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読書メモ「古代氏族の研究4 大伴氏 列島原住民の流れを汲む名流武門」(宝賀寿男、2013年)

2024年11月30日 08時38分49秒 | 歴史

「古代氏族の研究4 大伴氏 列島原住民の流れを汲む名流武門」(宝賀寿男、2013年)

2 佐伯氏 久米氏

佐伯連大伴金村の弟・御物が祖。平安時代、今毛人が三位参議。伴氏・佐伯氏は宮門の開門職を南北朝まで務めた。越中立山の佐伯氏の祖は越中守佐伯有若ではなく、佐伯広足の孫・赤麻呂、浄継、河雄の系統。なお、空海の佐伯直氏応神天皇の弟の後裔である播磨国造の一族。佐伯部は蝦夷の俘囚を管理する職で、佐伯直氏は佐伯連のもとで地方の佐伯部の管理にあずかった。

 

大伴氏族の神社。山城葛野郡の伴氏神社(現在は右京区の住吉大伴神社)。河内志紀郡の伴林神社。佐伯連支族林連。信濃佐久郡の大伴神社滋野氏・真田氏は大伴氏の可能性

信州安曇郡の仁科氏は大伴姓を称す。飯縄明神、戸隠権現は犬狼信仰

 

久米氏クメは熊・狗奴・クメール人に通じ、弓矢に長じた狩猟民族的な山人。大伴・久米両氏は、崇神前代の3世紀後半に分岐した。久米氏族は大和高市の久米からは早い時期に姿を消し、和邇氏や蘇我氏の支族がその地に入り、蘇我支族の久米氏(久米朝臣)を出した。旧来の久米氏は久米直・連を姓とした。久米奈保麻呂の娘・久米連若女(わかめ、780年没)は藤原宇合の子・百川を生む。

久米直の祖は倭建命の遠征に随行した七拳脛(ななつかはぎ)。尾張愛智郡氷上姉子神社祀官家は七拳脛の弟の八甕(やみか)の後裔、山田郡・愛智郡の郡領家

同族の6国造淡道(淡路)大伯(備前邑久郡)、吉備中県久味(伊予久米郡)、阿武(長門阿武郡)、天草(肥後天草郡)。

吉備中県家の後裔は美作の立石氏、漆間氏(浄土宗祖・法然)ら。漆部(ぬりべ)連伯耆(鳥取県)羽衣石(うえし)城主の南条氏も同族。物部連に混入された。曽祢連も同様で、本来は久米氏族。平安中期の歌人曽祢好忠

久味国造の後裔。伊予の守護河野氏の重臣大野氏。大伴家持の弟の後裔と称した。伊予の曽根氏、三好長慶一族も同族阿波の久米氏は伊予喜多郡久米庄からの来住。摂津島上郡の芥川氏も三好一族。淡路の安宅氏、讃岐の十河氏も同族。

 

山部連も伊予の久味国造の後裔で、朝廷の山部を管掌した。5世紀後半に仁賢・顕宗兄弟を播磨で発見した伊予来目部小楯の功績により山部連姓を賜る。藤原鎌足の父・御食子の母は山部連歌子の娘。延暦4(785)年、桓武の諱を避け山宿祢になった。山部氏は門号氏族で陽明門を守った。万葉歌人の山部赤人を出す。子孫は播磨に土着し、三木氏、淡河氏となる。

 

紀伊氏族は大伴・久米と同族。天御食持命の後裔で、紀国造家となる。神武以前に大伴氏族を分岐した。平安朝に武内宿祢後裔と称する紀朝臣家からの入嗣があった。同族とみられる吉野の国栖と通婚して丹生祝を出した。支流には滋野朝臣がある。地方の国造では葛津立国造(肥前藤津郡)、石見国造


読書メモ「古代氏族の研究4 大伴氏 列島原住民の流れを汲む名流武門」(宝賀寿男、2013年)

2024年11月29日 08時23分08秒 | 歴史

「古代氏族の研究4 大伴氏 列島原住民の流れを汲む名流武門」(宝賀寿男、2013年)

