いちご畑よ永遠に(旧アメーバブログ)

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山形県の離島 飛島①酒田港の保安船 テキ穴遺跡

2024年12月31日 09時02分43秒 | 山形県

日和山公園の木造六角灯台と酒田海上保安部所属船艇。酒田港。

2024年9月12日(木)。

本日は、日本海に浮かぶ離島である飛島(とびしま)の見学である。飛島へ向かう客船が出航する酒田港は「さかた海鮮市場」の隣にある。その前に酒田市北部にあるイオンで食料の補給をした。客船は9時30分に出て、10時45分に飛島勝浦港着。復路は13時45分発で酒田港15時着である。見学時間は3時間弱である。定刻どおり出航すると日和山公園の木造六角灯台と酒田海上保安部所属船艇が見えてきた。

20メートル型巡視艇べにばな (CL104)。

 総トン数26トン H11.3月就役。すずかぜ型巡視艇。CL(Craft Large)型。

高速特殊警備船つるぎ(PS201)

全長50.0m×幅8.0m総トン数 220トン H18.3月就役。PS型(Patrol Vessel Small=小型巡視船)。20ミリ機関砲装備。日立造船製。2001年竣工。

川のような酒田港から遠ざかる。

飛島の西方沖に浮かぶ烏帽子群島火山岩でできた島々で、熔岩がゆっくりと冷えて固まったときにできる六角形の柱状の岩石(柱状節理)がたくさん見られ、地元では「材木岩」とも呼ばれている。

烏帽子群島の隣に位置する御積島(おしゃくじま)粘り気の強い溶岩でできた島で、北側にある洞窟の内部は黄金色に輝くうろこ状の岩壁になっており、そのため龍が住む神秘的な場所として、北前船の船乗りや島民に信仰され、今も女人禁制の島として崇められている。うろこ状の岩壁になった要因はウミネコが関係しているといわれている。

飛島は、山形県酒田市に属し、酒田港から北西39㎞の沖合に浮かぶ。面積は2.75k㎡。最高標高は68m。島の平均標高は約50mで平坦な台地状の地形である。

山形県で最も北に位置し、本土からの距離は秋田県のほうが近い。古来、新潟県の粟島、佐渡島とは一直線に結ばれた海の道であり交流があった。

山形県唯一の有人島で島の東側(本土に面した側)の勝浦、中村、北側の法木の計3ヶ所の集落によって構成される。人口は 146人(2024年7月)。

飛島は約1000万年前に海底噴火によって形成され、奥尻島まで続く海底山脈の一部が海面上に出て島となって海底から飛島地塊が聳え立つ。900万年~ 200万年前に隆起や断裂、陥没により海盆や地塊が形成された。200万年~ 1万年前までに地塊は台地状になり、段丘が形成されたと考えられる。

 

島内では、縄文時代早期の終わり頃(約6000年前)などの遺物を出土する葡萄崎遺跡が最古の人類居住の痕跡を残す。葡萄崎遺跡に近い蕨山遺跡からは、東北地方北部の円筒系の土器(円筒上層b式期)と、東北地方南部の大木系土器(大木7b式期)が共に出土した。島内の台地上には、縄文時代のほぼ全期間を通して人々が住んでいたことを示す遺跡が分布する。弥生時代・古墳時代の遺跡は見つかっておらず、この期間には、飛島は生活の舞台とはなっていなかったと考えられる。

島の海岸に面した洞窟遺跡「テキ穴遺跡」からは、9世紀から10世紀前半頃の平安時代の人骨や須恵器、土師器、骨角器などが発見された。人骨は鶴岡市の致道博物館に展示されている。

平安時代には阿倍氏、清原氏の支配下に置かれた。15世紀には、羽後の豪族仁賀保氏の所領となる。戦国時代末期に仁賀保氏が常陸国武田へ移封されると最上氏の所領となった。最上氏、酒井氏が支配した近世には、特産のスルメを年貢として課されていた。

江戸時代には庄内藩の所領であり、酒田港に出入りする北前船の潮待ち港や、水や食料の補給港として重要な位置を占めた。

1996年、西海岸の荒崎が日本の渚百選に選ばれ、2016年「鳥海山・飛島ジオパーク」として日本ジオパークに認定された。

勝浦集落にある勝浦港と酒田市の酒田港の間で、酒田市定期航路事業所により定期船である貨客船「とびしま」が運航されている。所要時間は約1時間15分。

島内にバスやタクシー、レンタカーなどはない。観光用無料自転車および有料の電動アシスト自転車がある。島内は東側海岸線と島中央部の台地上に道路が走っており、大部分が平坦であることから、自転車での移動は容易である。

