Being on the Road ~僕たちは旅の中で生きている~

日常の中にも旅があり、旅の中にも日常がある。僕たちは、いつも旅の途上。

人民中国の残像/蓋州 第3回

2022-06-28 23:42:30 | 旅行

2005年の記録

北京オリンピック(2008年)以前の中国の記録を順不同でご紹介する「人民中国の残像」シリーズ。いずれもフィルムカメラで、1枚1枚丁寧にシャッターをきっている。

 

 

中国の街を散策するとき、僕は火車站(鉄道駅)、市場を目指す。なぜなら、そこには、猥雑な街角に喧騒の雑踏があるからだ。蓋州火車站までは、職場から超速足で15分。昼休みの散歩の往路は超速足、火車站と市場周辺を散策し、復路は輪タクで職場に戻った。

 

 

交通量の増加とともに信号機のある交差点に改修され、消滅するロータリー。当時は、クルマも少なく、のんびりと馬車が停まっていた。

 

 

“浪漫休閑珈琲屋”は、どうも個室で男女がイチャイチャするところらしい。上海人の部下も知らなかったので、中国東北部独特の施設か?

 

 

当時は、美容室の看板の大半が、浜崎あゆみ風美女だった。店舗前では、やる気があるのか、否か不明な店員が、おしゃべりをして店番をしていた。

 

 

中国の街を散策していると、同業の店舗が軒を連ねていることが多い。例えば、床屋が軒を連ねる。日本人の感覚だと、よりによって床屋の隣に床屋は開業しない。しかし、中国人の発想は逆だ。1軒ごとの規模が小さく、散在していると、「行って満員だったらと」考えられると、客足が遠のく。同業が軒を連ねることで、より多くの客が集まると考えるのである。日本人と中国人では、まったく逆の発想をすることもある。(床屋は、ハサミ一丁で一国一城の主になれることと、自宅にシャワーのない人がシャンプーのために頻繁に来店するので、日本と比較すると異常に多い。)

 

 

昼時の市場に行くと、総菜を売る店が目につく。裏手の調理場を見ると、神経質な日本人には耐えられない衛生状態だったりするのだが、「火を通しているので没問題!」と思えてしまう人には、リーズナブルな食事ができる。

 

 

市場を抜けると、建材商が軒を連ねるところに出た。建材の運搬には、馬が使われることが多い。ロバは、ゴミの回収や野菜の行商に使われる。蛇足ながら、中国人は、馬肉を食べないが、ロバ肉は、高級食材である。

 

 

【メモ】

あらかじめお断りしておくが、至極個人的な話である。

先週、先々週と旅仲間の先輩が続けざまに亡くなった。コロナ前までは、家族ぐるみのキャンプを年数回、30年以上続けた旅仲間の先輩である。旦那になる前、奥さんになる前、子供は生まれたときからの仲間、親戚みたいなものだ。

 

T先輩は、癌で入退院を繰り返していたものの1ヶ月前までキャンプに出掛けていた。亡くなる前々日には、病室とWebで繋ぎ、声を掛けた。そのT先輩の通夜のあとの会食をしていたときに僕と同い年の友人の1人から「明日の告別式に参列できなくなった」と電話があり、その10分後、「妻であるY子先輩が永眠しました」とメールが届いた。数日後、霊安室で亡くなったY子先輩(僕の大学の先輩でもあった)のご遺体と面会、その数日後に告別式に参列した。

 

T先輩の奥さんから呼ばれて、形見分けに行ってきた。僕と背格好が近い先輩だったので、ほぼ新品の衣類や靴ほかを受け取って欲しいというものだった。お洒落で、衣装持ちのT先輩の遺品は、山のようにあった。「衣類や靴など消耗品は、近々に使えなくなる。使えなくなっても、僕には処分できない。」と考えると、頂く気持ちにならなくなってしまった。(友人は、「使って傷んだら捨てる、それでもT先輩は喜ぶはずよ」といったが) 結論を書くと、ベルトと鞄、それにキャンプ用の食器と調理器具を頂いた。これらならば、「僕が死ぬまで、使えるかな」と思えたからだ。

 

ご存知のように僕はクリスチャンなので、魂は肉体も含めてモノに宿ることはないと思っている。先輩の魂は、僕の心の中にあり、形見の食器で食事をしたときに先輩を思い出せば、先輩は、僕の傍にいつでもいるのである。

合掌!

 

 

旅は続く


美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/東京散策倶楽部 第19回

2022-06-20 22:25:03 | 旅行

2022年の記録

前回に続き“外国の街を散策したい願望”に従い5月末に異国感じられる東京を散策した時の記録。

 

 

見せるために造られた街角であっても、良いと思ったものは、素直に受けいれる。

 

 

自由が丘は、都内でも僕にとっては最も疎遠なおしゃれな街である。東京ジャーミー、カトリック赤羽教会は、日常的に訪問する宗教施設である。

 

 

東京都目黒区自由が丘にあるラ・ヴィータは、水の都ベネチアの街を再現したスポット。ラ・ヴィータとはイタリア語で「生命」「人生」を意味する。レンガ造りの洋館や運河に浮かぶゴンドラ、グレーの石畳がある。

思っていたよりもこじんまりしていた。早朝に訪問した甲斐あって、人混みはなく、良い写真が撮れた。

 

 

東京ジャーミーは、東洋一美しいモスクといわれる宗教施設であるとともに日本ある“トルコ飛地”。ウクライナ戦争で、存在感をアピールするトルコであるが、ここ東京ジャーミーは、純粋にイスラムの正しい理解を広める目的とともに東京のイスラム教徒の拠り所でもある。

