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山形県高畠町 旧高畠鉄道高畠駅舎

2024年09月29日 11時20分42秒 | 山形県

旧高畠鉄道高畠駅舎。山形県高畠町高畠。

2024年9月7日(土)。

道の駅「たかはた」近くの高畠町郷土資料館は9時30分開館なので、その前に阿久津八幡、旧高畠駅、羽山古墳を見学することにした。阿久津八幡を見学後、高畠市街地にある旧高畠駅へ向かった。観光マップで指定された市街地の交差点まで来たが、ドラッグストアがあるだけで駅舎はない。地元民2人に尋ねると、北東方向近くの交差点からアクセスすることが分かり、交差点から進入すると道路の奥に駅舎が見えてきた。駅舎横の駐車スペースに駐車した。8時30分頃だったが、散歩する家族連れやジョギングの男女などがいた。

旧高畠鉄道高畠駅舎は、石造、一部鉄筋コンクリート造。東西約15m、南北約6mの2階建。高畠駅は、奥羽線と高畠町を結ぶために作られた高畠鉄道の中心駅であった。昭和9年に木造駅舎から建て替えられ、本社の機能を併せ持った施設である。設計は鉄道技師の長島多吉、施工は地元の石工があたった。

外壁の柱型や開口部に用いるアーチ積,屋上手摺(てすり)などに洋風意匠を見せる。

本屋は町内の瓜割石庭公園から採掘された地元特産の高畠石とよばれる黄土色の凝灰岩を主構造材とするが、梁、スラブには鉄筋コンクリートを併用し、地方における鉄筋コンクリート造の初期の事例としても価値が高い。特徴ある黄色みがかった色彩と造形の外観は、地域のランドマークとして親しまれている。

駅舎の背面側には石造プラットフォーム等が付属する。プラットフォームの覆屋は長さ18m、幅3.4mで、現在車両が保存されているプラットフォームは上り方面・糠ノ目行きのホームとして使われた。

高畠鉄道1922(大正11)年3月16日に糠ノ目駅(1991年に高畠駅と改称)から高畠駅間5.2kmが開業、1924年8月31日に高畠- 二井宿間が開業し、糠ノ目・二井宿駅間の9駅10.6㎞を結んでいた。軌間は、狭軌1067mm。1929年9月1日に全線電化1934年(昭和9年)8月30日 高畠駅舎落成式挙行。1943年(昭和18年)10月1日 高畠鉄道、三山電気鉄道、尾花沢鉄道が合併して山形交通の運営となり、山形交通高畠線となる。1974年(昭和49年)11月15日全線営業終了。11月18日に全線が廃止された。

高畠鉄道は、高畠町周辺で製糸業が発展したため、工業製品の輸送を目的に敷設された。明治20年代から30年代にかけ、高畠でも長谷川製糸(竹森)や両羽製糸所(高畠)ほか多くの製糸場が操業を始め、33年4月には奥羽線糠ノ目駅(現・高畠駅)が開業した。人々の地場産業振興の意気が高まると、当然、製品の輸送についての関心が高まるようになった。このような背景の中で高畠鉄道が誕生した。この高畠鉄道は、戦前までは、宮城県七ヶ宿町湯原鉱山・二井宿の二重坂や金原鉱山の鉱石、二井宿・高畠の木材、木炭、牛、乳製品、石材、高畠・屋代の製糸、米、西洋梨・林檎・葡萄などの果物などの輸送が盛んに行われ、また、人々の足としてその役を担った。

貨物輸送は、戦後もトラック輸送にかわるまで続けられ、その他、到着原料、燃料(石炭など)の輸送もあった。昭和28年には、乗客約62万人(1日平均約1700人)を運んだ。

糠ノ目・高畠間の線路跡は「まほろばの緑道」として生まれ変わり、旧高畠駅公園には電気機関車、貨車、電車各一輌が静態保存されている。高畠駅舎、倉庫、変電所、自動車修繕庫等は国登録有形文化財である。

旧高畠鉄道高畠駅自動車修繕庫。

1939年建築。鉄筋コンクリート造平屋建、建築面積131㎡。長辺約17m、短辺約8m。車3台収容。

本屋の正面側広場にある自動車修繕庫。陸屋根の鉄筋コンクリート造であるが、外壁は全て高畠石張として本屋と調和させている。正面側は柱ニ本を立てて大きく開口を取り、背面側には窓三箇所を設ける。

高畠鉄道は早い時期から乗合自動車の運行を始めており、ここから南北を軸に乗合バスが運行された。

地方私鉄の駅前景観を今に伝えている。

旧高畠鉄道高畠駅倉庫。

1938年建築、1978年頃改修。石造一部鉄筋コンクリート造平屋建、鉄板葺、建築面積28㎡。

高畠石による小ぶりな倉庫。約5mのほぼ正方形。少量の火薬や油類を保管した。本屋と同じく梁、スラブには鉄筋コンクリートを併用する。腰部と上部で石材のサイズ、割り付けを変えてアクセントをつける。現在ではほとんど失われた、かつての地方私鉄駅の景観を構成する建物である。

旧高畠鉄道高畠駅変電所。

1929年頃建築。石造一部鉄筋コンクリート造平屋建、鉄板葺、建築面積57㎡。

昭和4年9月に高畠鉄道が電化された時に建設されたと思われる。本屋等と同じく高畠石による石造に鉄筋コンクリート造を併用している。内部は一室で漆喰仕上。高畠駅の景観のみならず、早期に電化されたという高畠鉄道の歴史の証左となる建物である。

電車・モハ1。

電化の際に導入したオリジナルの小型車。日本車輌製造にてデハニ1として製造され、1959年西武所沢車両工場で車両更新を受けモハ1となった。

電気機関車・ED1。

高畠鉄道が1929年電化時に川崎車輛で製造した凸形電気機関車キ1。東京横浜電鉄デキ1(東急デキ3021)・伊勢電気鉄道501・502(近鉄デ1・2)とほぼ同形。ED2入線後は予備機となった。

貨車・ワム201。

なお、三等客車ハフ11は、多くの乗客に愛された「マッチ箱」とよばれた小さな客車で、青梅鉄道で「メ4」として使われた後、大正13年に高畠鉄道に譲渡されて「ハ2」となり、さらに昭和11年雄勝鉄道(秋田県)で「ハフ11」として使用された。のちに愛知県犬山市の博物館明治村に遷された。

 

このあと、北の羽山古墳へ向かった。

山形県高畠町 阿久津八幡神社と三重塔