1 大伴氏

源流は今のクメール族や苗族で、アジア大陸北方から南方に移動し南蛮といわれた。日本列島での始祖はカグツチ。火神迦具土。縄文時代に日本列島で原始的な焼畑農業を営んだ山祇族隼人、蝦夷、土蜘蛛、国栖、佐伯、八束脛なども同族で、縄文人の主体。狩猟に長じ、弓矢を得意にした。中臣氏も山祇族で、蘇我入鹿殺害のとき中臣鎌足は後方で弓に矢をつがえていた。山祇族のトーテムは犬狼愛宕神社の火神カグツチ、月神奉斎、九頭竜神、大国栖御魂神、天手力男神を信仰。北九州若松の戸明神社、長野の戸隠神社手力雄神を祀る。

 

祖先は筑前夜須郡か肥前基肆郡あたりにいた。天岩戸を開けたとされる天手力男命(天石門別命、手力男、手力雄命)は大伴氏祖・道臣命の5代前にあたる。天孫族のニニギが筑前怡土に移ったとき、大伴氏の先祖も同行神武より先に、畿内・紀伊に移住した紀伊国造氏族の一支族が大伴氏

 

神武天皇の東征のさい久米部を率いて貢献した道臣命人代初祖とする。道臣命の原住地は紀伊名草郡(和歌山市一帯)。道臣命は古事記では大久米命の名で登場する。目の周りに入れ墨をしていた。名草郡の族長たちは紀伊国造氏族で、名草戸畔が神武に討たれると、残る紀国造の祖・天道根命ら一族族長たちは神武に降った。紀伊名草郡の大伴連同族では、宇治大伴連、大伴櫟津連、大伴若宮連、榎本連(のち熊野新宮三家の一)がある。

神武が初めて政務を行なったとき、道臣命は諷歌・倒語をもって妖気を払い大伴氏の宮門警衛の由来となった。大伴氏は各地から上番する人々の管理、軍事・警衛を主とする職掌をもち、靫負部や久米部、佐伯部を率いて天皇警固と宮門警備を担った。大伴とは朝廷に仕えた多くの伴を率いた統率者を意味する。物部氏は物(武器など)の管理を所管し、国軍・警察的な色彩がより強かった。

 

大伴氏の武日命は垂仁朝に武渟川別命らとともに大夫に任じられ、倭建命の東征に従軍した。武日命の弟に乎多弖(おたて)命がおり、陸奥小田郡に留まって蝦夷に対峙し、靫大伴部、丸子部ら後裔の一族を分布した。丸子部の裔が奈良時代に陸奥大国造となった道嶋宿祢嶋足の一族。

崇神朝の各地平定での指揮官は少彦名神系統の氏族(山城・鴨県主→三野前国造一族→三河加茂郡の松平氏)で、大伴・久米氏が指揮官になったのは景行朝の遠征が初めて。大伴武日命の一族はその子の健持の名が現れるだけで仲哀朝の大伴武以、允恭朝の室屋まで正史から姿を消す

 

道臣命は神武から大和高市郡の築坂邑(畝傍山周辺)に宅地を賜った。道臣命以降の居住地は橿原神宮の南方にあり、近隣や紀伊に支族を分出した。新沢千塚古墳群は大伴・久米両氏に関係する。新沢茶臼山古墳(500号墳)の被葬者は武日命、または健持か。三角縁神獣鏡は4世紀中頃に倭建命が征討に合わせて配布したもの。紀伊那珂郡の粉河寺は大伴連孔子古が開基。その後裔が和佐氏・和佐大八郎

 

大伴談(かたり)は紀小弓と新羅に派遣され、戦死した。両氏は起源が紀伊にあると雄略が語る

宮城12門を警衛する門号氏族大伴氏、佐伯氏、山部氏(久米氏族)、壬生氏(大伴氏族)、的臣氏(葛城臣氏族)、玉手臣氏、建部君氏(倭建命後裔)、若犬甘氏・伊福部氏・丹治比氏(尾張氏族)、猪使氏(安寧天皇後裔)、海犬甘氏(安曇氏族)。

大伴金村は欽明期に任那割譲の責任を物部尾輿に糺問されて失脚。その五人の子のうち阿被布子の流れが主流となる。奈良時代の政争で没落桓武時代の藤原種継暗殺事件関与で大伴継人は死刑、家持は死後除名。両者の子は流罪。伴善男の失脚後、家持の曾孫・伴保平が参議・大蔵卿。その弟の保在の後裔は下級官人。