白亜のモスクは、青空に映え美しい。モスクの中に入ると、ひんやりと涼しく(エアコン完備)、清潔な絨毯にあお向けに寝て美しい装飾の天井を眺めていると、僕の心をサラーム(平安)にしてくれる。

 

 

ワラビスタンに最も近いカソリック教会(イエズス会系)が、カソリック赤羽教会(正式名称: 被昇天の聖母カトリック赤羽教会)。聖堂は1951年(昭和26年)である。

 

 

【メモ】

「日本経済再興の切り札は投資」みたいな言説が流布されているが、正直なところ、危うく感じる。

 

多くの日本人は、「額に汗する労働」への尊敬を過度に叩き込まれている。「士農工商」の最下位に位置づけられた「商」も「農工」と比較すると「汗する労働」から遠く、両替商は、しばしば悪者として、時代劇に登場する。欧州カソリック社会も同じで、カソリック教徒は金融業を禁止され、非カソリックのユダヤ人の多くが、金融業に従事していた。そのため、ユダヤ人は、排斥の対象にされた。

 

素人の資産形成のための投資の基本は、「長期、分散」である。世界の経済成長が継続することを前提にすれば、長期分散投資のリスクは限りなくゼロだ。

問題は、「長期」である。銀行の定期預金は、1年、3年、5年、10年といったところだ。それに対し、投資リスクを限りなくゼロする「長期」とは、10年以上である。その間には、景気や為替変動で、元本割れになることもある。それでも、動揺することなく、放置できる胆力が必要なのだが、その説明がない。銀行預金が、元本割れすることはないので、決定的に違う。

 

本業、副業を問わず投資を業とする人の投資は、ハイリスク・ハイリターンである。短期間に売買を繰り返さなくては、ハイリターンとならない。素人の資産形成投資とは、まったく別物だが、その点の解説もない。

 

僕は投資を否定しないが、「放置できる胆力」なしにプロを真似て、景気や為替の変動で、株式や債券をバタバタと売買を繰り返して、散財する人が現れるのが心配だ。

 

 

旅は続く


美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/東京散策倶楽部 第18回

2022-06-13 23:16:08 | 旅行

2022年の記録

“外国の街を散策したい願望”が抑えきれず、5月と6月に各1回、仕事帰りに汐留シオサイト5区イタリア街を散策した時の記録。

 

 

ライトアップされた白亜の建築物は、海外の雰囲気か?

 

 

汐留はオフィスの目と鼻の先、その気になれば、徒歩でも行けるが、サラリーマンの聖地・新橋までJRで行き、焼き鳥の煙を抜けてシオサイト5区へ向かった。

 

 

僕自身は、イタリアどころかヨーロッパにも行ったことがない。欧州、イタリアのオフィス街が、どんなものなのか知らないので、頭ごなしに「こういうモノだ」と思い込むしかない。

 

 

もう少し日が落ちると、ワインを飲む客が目立つようになる。店頭での飲食、コロナ禍で増えたけれど、やっぱりお洒落なチョイ悪オヤジとアンニュイなイイ女が似合う。

 

 

すっかり日が暮れ、白亜のライトアップとランプは、おしゃれな雰囲気。

 

 

【メモ】

日銀のおっさんのひと言で、20年来の円安・135円/$。

富裕層は、値上を受け入れたくなければ、高級スーパーから庶民派スーパーにくら替えする選択肢がある。しかし、庶民は、もともと最安値のスーパーで買い物しているので、鞍替えしたところで、どこも大差ないから鞍替えしないだけ。決して値上を受け容れている訳ではない。

この類の失言、本来は、封印されるはずなのだが、それをチェックする官僚が、暴力沙汰で辞任して、空席になっていたので、本音がリークされちゃったとか。まぁ、良くも悪くも、これが日本を動かす“お偉いさん”の発想なのだろう。

欧州の庶民は、実質的に値上を受け容れているみたいだ。食パン1斤分の小麦や光熱費が50円あがれば、今まで1斤150円の食パンは、200円になる。それを庶民は受容しているみたいだ。(ドイツ在住の友人と話していて知った) 日本では、作る数を減らして売れ残りロスを減らすとか、アルバイトを減らし、店主が長時間店頭に立つとか、まぁ、涙ぐましい企業努力をして、1斤180円に抑えることが、美談として語られる。逆にそれをやらずに50円まるまる値上すれば、「企業努力をしないのか!」と非難されることになる。ドイツの友人に言わせれば、「何の非もないパン屋の店主が、なぜ、苦労しなくちゃならないの?」ということらしい。このような話をすると、日本の友人は、「だって、給料があがらないんだから」と異口同音に言う。しかし、欧米では、物価があがると、労働者は、倹約に努力するのではなく、賃上に努力する。(賃上要求する) 人材の流動性が高い欧米では、給料があがらないと会社を辞める。労働者に辞められると事業を継続できなくなるので、経営者は、給料をあげて、その分、商品の値上をする。さらに物価があがる循環らしい。それでも、実質賃金は維持され、経済成長は持続するのである。一方、日本は、人件費と物価を中途半端に抑制するので、実質賃金は低下し、経済成長も鈍化する。もちろん、欧米人のみんながみんな、給料があがらなければ、景気の良い業界に転職できる器用な人ばかりではないので、アメリカの鉄鋼や自動車産業の現場労働者のような貧困層を生むのも事実だ。

海外製品は、原材料高騰、円安になれば、容赦なく値上する。一方、海外の富裕層は、日本人の涙ぐましい努力の賜物の値上抑制を「日本、安い!」と爆買いする。インバウンド消費を素直に喜んで良いものか? ちょっと複雑な気持ちだ。

 

 

旅は続く