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読書メモ 「倭の五王- 王位継承と五世紀の東アジア」河内春人、2018年

2024年09月17日 09時00分43秒 | 歴史

「倭の五王- 王位継承と五世紀の東アジア」河内春人、2018年

 

倭の五王とは、中国史書『宋書』倭国伝に記された讃・珍・済・興・武をいう。266年に西晋へ邪馬台国が遣使して以来交信が途絶えてから1世紀後、421年に東晋へ使者を派遣した王讃から遣使が始まった。当時、朝鮮半島では高句麗・百済・新羅が争い、倭もその渦中にあった。

有力説では、讃は仁徳、珍は反正、済は允恭、興は安康、武は雄略である。

 

4世紀後半は佐紀古墳群から古市古墳群へ移る時代。

中国の分裂をめぐる抗争と半島の情勢は連動していた。

高句麗遼東地域の前燕(鮮卑族慕容氏、都洛陽)に苦しめられていた。王族同士が争う前燕から高句麗へ政治的亡命が相次ぐ。342年前燕が高句麗を攻撃。369年東晋(都建康)が前燕を攻撃、高句麗は百済を攻めた。370年前燕は前秦(都長安)に攻められ滅ぶ。

371年百済の近肖古王は高句麗を攻め、高句麗王を戦死させる。百済は都を漢城に移し、最初のピークを迎える。372年江南王朝の東晋へ山東半島経由で朝貢。同時に倭へ石上神宮に伝わる七支刀を送り、対高句麗同盟を結んだ。

同時期、新羅は高句麗に随伴して前秦に朝貢。高句麗は新羅を属国扱い。383年前秦の符堅は東晋を攻めるが、淝水で敗北、394年に前秦は滅亡。遼東半島は流動化し、高句麗が遼東を攻めるが、後燕が反撃。高句麗は中国からの流民を受けいれて、人材として登用した。高句麗は百済と抗争を繰り返し、半島西岸部は緊張化。

391年高句麗の広開土王即位。広開土王碑は414年に息子の長寿王により立てられた。399年に倭人撃退。404年に倭と海戦。364年・393年新羅は倭を撃退。広開土王碑の「391年に倭が百済・新羅を攻めて臣民化した」の記事。実際にはその事実はない。高句麗が半島南部へ攻勢を強めれば、必ず倭の姿が見えた。百済と外交関係を結び、伽耶諸国とも結び、新羅に圧力をかける不気味な存在だった。400年新羅に侵攻した倭軍は初めて高句麗の騎馬軍に攻撃され惨敗する。倭は五王の時代に馬を導入した

 

405年百済王が亡くなり、倭から腆支が護衛を付けられて帰国し王に即位。

413年高句麗の長寿王即位。倭国使を引き連れて東晋へ遣使。高句麗が倭国使を捏造。

百済は高句麗に敗れ、倭国と同盟を強化していた。百済王は長子の腆支(てんし)を倭へ人質として出す。人質は外交官的役割を担う。420年東晋が滅び、宋が建国。宋は高句麗王を征東大将軍、百済王を鎮東大将軍に任命。

421年倭が宋へ遣使。官爵を与えられた。倭国は高句麗と百済が東晋から重視されたことを傍観できなかったので遣使した。倭は倭国王号と安東将軍号を授与されたとみられる。征東、鎮東、安東の順で格付けされる。将軍府を設置、司馬、従事中郎、参軍などの府官を置く。高句麗は広開土王のとき府官制を開始、百済も採用。先進的な中国の統治システムを導入。

425年、讃は司馬曹達を派遣。中国系知識人は倭王にとり他の豪族に対する優勢さを示す。

東アジアにおける競合は高句麗を起点とし、百済が張り合い、倭国は百済を模倣する構造で、倭は政治的機構を整備しようとした

 

