北海道立北方民族博物館。網走市字潮見。
2022年6月16日(木)。
オホーツク文化は、3世紀から13世紀までオホーツク海沿岸を中心とする北海道北海岸、樺太、南千島の沿海部に栄えた海洋漁猟民族の文化である。この文化の遺跡が主としてオホーツク海の沿岸に分布していることから名付けられた。
このうち、北海道に分布している遺跡の年代は5世紀から9世紀までと推定されている。同時期の日本の北海道にあった続縄文文化や擦文文化とは異質の文化である。
道具としては、オホーツク式土器、石器、骨角器、木器がみられる。製鉄技術が無かったため金属製品は少なく、本州との交易で入手した蕨手刀が副葬品として少数見つかった程度である。実用品の装飾に動物の意匠を用いたほか、牙や骨で作った動物や女性の像が作られた。船の土製の模型から、オホーツク人が丸木舟ではなく構造船を建造していたことが分かっている。
海洋民族にふさわしく海獣など海に関連するデザインのものが多いが、もう1つ特徴的なのがクマの彫刻で、クマの全身像の他、クマの頭の彫刻をしたものもある。オホーツク文化の人々にとってクマは特別な動物であったようで、クマを崇拝する風習があったと考えられる。
オホーツク文化は土器の特徴にもとづいて、初期、前期、中期、後期、終末期の5期に区分される。
オホーツク文化の発生地は樺太南西端と北海道北端で、初期は3世紀から4世紀までで、土器の形式からは先行する鈴谷文化を継承している。そこから拡大して北海道ではオホーツク海沿岸を覆い、樺太の南半分を占めた。この5世紀から6世紀を時期を十和田式土器に代表される前期とする。中期は7世紀から8世紀で、活動領域はさらに広く、オホーツク文化の痕跡は東は国後島、南は奥尻島、北は樺太全域に及んでいる。9世紀から10世紀の後期には、土器の様相が各地で異なる。終末期の11世紀から13世紀には土器の地域的な差違がさらに明確化する。
オホーツク文化は北海道土着の擦文文化の拡大とともに接触を持つ。その時期は擦文文化中期(約10世紀)のことで、接触の要因は自然環境の変化、社会・組織の内的変化、大陸情勢など外的変化が考えられ、異文化との接触が次第に勢力を弱めた。遺跡の分布も海岸地域から河川流域に移り、住居も両文化の特徴を併せ持っていく。土器は擦文土器に似ている。文様はオホーツク式に特有のソーメン状の貼り付け文と擦文土器の沈線文が施されるようになる。
約13世紀には擦文文化人の中に混ざりあって消えてしまったと考えられ、擦文文化とオホーツク文化の融合したこの文化をトビニタイ文化と称している。
「モヨロ貝塚」は、7世紀~8世紀頃の代表的な古代オホーツク文化の集落遺跡で網走川の河口にあり、「オホーツク文化」の存在が日本で初めて明らかになった遺跡である。
オホーツク文化の人々は擦文文化の人々とは全く異なる土器を作っていた。典型的なものは口の広い壷形で、細長い粘土紐を使った装飾文様が付けられていた。この細長い粘土紐はその形状が素麺(そうめん)を連想させることから「ソーメン文」・「ソーメン状貼付文」などと呼ばれている。擦文土器と違って土器のデザインに動物のモチーフが現れる場合があるのも特徴的で、ソーメン文に加えて海鳥など動物形の模様が付けられている土器のあることが知られている。
9世紀に北海道北部では擦文文化の影響が強まり、オホーツク文化は消滅した。同じ頃、北海道東部ではオホーツク文化を継承しながら擦文文化の影響を受けたトビニタイ文化が成立した。樺太ではオホーツク文化がなお続き、アイヌ文化の進出によって消えたと考えられるが、その様相ははっきりしていない。
トビニタイ文化の時代に擦文文化の要素はさらに強くなり、両方の文化要素の混在が見られるようになった。また、後のアイヌ文化の中には、熊の崇拝のようなオホーツク文化にあって擦文文化にない要素がある。そのため、この方面のオホーツク人は、擦文文化の担い手とともにアイヌ文化を形成したと考えられている。アイヌは和船のような構造船(イタオマチㇷ゚)を使っていたと推察されるが、これもオホーツク文化の影響ともされる。