 

大和の雄族・越智氏は大伴氏の可能性。伊豆の伴氏は善男の後裔と称す。その後裔に住友氏

ヤマトタケルの征路。相模、房総など東国の丸子氏は大伴一族。三河の幡豆・八名・設楽郡。書紀に「三河大伴(部)直」。郡司クラス。伴助兼設楽氏、富永氏、夏目氏夏目漱石も。土井利勝

甲賀の伴氏三河伴氏から平安末期に分かれ、大原・上野・伴・多喜氏、滝川一益、池田恒興、山岡道阿弥大隅の肝属氏肥後・葦北国造一族の大伴部の後裔。刑部靫部、百済生まれの日羅

相模の波多野氏は佐伯経範の子孫。松田氏も。


読書メモ「古代氏族の研究 中臣氏 ト占を担った古代ト部の後裔」宝賀寿男 2014年

2024年11月28日 07時44分41秒 | 歴史

古代氏族の研究 中臣氏 ト占を担った古代ト部の後裔 宝賀寿男 2014年

 

原日本人の主体を縄文人とか「山祇族」(やまつみぞく)とよぶ。この種族は、いまのクメール族(カンボジア人)中国古代の三苗とか苗族と呼ばれる人々に類似の要素が見られ、本来、アジア大陸北方に居住していたが、次第に南方に居を移して、中国古代の南蛮と呼ばれるものの主力を構成していたものとみられる。この後裔諸氏は、中臣連伴連・久米直・紀伊国造(紀直氏。紀臣氏は天孫族)などを代表とする。山祇族は火や月を神格化する。月神信仰。月読神社

 

中臣氏の遠祖は、火神カグツチ、タケミカヅチ建御雷神で、建御雷神と子の天児屋根命一族は筑後川中流域の現・久留米市域にあった「高天原」(邪馬台国の前身)に住み、「高天原」国の博多平野・葦原中国(海神族)攻略に携わった。

中臣氏族の祖たち。天児屋根命天孫降臨(高天原へ本拠地移遷)のときニニギノミコトに随伴した五伴緒(とものお)の一人。その後裔、AD2世紀第4四半期頃、神武東征に随行した天種子命崇神天皇期に卜占をした探湯主垂仁天皇期の重臣で祭祀を担当した大鹿島命

中臣一族は広く神祇及びト占関係の職務について朝廷に仕えた。

 

神武東征と天種子命、他氏族。

天種子命は高天原の支国・筑前「日向」(福岡市西部・糸島市域)あたりから神武東征に付き従ったもので、大和王権成立以前からの数少ない臣下であった。鹿占により、宮都を畝傍山北麓の橿原に選定した。

天孫族・物部氏の先祖は先に大和に在って、神武が大和入りしたときに長髄彦を討って降伏した。海神族・三輪氏の先祖も大和先住で神武方に転じた。海神族・倭国造の先祖珍彦は播磨灘あたりで神武に従って海上の道案内をした。山祇族の大伴氏・紀伊国造の先祖は先に紀伊に入っていて、紀ノ川河口部の名草郡で神武に従った。

 

天日別命は天種子命の兄弟で、伊勢国造の祖。神武の大和入りのとき、伊勢に行って伊勢津彦を鎮定した。伊勢津彦は天孫族で出雲国造や物部氏と同族、後裔は相模・武蔵の国造

伊勢国造伊勢北部を領域とし、中臣伊勢朝臣、伊勢朝臣となる。平安前期の伊勢朝臣老人(おとな)の娘・継子平城天皇の妃となり、高岳親王を生む。室町幕府執事の伊勢氏は実際には後裔。

 

中臣氏の初期の分出支族(崇神前代の頃まで)。

天種子命の子で春日県主の祖・大日諸命。春日一族からの天皇妃が数人おり、春日県主のほうが中臣氏の本宗だったか。天種子命の3代後の伊賀津臣命のとき、兄弟に恩智神主、添県主、長柄首。次代に伊香連など、次代に飛鳥連、狭山連伊豆・武蔵・常陸の卜部の祖。

 