飛島の勝浦港に着いた。無料自転車は東に100mほどの場所に置いてあったので借りた。東から反時計回りに海岸から台地に上がり、西方向へ一周することにしていた。まず、東京都内で交通違反をした反則金納付が最終日になっていたので、飛島郵便局へ立ち寄った。納付書の書式が珍しいと言われて時間がかかった。その間にATMから数万円引き出した。その後、東に進みテキ穴遺跡へ向かった。

テキ穴遺跡。

勝浦と中村の境界であるホグラ岬の剣ヶ峯にある海食洞で、デデッポ(山鳩)穴の俗称もあるが飛島洞窟とも呼称する。平安時代の9世紀前半と10世紀前後に居住した人骨と土器類が発見されている。洞窟は海岸線に沿った道路際に入口がある。

開口部は幅、高さ共に1.5mほどであるが、洞窟内は三叉状になって3つの洞により構成され、入口より約25mで逆V字形に左折した第三洞で人骨や土器類が発見された。第3洞は奥行きが23m、天井部の高いところで4m、幅広いところで5mある。

人骨は22体分あり、共に出土した土器類から9 - 10世紀の年代が考えられる。人骨は鶴岡市の致道博物館に展示されている。

人が1人通れるくらいの狭い穴がつづく。中はひんやりと暗く、異質な空間である。

奥には深入りせず途中で引き返した。

とびしま総合センターへ立ち寄って、展示はないか、と尋ねると、ない、と言われたのでトイレだけ借りた。ここから台地上へ自転車を押しながら登った。小物忌神社への標識があり、鳥海山の大物忌神社と対をなす神社というので見学したかったが、時間を要しそうだったので諦めた。台地上の車道を西に進み、西海岸の荒崎海岸へと脇道へ入った。

 


山形県鶴岡市 重文・鶴岡カトリック教会天主堂

2024年12月30日 08時57分48秒 | 山形県

重文・鶴岡カトリック教会天主堂。山形県鶴岡市馬場町。

庄内藩家老末松十蔵屋敷跡の武家門の中に建つ聖堂は、異彩を放ちながらもこの街の風情と調和し、布教活動の拠点となり、また、市のシンボル的建築物となった。

高さ23.7m、正面の幅10.8m、主棟奥行き23.75m、木造瓦葺きの瀟洒な天主堂は、フランスのデリヴランド教会をイメージして建てられたといわれる。

2024年9月11日(水)。

16時過ぎに致道博物館を出て、東近くの鶴岡カトリック教会天主堂へ向かった。マリア幼稚園を併設しているらしく幼稚園児が帰る送迎時間と重なって駐車場が満車だった。周囲を一周して戻っても駐車できなかったので、16時20分頃に路上駐車して敷地に入り、帰路に着く園児たちを見ながら教会の中に入った。

鶴岡カトリック教会天主堂は、フランス人ダリベル神父の全財産と寄付により庄内藩家老屋敷跡に1903年(明治36年)に建てられた

ヨーロッパ中世のロマネスク様式教会建築の傑作として国の重要文化財に指定された教会で、赤い塔屋がひときわ目を引く白亜の教会である。天主堂には、高い天井の曲面(リブ・ヴォールト天井)が設けられている。

バジリカ型三廊敷きロマネスク様式の教会建築物は、東北地方ではこの様式最古のものとされる。

設計は、日本における教会堂の建築設計を数多く手掛け、宣教師としても精力的な活動をしたフランス人パピノ神父最後の設計によるもので、日本人大工の相馬富太郎が棟梁となって建築したと言われている。

パピノ神父は、佐渡の両津教会や1889年7月に竣工し博物館明治村へ移築された聖ザビエル天主堂として現存する初代京都河原町教会聖堂「聖フランシスコ・ザビエル大聖堂」の設計者として知られる。

入口上のパイプオルガン。

日本で唯一黒い聖母像の「黒い聖母マリア像」がある天主堂として知られる。

聖堂の左側にある副祭壇には、聖母マリアがイエスを抱きかかえている日本でただ一体の「黒いマリア像」が安置されている。

1903年に天主堂ができた記念にフランス、ノルマンディー州、ドーバー・ラ・デリヴランデのデリブランド修道院から寄贈された「黒いマリア像」で、ノートルダム・ド・ラ・デリヴランデ聖堂にある黒い聖母像の複製として、フランスで作られた木の芯に石膏を被せたものである。