オホーツク文化では、墓の作り方にも独特の習慣があった。死者の顔に土器をかぶせて埋葬する風習が広く行われており、オホーツク人の墓を発掘すると上下ひっくり返った状態の土器が見つかる。
死者は基本的に屈葬された。しかし、目梨泊遺跡の人々は伸展葬の伝統を持ち続けた。
副葬品として、刀剣類や装身具などがしばしば発見されている。そうした品々の多くはオホーツク人が自分たちで製作したものではなく、周辺地域との交易によって入手したもので、刀剣類の多くは東北地方から来たものと考えられ、一方、銀製耳飾などの装飾品にはしばしば大陸に由来するものが含まれている。海洋民族としての能力はこうした広い地域との交流にも遺憾なく発揮されていたと考えられている。
この地域での稲作は当時は技術的に不可能であり、北海道北部と樺太では漁業に、北海道東部では海獣を対象とした狩猟におくなど海に依存して暮らしていた。流氷の影響を受ける道東が冬の漁業に適していなかったためと考えられている。秋にホッケ、冬にタラ、春にはニシンなどの海水魚類を対象とした網漁が行われた。アザラシ、オットセイ、トド、アシカなどの海獣も冬に得られた。夏にはカサゴ・ソイなど様々な魚を獲ったが、その量は冬より少なかった。遺物に描かれた絵から捕鯨を行っていたこともわかっている。
また、弥生時代以降の本州と同様に家畜である豚と犬を飼い、どちらも食用にしていた。道東では豚飼育は低調だった。また、熊(ヒグマ)をはじめとして様々な狩猟獣を狩った。そこでは毛皮獣の比重が高く、交易用の毛皮を入手するための狩りと考えられている。
集落は海岸のそばに置かれた。住居は竪穴建物であるが、木材や土で補強し床には粘土を敷くなどの工夫が見られた。大規模住居は中心集落では複数の家族が生活できる大型の住居と、一つの核家族で暮らしたと思われる小型の住居があった。
オホーツク人は、秋から春までは中心集落に住んで共同で大規模な漁を営み、漁が低調になる夏には各地の海岸に分散したと考えられている。住居の奥に動物の骨を並べる風習があった。並べられた動物は様々だが、特に熊が重要視されていた。熊の重視は、道具類の意匠にも見られる特徴である。
起源と末裔
海獣狩猟や漁労を中心とする生活を送っていたオホーツク文化の担い手を、オホーツク文化人、また単にオホーツク人と呼ぶ。『日本書紀』に現れる粛慎と考える説がある。この説では、658年から660年で阿倍比羅夫が行ったとされる粛慎の討伐地を北海道のいくつかの地域であると仮定し、それら地域ではオホーツク文化の遺跡が発掘されている事から、オホーツク人=粛慎としている。
オホーツク文化には大陸系文化の影響が明確に認められ、同文化のアムール流域靺鞨族の直接移住説をはじめ多くの大陸起源説、影響説が提出されている。
オホーツク人の系統については、文献と考古学的証拠が少ないことから論議があった。現在のところ、大陸からの直接的な移住者が形成したものではなく、鈴谷式土器の時代(紀元前1世紀から紀元6世紀)から樺太に住んでいた人々の中から生まれた文化で、下って現在のニヴフ人につながるとする説が有力である。他に、靺鞨同仁文化のような大陸の文化や、古コリャーク文化、トカレフ文化のようなオホーツク海北岸の文化との類似性が指摘される。
推定されるアイヌ語の起源と拡散。
最近の研究によると、アイヌの起源とアイヌ語の拡散に、オホーツク文化が大きな影響を与えたとされる。
オホーツク人の遺伝子。
モヨロ貝塚を中心とする北海道のオホーツク文化遺跡で発見された人骨が、現在では樺太北部やシベリアのアムール川河口一帯に住むニブフ族に最も近く、またアムール川下流域に住むウリチ、さらに現在カムチャツカ半島に暮らすイテリメン族、コリヤーク族とも祖先を共有することがDNA調査で2009年にわかった。
近年の研究で、オホーツク人がアイヌ民族と共通性があるとの研究結果も出ている。オホーツク人のなかには縄文人には無いがアイヌが持つ遺伝子のタイプであるmtDNAハプログループY遺伝子が確認され、アイヌ民族とオホーツク人との遺伝的共通性も判明した。アイヌ民族は縄文人や和人にはないハプログループY遺伝子を20%の比率で持っていることが過去の調査で判明していたが、これまで関連が不明だった。