぱねるやり取りが、昨晩のことのように思い出される。

 

 

【Just Now】

アントニオ猪木氏死去に対する反響の大きさに驚いている。熱烈なファンに申し訳ないが、プロレスに興味のない僕は、彼のプロレスラーとしての偉大さ、政治家としての功績を理解していなかった。彼の姿を見ることが増えたのは、彼が闘病生活に入ってからのことだ。

 

ある女優は、ファンの心の中で、いつまでも若々しく美しい姿で生き続けるために若くして引退した。それが、彼女の美学だ。

 

競技に没頭する僕に「いつまで、競技を続けるんだ?」と父が言ったので、「自己ベストでゴールして、絶頂で引退する。」と返した。すると、「そういうものじゃないだろう。後輩に負け、ボロボロになって、引退するものだ。」 父の意外な言葉を今でも覚えている。

 

痩せ細り老いた姿をファンの前に晒せば、ファンの心のなかにいるリングの英雄を壊すことになるかもしれない。しかし、病魔と闘い続ける姿を晒すことが、真の燃える闘魂。最後まで、世界を元気にするために闘い続けたアントニオ・猪木氏に合掌!

 

 

旅は続く