窓絵。

窓にはステンドグラスではなく、絵が描かれた透明な紙を2枚のガラスで挟んだ絵窓と呼ばれるものが使用されている。日本で絵窓が使われているのは、この建物が唯一である。

左右には12枚のキリスト殉教図「十字架の道行」が並べられている。

 

路上駐車だったので5分もたたずに車に帰った。本日の見学を終え、定宿となった三川町の道の駅「庄内みかわ」へ向かった。翌朝は酒田港から離島の「飛島」への日帰り観光から始まる。

山形県鶴岡市 致道博物館③重文・旧渋谷家住宅 田麦俣の多層民家


木村カエラ 「Snowdome」「You」「Level42 」「happiness!!!」

2024年12月29日 08時10分26秒 | 音楽

木村カエラ 初期名作集

 

「You」と「Snowdome」が最高の名曲

シングル「リルラ リルハ」 2005年3月30日、

「You」 2006年1月18日。

「Snowdome」2007年1月17日。JR東日本「JR SKISKI」CMソング(本人もCMに出演)。

ボーダフォンのCM「リルラ リルハ」で初めて注目した。シングル発売は3月だが、CMは2005年の初めだろうか。2006年新春に「You」がチャート番組で流れているのを聴いていい曲だと思った。

その後、アルバム「KAELA」「Circle」をレンタルコピーして、2012年に車の内蔵メモリーに入り、癒されている。

10年ほど前、you tubeで「TREE CLIMBERS」を見ていたら、この曲を桑田佳祐が21世紀最高のJロック曲と評価していることが評判になっていて、21世紀になってまだ10年も経っていないし、まだ名曲はでてくるだろうし、木村カエラには別の名曲もあるのにと、笑ってしまった。

2003年3月31日、テレビ神奈川(tvk)制作の朝の音楽情報番組『saku saku』でテレビ初登場。以後、2006年3月まで番組MCを務めた。『saku saku』はちょうどyou tubeが登場した2006年ごろからyou tubeで録画がupされていたのを見ていたし、最後の頃は実際にテレビで見たこともあった。2007年にライブを3回見た。

「butterfly」(2009年6月)は紅白に出場できた代表曲だが、名曲ではない。「リルラ リルハ」も飽きてくる。

初期名作集② 

You

リルラ リルハ

Twinkle

トゥリル トゥリル リカー

C-hildren

Dancing now

I ♥ hug

tea cup

はちみつ

 

初期名作集① 「Whatever are you looking for?」「Level42 」「happiness!!!」

「Whatever are you looking for?」思い思われて人は通り過ぎて

「Level42 」 心と身体がバラバラで 誰かのフリしたっていいじゃない

「happiness!!!」いつも幸せに抱かれたい

「untie 」こんなはずじゃない まだ未完成な私 伝えたいこと やりたいこと

「誰」

「You know you love me?」

「INVENTOR」

「あの頃」

シングルリリース:「Level42」2004年6月23日、「happiness!!!」2004年10月27日。

アルバム「KAELA」リリース: 2004年12月8日

 

 


山形県鶴岡市 致道博物館③重文・旧渋谷家住宅 田麦俣の多層民家

2024年12月28日 08時49分52秒 | 山形県

致道博物館。山形県鶴岡市家中新町。

2024年9月11日(水)。

 

美術展覧会場。

婦人図(横光利一夫人)。荒井篁一郎。

重文・旧渋谷家住宅。

出羽三山のひとつ湯殿山麓の山村、鶴岡市(旧朝日村)田麦俣1822年(文政5年)に建てられた多層民家である。一重三階寄棟造茅葺き。

深い雪と山峡の険しい土地に建っていたため、生活に適応して3層4層に空間を求めたつくりとなっている。田麦俣には、谷あいに数多くの多層民家がみられたが、急速に姿を消したため、1965年(昭和40年)に当地へ移築された。

明治以降、養蚕を生業としたため、2階3階や屋根裏部屋までも養蚕などの作業場・収納場として有効活用していた。これに伴い、通風や採光を目的とした高ハッポウとよばれる高窓が取り付けられ、その結果、妻の部分の屋根を切り上げた独特の形状である兜(カブト)造りといわれる均整のとれた美しい茅葺き屋根となった。

茅葺屋根の防虫を目的とした火焚き(囲炉裏に火を入れ、煙で燻す作業)が毎年1月から3月頃までの期間で行われている。

 

重要有形民俗文化財収蔵庫。

当館で収蔵している民具のうち、次の8件5,350点が重要有形民俗文化財に指定され、「庄内の米作り用具」を除き、この収蔵庫で展示されている。

1)「庄内地方のバンドリ」116点(1963年指定)