近江の伊香連。天孫族の三上祝は、鍛冶部族・額田部連、凡河内国造、山背国造と同族で祖神は天目一箇命で物部氏とも同族。三上祝と初期中臣氏が通婚し、伊香連が生まれる。伊香具神社を祀る。神奈備山は賤ヶ岳で香具山とよんだ。築造した古墳群が古保利古墳群前方後方墳の小松古墳は4世紀前半の築造。

 

初期中臣氏の本拠。崇神前代までは大和の香具山周辺。4世紀半ばから、大和北部の添郡を経て、生駒西方の河内・枚岡あたりに展開。平岡連となる。地域豪族の平岡連と伴造の中臣連の2系統に分かれ、本来は河内の平岡連の系統のほうが本宗家的な存在であったことも考えられる。

 

「イカツ」は三人いた伊香津臣命。雷大臣命(跨耳命)。烏賊津使主。雷(いかづち)の神を山祇族は崇敬した。タケミカヅチも同じ。鳴神、霹靂(へきれき)も同じ。

スサノヲ神の乱暴行為に関して、天児屋根命・布刀玉(ふとだま)命(忌部の祖神)を召し、天香具山の朱桜(波々迦ははか)の木で牡鹿の肩の骨を灼いて占いをした。卜骨では鹿が多く使用され鹿占(しかうら)とよばれた。亀占は後世に伝来し、大宝令で卜部が置かれ、そのなかに中臣一族で伊豆出身の卜部平麻呂がおり(のちに吉田氏となる)がいた。

 

中臣氏族の本宗家中臣連姓を負う以前はト部(占部)姓を負った。

応神・仁徳朝。允恭期の舎人・中臣イカツオミ。異系(天孫族・宇佐国造・息長氏族)の応神による皇位簒奪。欽明期中臣連鎌子。物部尾輿とともに排仏派敏達・用明朝に崇仏・排仏論争がらみで、物部本宗家とともに衰滅した中臣勝海連の家が中臣氏族の本宗家とみられる。

大化前代にはこれに替わって常盤(勝海と近い同族)の流れが本宗家となり、なかでも大化改新時の功績により藤原姓を賜った鎌足の家が本宗家となった。鎌足の祖系の通婚先は久米氏系の山部連や物部連支族などで、鎌足の父まで二流豪族に位置づけられる。鎌足の最初の妻は上毛野君一族の車持君の娘で中下流の豪族に過ぎない。

藤原の姓は、鎌足の生地大和国高市郡藤原郷(橿原市)に因む。藤原京に近い地。中臣氏祖神を山頂に祀る天香具山の西。曽祖父の常磐以降の本拠地。

 

中臣家。近江朝廷の右大臣・中臣金連は三門・糠手子の子で、鎌足没後の族長的存在。左大臣の蘇我赤兄に次ぐ高位であったが、近江朝の敗戦時に斬首され、三門系は衰退した。

嫡流は二門系となる。意美麻呂は鎌足の女婿。子の清麻呂は右大臣となり、大中臣姓を許される。清麻呂六男の今麿の流れが嫡流となる。子孫は神祇伯・大副をつとめる。神祇伯輔親の娘に彰子(道長の娘)に仕えた歌人の伊勢大輔がいる。

輔親の5世孫の親隆(鎌倉初期)以降は、その後裔のみが祭主を独占し、大中臣家の宗家となり、のちに伊勢祭主家で堂上公家の藤波氏となる。

御食子連後裔の一門も、鎌足の弟、垂目の流れから春日神主家及び伊勢大宮司家河辺氏を出した。

 

氏神は大和国添上郡の春日大社祠官は大中臣朝臣、中臣殖栗連)、河内国河内郡の枚岡神社(祠官は平岡連)を中心として、一族の神社祠官家として、恩地神主(河内国高安郡恩地神社)、卜部宿祢(京の平野、吉田、梅宮社)、中臣鹿島連(常陸国鹿島神社)、神奴連(摂津国住吉郡中臣須牟地神社、武庫郡西宮神社)、中臣宮処連(摂津国八部郡長田神社)、大中臣朝臣(伊勢神主、遠江国浜名郡英多神社)等を輩出している。

 

大鹿島命(垂仁期)・巨狭山命(景行期)の後裔。中臣鹿島連(鹿島大宮司)。

和泉。大鳥連。和太連。和田氏

 

