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読書メモ 「謎の大王 継体天皇」(水谷千秋、2001年)

2024年09月16日 09時00分36秒 | 歴史

「謎の大王 継体天皇」(水谷千秋、2001年)。

 

大和から遠く離れた地に生まれ異例の形で即位した天皇。そしてその死も深い闇に包まれている。現代天皇家の祖はどんな人物なのか。武烈天皇が跡継ぎを残さずに死んだあと、畿内を遠く離れた近江・越前を拠点とし、「応神天皇五世の孫」と称する人物が即位した。継体天皇である。この天皇にまつわるさまざまな謎―血統・即位の事情、蘇我・物部・葛城などの大氏族との関係、治世中に起きた「筑紫君磐井の乱」との関わり、「百済本記」に記録された奇怪な崩御のありさまなどを徹底的に追究し、さらに中世の皇位継承にその存在があたえた影響までをも考察。

 

継体期前後の5世紀後半から6世紀前半は転換期。中央の有力豪族をメンバーとする合議制的な政治体制を作った。王族も母方の親族に依存する体質から、父方同士の紐帯を深め、自立した親族集団へんと変貌した。

 

雄略天皇は履中天皇の子の市辺忍歯別皇子を殺害。履中天皇の娘または孫娘が飯豊皇女。雄略の子の清寧が亡くなると、皇子がいなくなった。飯豊皇女が天皇となった可能性。市辺忍歯別皇子の子で播磨に隠れていた顕宗・任賢が即位。

 

息長氏と継体天皇は応神天皇・若野毛二俣王・意冨冨杼王を同祖とする(古事記)。若野毛二俣王か意冨冨杼王の時代に大和・河内を離れ近江坂田郡に土着したのではないか。傍系王族は地方に土着し某王と名乗っていた。7世紀前半の舒明朝以降に君姓を名乗る氏族となる。

武烈崩御時に、仁徳系王統男子は断絶したとされるが、実際には存在した可能性がある。

 

「応神天皇五世の孫」否定説。ホムタワケではなくホムツワケ(垂仁の皇子)であり、これは世代的に不自然となる。筆者は王族が大王となる観念が当時存在したので継体は王族とみる。履中系と允恭系の二つの王統。

 

継体の大和入りを拒んだ勢力は仁徳系王統の一部と葛城氏か。葛城氏は6世紀前半に没落し、蘇我氏が台頭する。蘇我氏は継体の大和入りに協力した。

 

継体の死後、政変が起きたか。すでに譲位されていた安閑とその皇子が殺害された可能性。宣化・欽明が手を結び、先に宣化が即位した。安閑は物部氏支流と親しかった。安閑没後、母方の尾張氏の勢力が低下した。中央豪族の合議政体が進展。大王専制や地方豪族を否定する体制。