2)「庄内地方の木製酒器」77点(1964年指定)

3)「庄内地方の仕事着」126点(1966年指定)

4)「大宝寺焼」234点(1967年指定)

5)「庄内山村のくりもの」250点(1972年指定)

6)「庄内浜及び飛島の漁撈用具」1,937点(1975年指定)

7)「最上川水系の漁撈用具」810点(1982年指定)

8)「庄内の米作り用具」1,800点(1990年指定)

16時ごろ入口方向に戻る。

このあと、近くにある鶴岡カトリック教会天主堂へ向かった。

山形県鶴岡市 致道博物館②重文・旧鶴岡警察署庁舎 御隠殿 鶴ヶ岡城 酒井玄蕃

 


プーチンのロシア独裁国化の方法と国民意識への帰結

2024年12月27日 17時14分22秒 | 社会

プーチンのウクライナ攻撃を支える“まさかの世論”…ロシア国民の本音がヤバすぎた

Yahoo news  2024/12/27(金)   ダイヤモンド・オンライン 駒木明義

 

2024年3月の大統領選挙で圧勝し、最長で2036年まで大統領を務めることが可能となったプーチン大統領メディア弾圧や選挙制度の操作など、彼はいかにしてロシア国民を“骨抜き”にしてきたのか。

※本稿は、駒木明義『ロシアから見える世界 なぜプーチンを止められないのか』(朝日新書)の一部を抜粋・編集したものです。

 

自由なメディアを潰し首長選挙を形骸化 プーチンによって民主主義が失われた

茶番と化したのは、大統領選だけではない。より根本的な問題は、言論の自由、情報公開、地方自治、政権を監視するメディアや議会の存在といった、民主主義が健全に機能するために必要不可欠な前提条件が、プーチン氏の統治のもとですっかり失われてしまったところにある。

 

プーチン氏は2000年に大統領選に初当選したころは、エリツィン前大統領の路線を受け継ぐ西側志向の指導者だと受け止められていた。しかし、民主主義の形骸化を進めたという点については、プーチン氏の姿勢は、政権の座についた直後から一貫していた

2000年に大統領に就任したプーチン氏が真っ先に標的にしたのは、自由なメディアだった。チェチェン紛争の悲惨な実態を伝える報道辛辣な政治風刺番組で人気を集めていた民間テレビ局NTVは、オーナーが詐欺などの嫌疑をかけられて追放され、政府系企業の傘下に入った。

日本の都道府県に相当する、州や地方といった「連邦構成主体」の首長選挙は、2004年9月にロシア南部北オセチア共和国のベスランで起きた学校占拠テロを機に廃止され、大統領による任命制が導入された。

首長公選制は2012年に復活した(一部の地域では、議会による間接選挙制)が、実態としてはその後も大統領による事実上の任命制が維持されている。

その仕組みはこうだ。政権が首長を交代させたいときには、まず現職に辞任させ、プーチン大統領が意中の候補を首長代行に任命する。このため首長代行はその後に行われる本番の選挙に、事実上の現職として臨むことができる。

つまり日本とは異なり、首長が任期途中で退陣した場合、後任を選ぶ選挙は新人同士の争いにはならないのだ。こうして選挙は形式的な信任投票の色彩が濃くなる。

実態として、プーチン政権下で、首長職は大統領府が任命権を持つ重要ポストの一つという扱いになっている。そんな首長たちが政権にたてつくことなどあり得ない。

大統領府から任命された首長たちは、常時大統領府から厳しい査定を受けている。大統領選や議会選での投票率や与党候補の得票率は、特に重視されているようだ。

 

チェチェン攻撃にはあった議会からの弾劾 プーチン政権下では想像さえできない

かつては大統領と激しく対立することもあった議会も巧妙に手なずけられた。2007年の下院選を機に小選挙区制が廃止され、比例代表区で当選に必要な最低得票率が5%から7%に引き上げられた

これによって、一部の地方で個人的な人気がある反政権派の有力政治家や、小政党が締め出された。その後、選挙制度はほぼ元に戻されたが、すでに批判勢力が議席を獲得することは困難な状況となっていた。

プーチン氏の前任のエリツィン時代、大統領と議会の関係はまったく異なった。エリツィン氏は下院から3回も重大犯罪を理由に弾劾の手続きを受けた。

特に1999年のケースがよく知られている。今はすっかり牙を抜かれてしまった共産党が、エリツィン氏への弾劾手続きの音頭を取った。問われた罪状は5件。その中には、エリツィン氏が1994年12月に開始したチェチェンへの大規模な攻撃も含まれていた。