下総の香取神は少彦名神で天孫族。忌部首・鴨県主や伊豆国造・知々夫国造・香取連・服部連・弓削連・矢作連の祖で、中臣氏本宗家や常陸卜部には伊豆国造の血も女系を通じ入っている

度会神主は丹波国造・海部直の支族。荒木田神主家は少彦名神系統・服部連の同族。


「N国党は反社会的カルト集団」とSNS投稿 名誉毀損で訴えられたライター勝訴 東京地裁

2024年11月27日 21時19分48秒 | 社会

「N国党は反社会的カルト集団」とSNS投稿 名誉毀損で訴えられたライター勝訴 東京地裁

Yahoo news  2024/11/27(水) 弁護士ドットコムニュース

 

記者会見を開くちだい氏(左)と代理人弁護士(2024年11月27日、司法記者クラブで、弁護士ドットコムニュース撮影)

 

全国の選挙を取材している選挙ウォッチャーちだい(本名・石渡智大)氏(46)が、「NHKから国民を守る党」(代表・立花孝志氏)を「反社会的カルト集団」などと表現したことに対して同党が名誉を毀損されたとして160万円の損害賠償を求めた裁判で、東京地裁(裁判長:阿部雅彦)は11月27日、N国党の訴えを退けた。

 

今夏の東京都知事選をめぐって発言

判決文などによると、2024年6月から7月にかけてあった東京都知事選で、「NHKから国民を守る党(N国党)」は24人の候補者を擁立した。

これに関連して、ちだい氏は2024年6月、X(旧ツイッター)や動画配信サイトで、以下のような投稿や発言をした。

 

<今日も反社会的カルト集団『NHKから国民を守る党』が展開しているポスター掲示板のショバ代ビジネスについて、無料で記事にしていきます。メディアや警察の皆さんに、背景などをしっかり理解していただきたいので、少なくとも、あと数日はポスターの話をしていきます。>

尊師っていうのも、教団幹部とか言ってるけど、出家信者とか言ってるけど、だってこいつらもう、物の善悪の判断がつかないんだよ。サリンをまかないオウムと一緒なんだから、ほとんど。内容としては、サリンをまくほどの知識とか知能はないから、だからサリンをまかないオウムみたいなもん。危ない奴らの集団であることは間違いないですね、N国って>

 

ちだい氏のこれらの投稿や発言に対して、N国党は「原告が、原告と対立している人、原告を裏切った人やその家族を大量に殺害する危険な宗教団体であるという事実を摘示して、原告の社会的評価を低下させるものである」などと主張した。

 

東京地裁「意見や論評の域を逸脱していない」

この日、東京地裁の阿部裁判長は判決で、「反社会的カルト集団」などの表現について、「原告について、違法と評価される行為を平然かつ盲目的に次々と行う集団又は団体であると述べていると解される」などとし、「原告に係る特定の事実を摘示したものとは認められず、意見あるいは論評を表明したものと認められる」と判断した。

そして、N国党について不法行為に該当するサービスを一般市民に向けて提供し、以後も法律を守らずに活動を行っていくとの発言をしていた」ことなどに触れた上で次のように述べてN国党の請求を棄却した。

「いずれも原告の社会的評価を低下させる意見あるいは論評の表明であり、原告の名誉を毀損するものであるが、公共の利害に関する事実に係り、その目的が専ら公益を図ることにあり、その前提としている事実が重要な部分について真実であると認められるものであり、かつ、意見あるいは論評としての域を逸脱したものとはいえないことから、違法性を欠くものと認められる」

 

代理人「面白いと思って追従すると引きずり込まれる」

判決後に記者会見を開いたちだい氏は、「世の中の方に『NHKから国民を守る党』がいかに反社会的であるかということが伝わればこの裁判も意味があると思う。訴えられるたびに、(N国党が)反社会的な人たちですよということを伝えていきたい」と話した。

 

代理人の石森雄一郎弁護士は、N国党について「一見面白いと思ってそれに追従していくと、いつの間にか自分たちも民法上の不法行為とか、場合によっては犯罪行為にまで及んでしまうことに引きずり込まれてしまう。この一端が判決の中に短いながらも認定されていることはとても意義深い」と述べた。

 