438年、讃の弟・珍が即位直後に到来。使持節・都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事」の要求。安東将軍、倭国王のみ認められる。百済と同格の官爵を要求。当時の倭は倭王権を頂点としながら各地の豪族とゆるやかにつながっているにすぎない状況で、豪族たちから国王として承認される必要があった。国王を介して国内の王族・貴族は官爵を得る。王が仮授し、中国に報告して事後承諾を得る仕組みにより、王への従属度が高まる。

珍も宋へ王族・豪族たちの将軍任命を要求し、認められた。倭隋以下13人に平西・征虜・冠軍などの将軍号が認められた。倭隋だけは珍と同格であった。古市古墳群と百舌鳥古墳群は王族集団が二つあったことを裏付ける。

 

439年北魏が華北を統一。百済と倭の通交は428年から461年まで中断。442年に倭が新羅を攻めるが、新羅の計略により大伽耶に矛先を変える。当時の倭国軍は豪族が配下の兵を連れて参加する構造。豪族たちはそれぞれ個別に半島と関係した。対高句麗では統一して行動したが、新羅や加羅との関係は豪族ごとに異なり、新羅と友好関係にあるものもいた。433年に百済と新羅が通交連携したので、倭の国際的地位が低下することを怖れ、珍が半島で軍事行動を起こしたか。

443年倭済が遣使。珍との続柄は不明。仁徳以降6代の王位継承には王族間で凄惨な争いがあった。倭済は倭隋の王族集団出身か。済は珍の官爵を引き継いだ。

 

450年に北魏が宋へ侵攻、宋は大敗し国勢が傾く。新羅が高句麗から離反する。

451年倭済が遣使。初めて「使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事」に任命される。伽耶地域の任那(金官国)だけでなく加羅国(大伽耶)の軍権も認めた。23人の将軍号仮授承認も要求。459年、462年、463年に倭国は新羅を攻撃。455年に即位した百済の蓋鹵王は倭国との同盟を強化して高句麗と対決。461年百済は倭国に王弟昆支を派遣。

462年世子の興が遣使。当時の王位継承は近親間で事前に定めるものでなく、常に争われた。

 

高句麗の長寿王は宋よりも北魏を重視し、半島南進への介入を防ぐ。新羅への侵攻を企図、470年新羅は三年山城を築く。469年北魏が山東半島を占領。472年百済は北魏へ朝貢。475年高句麗の長寿王は百済の漢城を落城させ、蓋鹵王を殺す。百済は熊津へ遷都。

477年の倭国王遣使には王名がない。前王興の遣使で、興は急死したか、

478年倭国王武が遣使。「使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事」安東大将軍を認められる。百済への軍権は認められない。倭国王から倭王になり、外臣扱いに昇格された。高句麗との対抗意識。鉄を半島南部に依存する倭にとり高句麗南下は脅威。上表文。中国系人士の存在。武の先祖は征服戦争をしたのか。古墳時代に列島社会で大きな戦争は確認できず、史実ではない可能性。逆に上表文の存在がヤマトタケル伝承を生み出したか。高句麗との対決は、百済の弱体化により倭が盟主となり実行する現実的情勢があり、倭は宋にそのための官爵を要求した。

 

倭の五王の比定。結論はない。王統譜の記憶のあいまいさ。4・5世紀の王族集団と各地の豪族は相互の合意により政治的に結合した。相模や甲斐で前方後円墳を造らなくなる豪族がいる。地域豪族から王族集団との関係を解消したようだ、両者の関係は必ずしも王族集団側にイニシアティブがあるとは限らず、状況によっては豪族のほうが政治的関係のあり方を判断することもあったようだ。

始祖王ホムタワケは王権系譜は画期として意識された。百済から七支刀を送られたのは応神天皇の可能性がある。

倭王武以降、中国への遣使がないのは、倭国内の政治的混乱のためで、武が強力な権力を作り上げたという考え方とは合致しない。また、479年の宋滅亡により、中国王朝の正統性が消失したため。継体大王は複数の王統から最有力者が即位する方式から近親が引き継ぐ方式へと変えて王位継承を安定化させた。



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