共産党はこの紛争を引き起こしたエリツィン氏の大統領令について「多数の犠牲者をもたらした犯罪行為だ」と主張した。

1999年5月に行われた下院での採決の結果、定数450のうち過半数の284人が弾劾に賛成票を投じた。しかし、手続きの継続に必要な300票には届かず、弾劾には至らなかった。

大統領令で始まった軍事行動に対して下院から犯罪に問う声が上がること、ましてそれが過半数の賛同を集めることなど、今となっては想像もつかないことだ。

プーチン氏はこのとき、KGBの主要な後継組織として国内の治安を司る連邦保安庁(FSB)の長官を務めていた。弾劾のなりゆきをつぶさに観察していたプーチン氏が、議会を政権に逆らえない存在にする必要があると痛感したことは間違いないだろう。

2011年の下院選では、不正疑惑に怒った市民がモスクワなどで大規模な抗議デモを行った。その翌年、プーチン氏が4年ぶりに大統領に復帰すると、選挙監視団体などを「外国の代理人」に指定する制度が作られ、活動が抑え込まれた。

「外国の代理人」制度は、導入当初は外国からの資金援助を受けてロシア国内で政治的な活動をするNGOが対象だった。それが2017年にマスメディア、2019年に個人へと対象が広がった

さらに2022年2月のウクライナ全面侵攻開始後、資金提供の事実を立証できなくても「外国の影響下にある」と政府が認定すれば指定できるようになり、侵攻を批判するジャーナリストや文化人らが軒並み指定されてしまった。

政権にとって目障りな有力者に好き勝手に「非国民」のレッテルを貼るための制度と化してしまったのだ。

 ちなみにロシア語で外国の代理人は「иностранный агент」と書く。「агент」は英語の「agent(エージェント)」に相当する。「スパイ」や「工作員」といった語感を持つ言葉だ。

 

プーチンが絶対権力を手にした結果 国民は国家に対して無責任になった

一連の動きに通底するのは、民主主義やそれを支える制度の背景にある思想や歴史を軽視し、形だけのものだと冷笑的に理解し、操作する対象としてとらえる傾向だ。これは、プーチン氏がKGBで工作員としてのキャリアを積んだことと無関係ではないだろう。

ロシアでは本来違法とされている民間軍事会社「ワグネル」を設立し、個人的な友人だったプリゴジン氏をトップに据え、軍が表立って行えないような工作や作戦に従事させたことも、民主主義の軽視と同根だ。

 

2020年にプーチン氏が進めた憲法改正は、こうした取り組みの集大成と言えるかもしれない。これまでの大統領任期をいったんリセットすることで、プーチン氏がさらに2期12年、最長で2036年まで大統領を務めることを可能にしたほか、大統領経験者の生涯にわたる不逮捕特権が新設された。

「祖国防衛者の記憶の尊重」や「歴史的真実の保護」を国家の責務と位置づける条項も導入された。その背景には、ソ連をナチスドイツと並ぶ占領者としてとらえるバルト三国や旧東欧の国々の歴史観への反発がある。政権とは異なる歴史解釈を許さないという考えは、ウクライナ現政権への「ネオナチ」のレッテル貼りに通じる。

「在外同胞の権利を擁護し、ロシアに普遍的な文化的アイデンティティーを維持することを支援する」という新たに盛り込まれた条項も、ウクライナ全面侵攻への道を用意する役目を果たしたと言えるだろう。

改正憲法には、プーチン氏が近年重視している復古主義的な道徳観の数々も盛り込まれた。

 

すでに四半世紀に及んでいるプーチン氏による統治の深刻な帰結は、ロシアという国家の行為に対して、国民一人ひとりが責任を負っているという自覚の欠落だ。

ウクライナ戦争についての世論調査がそのことを浮き彫りにしている。

2022年12月にレバダセンターが「ウクライナで起きている一般住民の死や破壊について、あなたに道義的な責任があると思いますか」と尋ねた調査では、「完全にある」と答えたのはわずか10%。「ある程度ある」も24%にとどまった。一方で、59%もの人々が「まったくない」と答えたのだった。

もともとロシアの国民は、年金や物価の問題を巡って政権に反発することはあっても、外交や軍事といった分野は自分たちとは関係ないと考える傾向が強い議会、報道機関、地方自治が骨抜きにされて、そうした問題が公然と批判される場がなくなってしまったことで、ますますその傾向は強まっている。