「N国は反社会的カルト集団」の投稿、違法と認めず 東京地裁判決

2024年11月27日  朝日新聞 根岸拓朗

 

兵庫県知事選が告示され、集まった人たちに演説をする立花孝志氏=2024年10月31日午前10時37分、神戸市中央区

 「NHKから国民を守る党(立花孝志党首、N国)」について、X(旧ツイッター)で「反社会的カルト集団」などと投稿したのは名誉毀損(きそん)だとして、N国が投稿者に損害賠償を求めた訴訟で、東京地裁(阿部雅彦裁判長)は27日、N国の請求を棄却する判決を言い渡した。

 

 問題とされたのは、N国に関する著書がある「選挙ウォッチャーちだい(本名・石渡智大)」さんの投稿。今年6月、自身のXアカウントで「反社会的カルト集団である『NHKから国民を守る党』」と投稿したほか、配信動画でN国について「サリンをまかないオウムみたいなもん」などと発言した。

 

 判決は、過去に立花党首がNHKの業務を妨害したなどとして有罪判決を受けた

▽NHK受信料の請求書を視聴者の代わりに受け取り、不払いをしやすくするサービスを始めた

党の役員会で「法律を守らない政党であるということを売りにしたい」などと述べた

▽動画投稿サイトで「アホみたいに子どもを産む民族はとりあえず虐殺しよう」と発言した

――ことなどが真実だと指摘。「反社会的カルト集団」などの表現は「論評の域を逸脱していない」としてN国の訴えを退けた。(根岸拓朗)


東京国立博物館・埴輪展②今城塚古墳出土埴輪 埴輪の変遷

2024年11月27日 11時00分19秒 | 東京都

東京国立博物館「挂甲の武人 国宝指定50周年記念特別展「はにわ」」。

2024年10月29日(火)。

 

第2章 大王の埴輪

ヤマト王権を統治していた大王の墓に立てられた埴輪は、大きさや量、技術で他を圧倒しています。天皇の系譜に連なる大王の古墳は、時期によって築造場所が変わります。古墳時代前期は奈良盆地に築造され、中期に入ると大阪平野で作られるようになります。倭の五王の陵(みささぎ)としても名高い、大阪府の百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群は世界文化遺産に登録されています。そして後期には、継体(けいたい)大王の陵とされる今城塚(いましろづか)古墳が淀川流域に築造されます。本章では、古墳時代のトップ水準でつくられた埴輪を、その出現から消滅にかけて時期別に見ることで、埴輪の変遷をたどります。

家形埴輪 大阪府高槻市 今城塚古墳出土 古墳時代・6世紀。大阪・高槻市立今城塚古代歴史館蔵。

3つのパーツを組合せてつくられた巨大な家形埴輪で、屋根の上部と床下の高床部分が別づくりになっています。屋根の上には現代の神社建築にも通じる千木(ちぎ)と鰹木(かつおぎ)がのせられており、大王にふさわしい建物であることがわかります。

第3章 埴輪の造形

埴輪が出土した北限は岩手県、南限は鹿児島県です。日本列島の幅広い地域で、埴輪は作られました。それらの埴輪は、当時の地域ごとの習俗の差、技術者の習熟度、また大王との関係性の強弱によって、表現方法に違いが生まれています。その結果、各地域には大王墓の埴輪と遜色ない精巧な埴輪が作られる一方で、地域色あふれる個性的な埴輪も作られました。ここでは各地域の高い水準で作られた埴輪や、独特な造形の埴輪を紹介します。

重文 埴輪 天冠をつけた男子 福島県いわき市 神谷作101号墳出土 古墳時代・6世紀。

福島県蔵(磐城高等学校保管)。

美豆良(みずら)を肩まで垂らしたヘアスタイルに、両手を前に捧げ胡坐(あぐら)をかいて座る端正な顔立ちの男性です。三角形の冠のひさしの先端には7つの鈴が上下に揺れています。左腰には大刀と弓を射る時の防具である鞆(とも)を下げた盛装のいでたちです。衣服や冠、頬は赤く彩色されており、威儀(いぎ)を正し拝礼する若き王の姿をほうふつとさせます。

東京国立博物館・埴輪展① 埴輪 踊る人々 江田船山古墳・国宝・金製耳飾 ・金銅製沓