いちご畑よ永遠に(旧アメーバブログ)

アメーバブログ「いちご畑よ永遠に(旧ヤフーブログ)」は2023年7月に全件削除されましたが一部復活

読書メモ 「海の向こうから見た倭国 」高田貫太 

2024年09月05日 09時04分05秒 | 歴史

「海の向こうから見た倭国 」高田貫太、2017年、講談社。

 

東萊(トンネ・釜山)萊城(ネソン)遺跡。鉄器工房。土器の多くが弥生土器。北部九州の弥生人の住居。泗川勒島遺跡。沿岸の要衝。弥生土器出土。AD2世紀に衰退。金海に集中するようになる。狗邪国が交易の中心となる。良洞里遺跡。港と墓。

 

古金海湾3世紀後半。国際交易港。官洞里遺跡。復元された船着場がある。北部九州・山陰と交易。丘上の新文里遺跡から土師器系土器が出土。東萊貝塚も港跡。

大成洞古墳群。王族墓地に倭の碧玉製品や巴形銅器。筒形銅器。倭と金官で出土。振ると音が鳴るように小石を入れ、槍や儀仗の先端に取り付ける。金官の威信財を日本各地で入手したか。

金海竹谷里94号石槨墓。倭系の冑を副葬

 

東萊と新羅5世紀前半に倭へもたらされた半島系の品々には、東萊の福泉洞古墳群出土副葬品に似たものが多い。従来は金官伽耶と倭の交渉の反映とされたが、東萊は新羅に統合されていたとする説がある。

東萊では5世紀初めに新羅系土器・鹿角飾りの金銅製冠が副葬されるようになる。主体性があったとみるか間接支配されていたとみるか判断が分かれる。

筆者は独自性を保っていたとする。墓制では丘陵に低い墳丘を築き、埋葬施設も木槨や竪穴式石室を採用し、新羅特有の積石木槨は少ない。三累環頭大刀という東萊独自の威信財。福泉洞1号墳の副葬品は新羅系冠のほかに馬具や耳飾は百済・大伽耶系、槍は倭系、土器は小伽耶系を含む。そのうえで、新羅の対倭交渉の仲介にあたった。高塚群を築く蓮山洞古墳群のあとに新羅は東萊の外交権を掌握した。蓮山洞古墳群はまだ独自性をもつ。竪穴式石室。倭系甲冑。倭王権からの贈り物。

 

日本の古墳での半島系副葬品の変遷4~5世紀前半は金官伽耶系、5世紀後半は大伽耶系、6世紀前半は百済系金官伽耶と河内政権大伽耶と雄略朝百済と継体朝との関連。

高句麗南下のため金官伽耶が衰退(532年新羅に編入)し、大伽耶が百済の影響のもとに台頭。

 

大伽耶。王陵は高霊の池山洞古墳群。大伽耶系垂飾付耳飾。馬具の鐙のうち、柄が細く長い長柄輪鐙で、出土は九州に多い。金官伽耶と新羅は短柄輪鐙で出土は畿内に多い

大伽耶系の耳飾は宮崎・兵庫・福井・千葉など海に面した古墳に副葬。内陸では高崎の剣崎長瀞西遺跡の渡来人遺跡から出土。畿内には少ない。

5世紀中頃の池山洞32号墳には倭系甲冑(金海博物館所蔵)が含まれる。

6世紀百済が南部へ進出し、大伽耶は衰退する

 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。